<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom"><title>全能神の救い</title><link href="https://salvationgod.amebaownd.com"></link><subtitle>堕落した人類が受肉する神の救いをさらに必要とすると言われるのはなぜか。</subtitle><id>https://salvationgod.amebaownd.com</id><author><name>全能神の救い</name></author><updated>2020-01-22T07:01:35+00:00</updated><entry><title><![CDATA[「玉座から命の川の水が流れ出る」から、その四「裁きの仕事の意義」]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7630138/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7630138</id><summary><![CDATA[🌸あらすじ私たちは主の恵みを受けてすでに救われました。なぜまた全能神の世の終わりの裁き、清めの仕事を受け入れてこそ天国に入れるのでしょうか？この短編映画があなたのためにその奥義を開きます。🌸もっと見るキリスト教映画「勝利の凱歌」抜粋シーン（2）現代のパリサイ人を見抜く方法キリスト教映画「足枷を解いて走れ」抜粋シーン（４）宗教的パリサイ人の縛りから逃れ神の下に帰りなさい 日本語吹き替え]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-22T07:01:35+00:00</published><updated>2020-01-22T07:01:35+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>🌸あらすじ</p><p>私たちは主の恵みを受けてすでに救われました。なぜまた<a href="https://jp.godfootsteps.org/" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>全能神</b></a>の世の終わりの裁き、清めの仕事を受け入れてこそ天国に入れるのでしょうか？この短編映画があなたのためにその奥義を開きます。<br></p><p><br></p><p>🌸もっと見る</p><p><a href="https://jp.godfootsteps.org/videos/how-to-discern-modern-pharisees.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">キリスト教映画「勝利の凱歌」抜粋シーン（2）現代のパリサイ人を見抜く方法</a><a href="https://jp.godfootsteps.org/videos/break-free-from-bondage.html" class="u-lnk-clr"><br></a></p><p><a href="https://jp.godfootsteps.org/videos/break-free-from-bondage.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">キリスト教映画「足枷を解いて走れ」抜粋シーン（４）宗教的パリサイ人の縛りから逃れ神の下に帰りなさい 日本語吹き替え</a><br></p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[YouTubeからのお知らせのおかげで私は主と再会できたのです]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7625697/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7625697</id><summary><![CDATA[韓国李蘭（イ・ラン）生きていると、偶然の出来事が予期せぬ結果につながることがあるものです。数か月前、私の身に思いもよらない、素晴らしいことが起こりました。Youtubeからのお知らせのおかげで、私は主と再会できたのです。六月のある朝、私は早く目が覚め、いつも枕元に置いてある聖書を静かにぱらぱらとめくっていました。そして主イエスがパリサイ人たちを叱責された時に言われた御言葉を読みました。「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」（マタイによる福音書 21:13）これを読んで私は不安を拭えませんでした。私の教会の状況が、律法の時代の末期の神殿の状況と全く同じになっていたからです。私の教会では牧師や長老が、信徒たちは互いに愛し合わなければならないとよく説いているのに、実際は彼ら自身が教会員のために祈った代償として彼らから現金の贈り物を受け取っていて、時には受け取った金額でその贈り主のために祈る時間を決めたりもしていたのです。教会は神を崇拝するための場所であるはずですが、ただ信徒が結婚式を挙げる所になってしまっていました。信者の数は日に日に少なくなり、牧師や長老は説教に力を注がなかったり、主の信徒たちを最も良く牧するよう努めなかったりして、替わりに結婚式を執り行うのを楽しんでばかりいました。私は、「牧師や長老は主の道から外れて、教会はもはや外の世界と何ら変わりがない。まさに律法の時代の末期の神殿みたいに強盗の巣となってしまった。それでも主は再臨される際に、こんな教会に現れてくださるだろうか」と考えずにはいられませんでした。「ビー、ビー、ビー」目覚ましのアラームが私の考え事を断ち切りました。携帯電話を手に取って音を止め、偶然目にとまったのがYouTubeからのお知らせでした。一見なじみがあるような「全能神教会」という語句が目を引きました。以前どこかで聞いたようだと思いましたが、その時はどこでだか思い出せませんでした。とても不思議で、「YouTubeで全能神教会の動画にチャンネル登録したことなんてないのに、なんでYouTubeはこの教会のお知らせを私に送ってきたのかしら」と思いました。そして急に、一か月ほど前、友人に連れられて全能神教会での説教を聴きに行ったことを思いだしたのです。彼らの説教は新鮮で光が照らすようで、聖書に沿ったものでした。私にはとても爽快に感じられました。その話をもっと吟味してみたいと思いましたが、友人が言うには、全能神教会は、主が受肉した全能神として既に再臨され、終わりの日の新しい段階の働きを行い、多くの真理を表しておられると宣言しているというのです。また友人は、全能神教会の信徒はみな聖書ではなく全能神が発せられた言葉を読むのだと言いました。だから私は思ったのです。「牧師や長老たちが集会でよく言うのは、神の御言葉はすべて聖書に書いてあり、聖書の他に神の御言葉なり働きなりがあろうはずがないということ。それに、信徒たちはみな時代を越えてずっと聖書をとおして主を信じてきて、主を信じることは聖書を信じることなのだから、聖書から離れた者がそれでも主を信じているなどということがありうるだろうか」その友人は全能神教会での説教を聴きにいこうと私を誘いましたが、私はそのたびに断っていました。携帯電話の例のお知らせを見るにつけ、不思議に思えてなりませんでした。「チャンネル登録してもいないのに、全能神教会に関連する知らせが来た。主がそのようにされたってことがありうるかしら」それでも、自分の観念にこだわった私は、リンクに飛んで全能神教会動画を見ませんでした。しかし驚いたことに、その後の数日間に何度もYouTubeから、全能神教会がアップロードした新しい映画や讃美歌の動画のおすすめが来たのです。「主が本当に私をお導きになっているのではないか。私が全能神の動画を観ることが神の御意志なのか」そこで私は主に祈りました。「愛する主よ。なぜ全能神教会からのお知らせを携帯で受け取っているのでしょうか。彼らは主が既に再臨されたと宣言していますが、それは事実なのですか。これらの動画を見るべきですか。ああ主よ、どうか私をお導きください」その後、私は主イエスの「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」（マタイによる福音書 5:3）という御言葉について考えました。私は思いました。「そうだ。主の再臨はとても重要。主が戻られたという知らせを聞いたからには、全能神が本当に再臨された主イエスなのかどうか、心を開いて求め、真剣に吟味し、慎重に見分けなければ。私が求めたり吟味したりせず、主が本当に再臨されていたのだったら、私は主と再会するチャンスを逃すことになるのではないか」そう考え、私は全能神教会の動画を観ることにしました。主よ、感謝します。動画を観なければ、私は決して知ることはなかったでしょう。動画を観て初めて、YouTubeの全能神教会チャンネルには願ってもないほどのものが何でも揃っていることがわかりました。しかもその数は膨大なのです。福音の動画、合唱団の演奏、ミュージックビデオ、讃美歌、などなどです。あらゆる歌や福音の動画はすぐに私の注意を引き、特に「私の愛する方よどうか待っていて下さい」という讃美歌のミュージックビデオに深い感動を覚えました。これを観た時、私は所属教会の荒廃のせいで聖霊の働きのある教会をあちこちで探していた過去数年間の経験を思い出していました。動画を観れば観るほど、他の動画もどんどん観たくなりました。私はとてつもなく力づけられ、また全能神教会のことをもっと理解したい、調べたいと願いました。ある日、私は福音映画「私の主は誰か」から抜粋された「聖書と主とは、どんな関係でしょう？」というタイトルの素晴らしい動画を観ました。この動画の中の全能神の御言葉の一節が、非常に深く印象に残りました。「彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で預言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、あくまで言葉に固執した人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。」（『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より）全能神の御言葉は聖書に対する私たちの姿勢を完璧に明らかにしていました。心の中で私も実際、聖書を他の何よりも上にあるものと見ていました。主の御言葉はすべて聖書の中にあり、したがって聖書は主を代表しており、主への信仰を持つことは聖書を信仰することで、聖書から離れることは、その人が主を信じているはずがないことを意味するのだと考えていたのです。しかし、理解できないこともありました。聖書は主の証しです。私たちの信仰の基盤を成すもので、私たちクリスチャンは二千年間、聖書に基づいて主を信じてきました。そして聖書を主への信仰から分離させた人は一人としていません。ならばなぜ、全能神の御言葉には、聖書を神と同一視することはできない、とあるのでしょうか。それはどういう意味なのでしょうか。私はその動画を観続けました。次に、全能神教会の兄弟が説教をしました。「主を信じるとはどういうことですか？聖書を信じるとは？聖書と主とは、どんな関係でしょう？聖書と主と、どちらが先だったでしょう？では誰が、救いの働きをするんでしょうか？では聖書が、主に代わってできますか？聖書は主を代弁できますか？聖書を盲信して崇めることは、神様を礼拝することになりますか？聖書にしがみついて、御言葉の実践や体験ができるんですか？聖書にこだわるのが、主の道に従うことでしょうか？聖書を何よりも上に置くことは、主に従順で敬虔で、主を崇拝することですか？…何千年も、人々はやみくもに聖書を崇め、主と同じ地位を与えてきました聖書を主とその働きの代わりにする人さえいますしかし、誰も本当の意味で主を知らず、従順でもないパリサイ人たちは聖書にこだわり、主イエスを十字架にかけましたどういうわけでしょう？聖書を知ることが神様を知ることでしょうか？聖書にこだわれば、主の道にかなうんでしょうか？パリサイ人は聖書の専門家でも神様を知らなかったそればかりか、真理を表し贖いをされた主イエスを磔にしました私たちはそれを忘れたんですか？神様を知るとはどういうことです？聖書を解釈し理解するのが、神様を知ることですか？もしそうなら聖書を解釈したパリサイ人が、なぜ主イエスを非難し、敵対したんでしょう？真に神様を知り従えるかどうかは受肉したキリストを、知っていて従えるかどうか、そこで決まるんです。」この兄弟の問いかけについて熟考しながら、心の中で答えました。「確かに主が最初にいらっしゃり、それから聖書が現れた。そして聖書には人類を救う働きはできない。聖書は聖書、主は主。私はずっと聖書が主を代表していると信じていた。では、私は聖書を主より上にあると見なしてきたことにならないか？」こう考えて突然はっと気づき、思いました。「主は主であり、聖書は聖書。ならば牧師や長老が言うことに従って、聖書を偶像化して全ての上にあると見なしてきたことで、私は主の御心に従って実践してきたことになるのだろうか？」そして次に思いました。「聖書から離れたら、どうして主への信仰を真に主への信仰と呼べるのか。主への信仰において聖書に執着していた私たちは、まさか間違っていたのか？」ちょうどその時、主イエスが話された御言葉が私の頭に浮かびました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」（ヨハネによる福音書 5:39–40）この御言葉について深く考えて気づいたのは、聖書は神の証しに過ぎないということ、そして主の承認を受けていのちを得たいと望むなら、主を求めなければならないということでした。「聖書が主を代表することは本当にできないようね」と私は思いました。「私たちのいのちのためにほどこして下さるのは主であり、聖書ではない。そして聖書を信じることが主を信じることや主に従うことではない。もし聖書に盲目的に執着して偶像化し続け、神様の新たな働きを求めることも、従うこともしなければ、最後はパリサイ人同然になって神様を再び十字架にかけてしまいそう。全能神の御言葉には真理があり、私の観念や困惑を解消してくれる。主の再臨を歓迎するチャンスを逃さないように、真剣に吟味し求めなければ」こう思った私は、全能神教会のことを知るために、教会に連れていってほしいと友人に頼むことにしました。友人と私が全能神教会に着くと、兄弟姉妹が暖かく歓迎してくれ、それから私たちと根気よく交わってくれました。私はお願いしました。「最近、こちらの教会のホームページの映画や動画からたくさん学ばせてもらっていて、全能神の御言葉には真理があり、私の問題や困惑を解いてくれて、真理を理解させてくれると思っています。でもまだ理解できないことがあるんです。牧師や長老が私たちによく言うのは、神の御言葉はすべて聖書の中にあり、聖書が神への私たちの信仰の基礎であり、主を信じる者は聖書から離れるわけにはいかない、ということです。それでも、こちらでは主イエスが全能神として既に再臨され、終わりの日の働きの新しい段階を行われ、新しい御言葉を発せられていると宣言していますよね。これは一体どういう意味なのですか。これに関して私に話していただけませんか」チュ（周）姉妹が、映画「私の主は誰か」から抜粋された「神の働きと言葉のすべてが聖書の中にありますか？」というタイトルの素晴らしい動画を見せながら、私の質問に応えてくれました。映画に出てくる説教師が、語っていました。「旧約と新約聖書とは神様の働きの２つの段階の記録に過ぎません律法の時代と恵みの時代の御言葉と働きについてもすべてが記されていると言い切れますか？律法の時代に預言者を通じて語られた御言葉すべてと、恵みの時代の主イエスの御言葉すべてが、記録されたと言えますか？皆さんも、お気づきのはずですが主の御言葉は、その多くが、聖書にも記されていません聖書に記された主イエスの御言葉は、氷山の一角に過ぎないんです律法の時代の預言者の書の多くも、聖書には含まれていませんこれはよく知られたことです御言葉と働きが、すべて聖書にあるとは、言えないんじゃありませんか？事実と明らかに、矛盾していませんか？そういう意味では、あなた方は嘘つきでは？主イエスは何度も再臨を預言されました再臨した主の御言葉が前もって聖書に記されることがありえますか？これだけは、はっきりさせておきましょう聖書は過去の、神様の働きの記録なんです旧約聖書が記されたずっと後に、主イエスが現れ、恵みの時代に罪の贖いをされた、そうでしたね？では聞きますが、主イエスの御言葉は、自動的に聖書に記されるんですか？神様の御言葉と働きは、人が編纂して、聖書にまとめられたんです終わりの日に、全能神は来られ、裁きの働きを神の家から始められ、人々を清め救うための真理を表されましたこれらの真理が、自動的に聖書に書かれますか？まさか、そんなバカな、そうです全能神教会は全能神によって表された真理を、神の国の時代の聖書に記録しますそれが、『言葉は肉において現れる』神の国の時代の聖書には、神様の御言葉だけ人の言葉はありません言い換えれば『言葉は肉において現れる』は、終わりの日に、神様が人に与える、永遠の命の道なんですですから、神様の御言葉が、聖書にすべて記され聖書以外に、御言葉や働きがないなど、そんなことは、間違いであり、愚かであり人間の思い込みと想像の産物です」この説教師の話を聴いた後、それは事実に即していると感じました。聖書は私たちの神への信仰において使う参考書とはなりうるけれども、主を代表することはできず、ましてや主の御言葉や働きを代表することなどできません。正しく聖書に取り組まなければならず、聖書と主を同列と見なしてはならないと、ましてや神の働きや御言葉を聖書の紙面に限定してはならないとわかりました。聖書は、以前の二段階の神の働きを記録したものに過ぎず、律法の時代と恵みの時代の神の働きを記録しているのです。しかし神はあまりに偉大であまりに豊かです。なのにどうして聖書という一冊の本に神についてのすべてが収められるでしょうか。ヨハネによる福音書にはこうあります。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」（ヨハネによる福音書 21：25）どうやら主イエスの働きと御言葉のすべてが聖書に記録されているわけではないようで、それなのに私は宗教界の牧師や長老による解釈に沿って歩んできて、聖書にある神の働きと御言葉以外には神の働きや御言葉はないと信じてきたのです。なんと盲目的なばか者だったのでしょう。人の観念や想像に固執していたなんて。このような見方は全く擁護できません。その動画を観続けていると、説教師が全能神の御言葉を何節か読み上げました。「聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。」（『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義（1）」より）「当時、イエスは恵みの時代において弟子たちに一連の説教しか語らなかった。たとえば実践のしかた、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方などである。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、弟子たちやイエスに従う人々がどのように実践すべきかについてしか釈義しなかった。恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何もしなかった。…各時代の神の働きには明確な境界がある。神は現在の時代の働きだけを行い、次の段階の働きを前もって行うことは決してない。このようにしてのみ、神の各時代の代表的な働きは前面に引き出される。イエスは終わりの日のしるし、いかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどのように進入すべきか、どのように追求すれば神の心を満足させるかについては語らなかった。したがって、終わりの日の神の働きを聖書の中に捜し求めるのは誤った考えに基づく行為ではないだろうか。手に聖書を携えているだけでなにを見分けることができるのか。聖書の解釈者であれ説教者であれ、誰が今日の働きを予知することができようか。」（『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」より）「律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たいのなら、旧約を読まなければいけない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約を読まなければいけない。しかし、終わりの日の働きについては、どうすればいいのか。今日の神の導きを受け入れ今日の働きに入らなければいけない。これが新たな働きであり、誰も予め聖書に記録していないからだ。今日、神は中国で肉となり、新たな民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、恵みの時代の働きから続いて、地の働きを続ける。今日の働きの道は人間がかつて歩んだことのないもので、誰も見たことのないものである。それはかつて誰もしたことのない働きであり、それは神が地上で行う最新の働きだ。…どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が載っているだろう。誰が今日の働きの細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することができただろう。あのカビ臭い古い本に、この、慣習を破る、より大きな賢い働きを、誰が記録できるだろう。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければいけない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。」（『言葉は肉において現れる』の「聖書について（1）」より）説教師が神の御言葉を読み上げた後、映画の中で兄弟の一人が説教をし、言いました。「全能神の御言葉は、事実に即していますね聖書に載っているのは、律法と恵みの時代の御言葉と働きだけなんです終わりの日の働きは、事前に聖書に記すことはできません聖書に御言葉と働きのすべてがあると以前は言ってたけどそれは神様の働きの事実に即しません」神の御言葉と兄弟の説教を聴いた後、私は賛同してうなずかずにはいられませんでした。私は思いました。「その通りだ。神様がまだなさっていない働きについて誰が聖書に書けるというの。今ようやく、ヨハネの黙示録の第５章第５節を理解したわ。『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』ここで言われているのは、七つの封印で閉じられた本は終わりの日に主が再臨されて初めて開くことができるということで、つまり、主には聖書には記録されていない、これから言われる御言葉とこれから行われる働きがあることを示しているのではないかしら」こう考えた私は、もっと早く全能神教会のことを調べなかったことを悔やみました。牧師と長老に盲目的に従ったり、自分の観念や想像を頼みにして神の働きを限定して考えたりするべきでは本当になかったのです。チュ姉妹が次に説教をし、言いました。「姉妹である蘭さん、この動画を観た今、聖書とは神の過去の働きの記録と神の働きの証しにすぎないと、そして終わりの日に人類を救うために働きをなさる神に聖書が取って代わることはできないと私たちは理解しています。神の働きは常に前進しています。そして今日、全能神は働きの新しい段階を実施されています。つまり、主イエスの贖いの働きの基盤の上に、神の国の時代において裁き、罰するために言葉を使うという働きです。これは聖書の預言を完全に成就します。『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。 』（ヨハネによる福音書 12：47-48）『さばきが神の家から始められる時がきた。』（ペテロの第一の手紙 4：7）終わりの日の全能神の御言葉と働きは、聖書を否定するものではなく、律法の時代と恵みの時代の神の御言葉と働きよりも高く深4いレベルにあるのです。そして全能神の働きは、現代の私たちが必要とするものに合っているのです。全能神の御言葉は、神の国の時代の聖書『言葉は肉において現れる』を成すものです。これらの言葉は終わりの日に神が人類に与える永遠のいのちの道であり、神の働きの三段階の奥義と神の受肉の奥義を明らかにし、神の性質、神が所有するものと神そのもの、神の全能性と知恵を表現するものなのです。またおもに神を称賛する道、神に証しし神に仕える道、真理の現実に入る道、そして完全なる救いを得、完璧にされる道を私たちに示してくれるのです。終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の働きに遅れずついていき、神の現在の御言葉から糧を得て初めて、私たちは聖霊の働きを得ることができるのです。もしずっと聖書にこだわり、終りの日の神の働きや発言を受け入れることや神の働きの足跡についていくことを拒否していたら、神がわたしたちに供給してくださる生きているいのちの水を得ることができず、ただ排除され捨てられるだけです。今、あらゆる宗教や教派がどんどん荒廃しています。終わりの日の神の働きに歩調を合わせず、神の現在の御言葉から糧を得ていないため、出口の見えない荒野で迷ってしまっているのです」全能神教会の兄弟姉妹による説教をとおして、私は、終りの日の全能神の働きは完全に聖書の預言に沿ったもので、聖書から全く逸れていないということを理解しました。それどころか、私たちが罪の枷をきっぱりと断ち、神により清められ救われるよう、そして神から真理といのちを得られるようにと、神が私たちの必要とするものに合わせてさらに新しく高い段階の働きを実施されているのです。私はまた、宗教界がなぜどんどん荒廃し劣化しているのか、なぜいつも霊がからからに乾いているように感じるのかを理解するようになりました。それは、私たちが傲慢でうぬぼれて自分の観念にこだわり、神の御言葉と働きを聖書の紙面に限定してとらえ、終わりの日の神の新しい働きを求めず受け入れず、子羊の足跡に遅れずについていっていないからです。その後、兄弟姉妹は私にあらゆる真理について話してくれ、神の御言葉が私の問題や混乱を一つずつ解決していったのです。全能神は再臨された主イエスだと、私は絶対の確信を得ました。そして私の心は主への感謝で満たされました。終りの日の神の働きを受け入れてから、私は教会生活に積極的に参加するようになり、神の御言葉によって潤い、糧を得て、兄弟姉妹と交わることにより、それまでずっと理解せずにいた多くの真理や奥義を理解するようになり、私の霊は満たされました。私はどんどん神に近づいているように感じ、私の心はどんどん光に満ちていき、毎日平安と喜びにあふれているのを感じました。時には、自分がいかに聖書に固執していたか、いかに神の御言葉と働きを聖書の紙面に限定して考え終わりの日の神の働きを求めたり吟味したりすることをいかに拒否していたかを思い出すと、とてつもない後悔を感じ、また神に対し多大な恩を感じるのでした。自分が本当にどれほど盲目で無知だったかがわかったのです。神がYouTubeにより私に全能神教会のお知らせを送り、私に神の御声を聞かせるという憐れみを見せて私をお救いくださらなかったら、私は今でも牧師や長老に盲目的に従っていたでしょう。そして終りの日の神の働きを求めたり吟味したりしてはいなかったでしょう。だとしたら、私は百年間聖書を読んでもいまだに主の再臨をお迎えできずにいたことでしょう。今日、終わりの日の神の救いを受けることができているのも、ひとえに神の統率とお導きによるものであり、神の驚くべき救いです。神に感謝します。]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-21T10:37:25+00:00</published><updated>2020-01-21T10:37:25+00:00</updated><content 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			<p>韓国李蘭（イ・ラン）<br></p><p>生きていると、偶然の出来事が予期せぬ結果につながることがあるものです。数か月前、私の身に思いもよらない、素晴らしいことが起こりました。Youtubeからのお知らせのおかげで、私は主と再会できたのです。</p><p>六月のある朝、私は早く目が覚め、いつも枕元に置いてある聖書を静かにぱらぱらとめくっていました。そして主イエスが<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/religious-world-that-defies-god-1.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>パリサイ人</b></a>たちを叱責された時に言われた御言葉を読みました。「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」（マタイによる福音書 21:13）これを読んで私は不安を拭えませんでした。私の教会の状況が、律法の時代の末期の神殿の状況と全く同じになっていたからです。私の教会では牧師や長老が、信徒たちは互いに愛し合わなければならないとよく説いているのに、実際は彼ら自身が教会員のために祈った代償として彼らから現金の贈り物を受け取っていて、時には受け取った金額でその贈り主のために祈る時間を決めたりもしていたのです。教会は神を崇拝するための場所であるはずですが、ただ信徒が結婚式を挙げる所になってしまっていました。信者の数は日に日に少なくなり、牧師や長老は説教に力を注がなかったり、主の信徒たちを最も良く牧するよう努めなかったりして、替わりに結婚式を執り行うのを楽しんでばかりいました。私は、「牧師や長老は主の道から外れて、教会はもはや外の世界と何ら変わりがない。まさに律法の時代の末期の神殿みたいに強盗の巣となってしまった。それでも主は再臨される際に、こんな教会に現れてくださるだろうか」と考えずにはいられませんでした。</p><p>「ビー、ビー、ビー」目覚ましのアラームが私の考え事を断ち切りました。携帯電話を手に取って音を止め、偶然目にとまったのがYouTubeからのお知らせでした。一見なじみがあるような「<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/about-3.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>全能神教会</b></a>」という語句が目を引きました。以前どこかで聞いたようだと思いましたが、その時はどこでだか思い出せませんでした。とても不思議で、「YouTubeで全能神教会の動画にチャンネル登録したことなんてないのに、なんでYouTubeはこの教会のお知らせを私に送ってきたのかしら」と思いました。そして急に、一か月ほど前、友人に連れられて全能神教会での説教を聴きに行ったことを思いだしたのです。彼らの説教は新鮮で光が照らすようで、聖書に沿ったものでした。私にはとても爽快に感じられました。その話をもっと吟味してみたいと思いましたが、友人が言うには、全能神教会は、主が受肉した<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/about-us-questions-4.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>全能神</b></a>として既に再臨され、<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/only-christ-of-the-last-days-can-give-man-the-way-of-eternal-life-selections.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>終わりの日</b></a>の新しい段階の働きを行い、多くの真理を表しておられると宣言しているというのです。また友人は、全能神教会の信徒はみな聖書ではなく全能神が発せられた言葉を読むのだと言いました。だから私は思ったのです。「牧師や長老たちが集会でよく言うのは、神の御言葉はすべて聖書に書いてあり、聖書の他に神の御言葉なり働きなりがあろうはずがないということ。それに、信徒たちはみな時代を越えてずっと聖書をとおして主を信じてきて、主を信じることは聖書を信じることなのだから、聖書から離れた者がそれでも主を信じているなどということがありうるだろうか」その友人は全能神教会での説教を聴きにいこうと私を誘いましたが、私はそのたびに断っていました。携帯電話の例のお知らせを見るにつけ、不思議に思えてなりませんでした。「チャンネル登録してもいないのに、全能神教会に関連する知らせが来た。主がそのようにされたってことがありうるかしら」それでも、自分の観念にこだわった私は、リンクに飛んで全能神教会動画を見ませんでした。</p><p>しかし驚いたことに、その後の数日間に何度もYouTubeから、全能神教会がアップロードした新しい映画や讃美歌の動画のおすすめが来たのです。「主が本当に私をお導きになっているのではないか。私が全能神の動画を観ることが神の御意志なのか」そこで私は主に祈りました。「愛する主よ。なぜ全能神教会からのお知らせを携帯で受け取っているのでしょうか。彼らは主が既に再臨されたと宣言していますが、それは事実なのですか。これらの動画を見るべきですか。ああ主よ、どうか私をお導きください」その後、私は主イエスの「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」（マタイによる福音書 5:3）という御言葉について考えました。私は思いました。「そうだ。主の再臨はとても重要。主が戻られたという知らせを聞いたからには、全能神が本当に再臨された主イエスなのかどうか、心を開いて求め、真剣に吟味し、慎重に見分けなければ。私が求めたり吟味したりせず、主が本当に再臨されていたのだったら、私は主と再会するチャンスを逃すことになるのではないか」そう考え、私は全能神教会の動画を観ることにしました。主よ、感謝します。動画を観なければ、私は決して知ることはなかったでしょう。動画を観て初めて、YouTubeの全能神教会チャンネルには願ってもないほどのものが何でも揃っていることがわかりました。しかもその数は膨大なのです。福音の動画、合唱団の演奏、ミュージックビデオ、讃美歌、などなどです。あらゆる歌や福音の動画はすぐに私の注意を引き、特に「私の愛する方よどうか待っていて下さい」という讃美歌のミュージックビデオに深い感動を覚えました。これを観た時、私は所属教会の荒廃のせいで聖霊の働きのある教会をあちこちで探していた過去数年間の経験を思い出していました。動画を観れば観るほど、他の動画もどんどん観たくなりました。私はとてつもなく力づけられ、また全能神教会のことをもっと理解したい、調べたいと願いました。</p><p>ある日、私は福音映画「私の主は誰か」から抜粋された「聖書と主とは、どんな関係でしょう？」というタイトルの素晴らしい動画を観ました。この動画の中の全能神の御言葉の一節が、非常に深く印象に残りました。「彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で預言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、あくまで言葉に固執した人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。」（『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より）全能神の御言葉は聖書に対する私たちの姿勢を完璧に明らかにしていました。心の中で私も実際、聖書を他の何よりも上にあるものと見ていました。主の御言葉はすべて聖書の中にあり、したがって聖書は主を代表しており、主への<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/what-do-you-know-of-faith.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>信仰</b></a>を持つことは聖書を信仰することで、聖書から離れることは、その人が主を信じているはずがないことを意味するのだと考えていたのです。しかし、理解できないこともありました。聖書は主の証しです。私たちの信仰の基盤を成すもので、私たちクリスチャンは二千年間、聖書に基づいて主を信じてきました。そして聖書を主への信仰から分離させた人は一人としていません。ならばなぜ、全能神の御言葉には、聖書を神と同一視することはできない、とあるのでしょうか。それはどういう意味なのでしょうか。</p><p>私はその動画を観続けました。次に、全能神教会の兄弟が説教をしました。「主を信じるとはどういうことですか？聖書を信じるとは？聖書と主とは、どんな関係でしょう？聖書と主と、どちらが先だったでしょう？では誰が、救いの働きをするんでしょうか？では聖書が、主に代わってできますか？聖書は主を代弁できますか？聖書を盲信して崇めることは、神様を礼拝することになりますか？聖書にしがみついて、御言葉の実践や体験ができるんですか？聖書にこだわるのが、主の道に従うことでしょうか？聖書を何よりも上に置くことは、主に従順で敬虔で、主を崇拝することですか？…何千年も、人々はやみくもに聖書を崇め、主と同じ地位を与えてきました聖書を主とその働きの代わりにする人さえいますしかし、誰も本当の意味で主を知らず、従順でもないパリサイ人たちは聖書にこだわり、主イエスを十字架にかけましたどういうわけでしょう？聖書を知ることが神様を知ることでしょうか？聖書にこだわれば、主の道にかなうんでしょうか？パリサイ人は聖書の専門家でも神様を知らなかったそればかりか、真理を表し贖いをされた主イエスを磔にしました私たちはそれを忘れたんですか？神様を知るとはどういうことです？聖書を解釈し理解するのが、神様を知ることですか？もしそうなら聖書を解釈したパリサイ人が、なぜ主イエスを非難し、敵対したんでしょう？真に神様を知り従えるかどうかは受肉したキリストを、知っていて従えるかどうか、そこで決まるんです。」</p><p>この兄弟の問いかけについて熟考しながら、心の中で答えました。「確かに主が最初にいらっしゃり、それから聖書が現れた。そして聖書には人類を救う働きはできない。聖書は聖書、主は主。私はずっと聖書が主を代表していると信じていた。では、私は聖書を主より上にあると見なしてきたことにならないか？」こう考えて突然はっと気づき、思いました。「主は主であり、聖書は聖書。ならば牧師や長老が言うことに従って、聖書を偶像化して全ての上にあると見なしてきたことで、私は主の御心に従って実践してきたことになるのだろうか？」そして次に思いました。「聖書から離れたら、どうして主への信仰を真に主への信仰と呼べるのか。主への信仰において聖書に執着していた私たちは、まさか間違っていたのか？」ちょうどその時、主イエスが話された御言葉が私の頭に浮かびました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」（ヨハネによる福音書 5:39–40）この御言葉について深く考えて気づいたのは、聖書は神の証しに過ぎないということ、そして主の承認を受けていのちを得たいと望むなら、主を求めなければならないということでした。「聖書が主を代表することは本当にできないようね」と私は思いました。「私たちのいのちのためにほどこして下さるのは主であり、聖書ではない。そして聖書を信じることが主を信じることや主に従うことではない。もし聖書に盲目的に執着して偶像化し続け、神様の新たな働きを求めることも、従うこともしなければ、最後はパリサイ人同然になって神様を再び十字架にかけてしまいそう。全能神の御言葉には真理があり、私の観念や困惑を解消してくれる。主の再臨を歓迎するチャンスを逃さないように、真剣に吟味し求めなければ」こう思った私は、全能神教会のことを知るために、教会に連れていってほしいと友人に頼むことにしました。</p><p>友人と私が全能神教会に着くと、兄弟姉妹が暖かく歓迎してくれ、それから私たちと根気よく交わってくれました。私はお願いしました。「最近、こちらの教会のホームページの映画や動画からたくさん学ばせてもらっていて、全能神の御言葉には真理があり、私の問題や困惑を解いてくれて、真理を理解させてくれると思っています。でもまだ理解できないことがあるんです。牧師や長老が私たちによく言うのは、神の御言葉はすべて聖書の中にあり、聖書が神への私たちの信仰の基礎であり、主を信じる者は聖書から離れるわけにはいかない、ということです。それでも、こちらでは主イエスが全能神として既に再臨され、終わりの日の働きの新しい段階を行われ、新しい御言葉を発せられていると宣言していますよね。これは一体どういう意味なのですか。これに関して私に話していただけませんか」</p><p>チュ（周）姉妹が、映画「私の主は誰か」から抜粋された「神の働きと言葉のすべてが聖書の中にありますか？」というタイトルの素晴らしい動画を見せながら、私の質問に応えてくれました。映画に出てくる説教師が、語っていました。「旧約と新約聖書とは神様の働きの２つの段階の記録に過ぎません律法の時代と恵みの時代の御言葉と働きについてもすべてが記されていると言い切れますか？律法の時代に預言者を通じて語られた御言葉すべてと、恵みの時代の主イエスの御言葉すべてが、記録されたと言えますか？皆さんも、お気づきのはずですが主の御言葉は、その多くが、聖書にも記されていません聖書に記された主イエスの御言葉は、氷山の一角に過ぎないんです律法の時代の預言者の書の多くも、聖書には含まれていませんこれはよく知られたことです御言葉と働きが、すべて聖書にあるとは、言えないんじゃありませんか？事実と明らかに、矛盾していませんか？そういう意味では、あなた方は嘘つきでは？主イエスは何度も再臨を預言されました再臨した主の御言葉が前もって聖書に記されることがありえますか？これだけは、はっきりさせておきましょう聖書は過去の、神様の働きの記録なんです旧約聖書が記されたずっと後に、主イエスが現れ、恵みの時代に罪の贖いをされた、そうでしたね？では聞きますが、主イエスの御言葉は、自動的に聖書に記されるんですか？神様の御言葉と働きは、人が編纂して、聖書にまとめられたんです終わりの日に、全能神は来られ、裁きの働きを神の家から始められ、人々を清め救うための真理を表されましたこれらの真理が、自動的に聖書に書かれますか？まさか、そんなバカな、そうです全能神教会は全能神によって表された真理を、神の国の時代の聖書に記録しますそれが、『言葉は肉において現れる』神の国の時代の聖書には、神様の御言葉だけ人の言葉はありません言い換えれば『言葉は肉において現れる』は、終わりの日に、神様が人に与える、永遠の命の道なんですですから、神様の御言葉が、聖書にすべて記され聖書以外に、御言葉や働きがないなど、そんなことは、間違いであり、愚かであり人間の思い込みと想像の産物です」</p><p>この説教師の話を聴いた後、それは事実に即していると感じました。聖書は私たちの神への信仰において使う参考書とはなりうるけれども、主を代表することはできず、ましてや主の御言葉や働きを代表することなどできません。正しく聖書に取り組まなければならず、聖書と主を同列と見なしてはならないと、ましてや神の働きや御言葉を聖書の紙面に限定してはならないとわかりました。聖書は、以前の二段階の神の働きを記録したものに過ぎず、律法の時代と恵みの時代の神の働きを記録しているのです。しかし神はあまりに偉大であまりに豊かです。なのにどうして聖書という一冊の本に神についてのすべてが収められるでしょうか。ヨハネによる福音書にはこうあります。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」（ヨハネによる福音書 21：25）どうやら主イエスの働きと御言葉のすべてが聖書に記録されているわけではないようで、それなのに私は宗教界の牧師や長老による解釈に沿って歩んできて、聖書にある神の働きと御言葉以外には神の働きや御言葉はないと信じてきたのです。なんと盲目的なばか者だったのでしょう。人の観念や想像に固執していたなんて。このような見方は全く擁護できません。</p><p>その動画を観続けていると、説教師が全能神の御言葉を何節か読み上げました。「聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。」（『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義（1）」より）「当時、イエスは恵みの時代において弟子たちに一連の説教しか語らなかった。たとえば実践のしかた、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方などである。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、弟子たちやイエスに従う人々がどのように実践すべきかについてしか釈義しなかった。恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何もしなかった。…各時代の神の働きには明確な境界がある。神は現在の時代の働きだけを行い、次の段階の働きを前もって行うことは決してない。このようにしてのみ、神の各時代の代表的な働きは前面に引き出される。イエスは終わりの日のしるし、いかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどのように進入すべきか、どのように追求すれば神の心を満足させるかについては語らなかった。したがって、終わりの日の神の働きを聖書の中に捜し求めるのは誤った考えに基づく行為ではないだろうか。手に聖書を携えているだけでなにを見分けることができるのか。聖書の解釈者であれ説教者であれ、誰が今日の働きを予知することができようか。」（『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」より）「律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たいのなら、旧約を読まなければいけない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約を読まなければいけない。しかし、終わりの日の働きについては、どうすればいいのか。今日の神の導きを受け入れ今日の働きに入らなければいけない。これが新たな働きであり、誰も予め聖書に記録していないからだ。今日、神は中国で肉となり、新たな民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、恵みの時代の働きから続いて、地の働きを続ける。今日の働きの道は人間がかつて歩んだことのないもので、誰も見たことのないものである。それはかつて誰もしたことのない働きであり、それは神が地上で行う最新の働きだ。…どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が載っているだろう。誰が今日の働きの細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することができただろう。あのカビ臭い古い本に、この、慣習を破る、より大きな賢い働きを、誰が記録できるだろう。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければいけない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。」（『言葉は肉において現れる』の「聖書について（1）」より）</p><p>説教師が神の御言葉を読み上げた後、映画の中で兄弟の一人が説教をし、言いました。「全能神の御言葉は、事実に即していますね聖書に載っているのは、律法と恵みの時代の御言葉と働きだけなんです終わりの日の働きは、事前に聖書に記すことはできません聖書に御言葉と働きのすべてがあると以前は言ってたけどそれは神様の働きの事実に即しません」神の御言葉と兄弟の説教を聴いた後、私は賛同してうなずかずにはいられませんでした。私は思いました。「その通りだ。神様がまだなさっていない働きについて誰が聖書に書けるというの。今ようやく、ヨハネの黙示録の第５章第５節を理解したわ。『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』ここで言われているのは、七つの封印で閉じられた本は終わりの日に主が再臨されて初めて開くことができるということで、つまり、主には聖書には記録されていない、これから言われる御言葉とこれから行われる働きがあることを示しているのではないかしら」こう考えた私は、もっと早く全能神教会のことを調べなかったことを悔やみました。牧師と長老に盲目的に従ったり、自分の観念や想像を頼みにして神の働きを限定して考えたりするべきでは本当になかったのです。</p><p>チュ姉妹が次に説教をし、言いました。「姉妹である蘭さん、この動画を観た今、聖書とは神の過去の働きの記録と神の働きの証しにすぎないと、そして終わりの日に人類を救うために働きをなさる神に聖書が取って代わることはできないと私たちは理解しています。神の働きは常に前進しています。そして今日、全能神は働きの新しい段階を実施されています。つまり、主イエスの贖いの働きの基盤の上に、神の国の時代において裁き、罰するために言葉を使うという働きです。これは聖書の預言を完全に成就します。『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。 』（ヨハネによる福音書 12：47-48）『さばきが神の家から始められる時がきた。』（ペテロの第一の手紙 4：7）終わりの日の全能神の御言葉と働きは、聖書を否定するものではなく、律法の時代と恵みの時代の神の御言葉と働きよりも高く深4いレベルにあるのです。そして全能神の働きは、現代の私たちが必要とするものに合っているのです。全能神の御言葉は、神の国の時代の聖書『言葉は肉において現れる』を成すものです。これらの言葉は終わりの日に神が人類に与える永遠のいのちの道であり、神の働きの三段階の奥義と神の受肉の奥義を明らかにし、神の性質、神が所有するものと神そのもの、神の全能性と知恵を表現するものなのです。またおもに神を称賛する道、神に証しし神に仕える道、真理の現実に入る道、そして完全なる救いを得、完璧にされる道を私たちに示してくれるのです。終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の働きに遅れずついていき、神の現在の御言葉から糧を得て初めて、私たちは聖霊の働きを得ることができるのです。もしずっと聖書にこだわり、終りの日の神の働きや発言を受け入れることや神の働きの足跡についていくことを拒否していたら、神がわたしたちに供給してくださる生きているいのちの水を得ることができず、ただ排除され捨てられるだけです。今、あらゆる宗教や教派がどんどん荒廃しています。終わりの日の神の働きに歩調を合わせず、神の現在の御言葉から糧を得ていないため、出口の見えない荒野で迷ってしまっているのです」</p><p>全能神教会の兄弟姉妹による説教をとおして、私は、終りの日の全能神の働きは完全に聖書の預言に沿ったもので、聖書から全く逸れていないということを理解しました。それどころか、私たちが罪の枷をきっぱりと断ち、神により清められ救われるよう、そして神から真理といのちを得られるようにと、神が私たちの必要とするものに合わせてさらに新しく高い段階の働きを実施されているのです。私はまた、宗教界がなぜどんどん荒廃し劣化しているのか、なぜいつも霊がからからに乾いているように感じるのかを理解するようになりました。それは、私たちが傲慢でうぬぼれて自分の観念にこだわり、神の御言葉と働きを聖書の紙面に限定してとらえ、終わりの日の神の新しい働きを求めず受け入れず、子羊の足跡に遅れずについていっていないからです。その後、兄弟姉妹は私にあらゆる真理について話してくれ、神の御言葉が私の問題や混乱を一つずつ解決していったのです。全能神は再臨された主イエスだと、私は絶対の確信を得ました。そして私の心は主への感謝で満たされました。</p><p>終りの日の神の働きを受け入れてから、私は教会生活に積極的に参加するようになり、神の御言葉によって潤い、糧を得て、兄弟姉妹と交わることにより、それまでずっと理解せずにいた多くの真理や奥義を理解するようになり、私の霊は満たされました。私はどんどん神に近づいているように感じ、私の心はどんどん光に満ちていき、毎日平安と喜びにあふれているのを感じました。時には、自分がいかに聖書に固執していたか、いかに神の御言葉と働きを聖書の紙面に限定して考え終わりの日の神の働きを求めたり吟味したりすることをいかに拒否していたかを思い出すと、とてつもない後悔を感じ、また神に対し多大な恩を感じるのでした。自分が本当にどれほど盲目で無知だったかがわかったのです。神がYouTubeにより私に全能神教会のお知らせを送り、私に神の御声を聞かせるという憐れみを見せて私をお救いくださらなかったら、私は今でも牧師や長老に盲目的に従っていたでしょう。そして終りの日の神の働きを求めたり吟味したりしてはいなかったでしょう。だとしたら、私は百年間聖書を読んでもいまだに主の再臨をお迎えできずにいたことでしょう。今日、終わりの日の神の救いを受けることができているのも、ひとえに神の統率とお導きによるものであり、神の驚くべき救いです。神に感謝します。</p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[キリスト教映画「待ち焦がれて」抜粋シーン（５）主が私達に用意してくださった場所はどこにある]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7622023/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7622023</id><summary><![CDATA[🌸あらすじ今から二千年前、主イエスはお約束をされました。「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。」（ヨハネによる福音書14:2～3）主は天国へ行かれ、私達のために場所を準備されていると多くの者が信じています。果たしてこれは主の御言葉に沿っているのでしょうか？このお約束にはどういう奥義が隠されているのでしょう？🌸おすすめ動画キリスト教映画「待ち焦がれて」神は天の御国の降臨の奥義を明かす　完全な映画のHD2018　日本語吹き替えキリスト教映画「敬虔の奥義」主イエスが戻って来られた　日本語吹き替え　完全な映画のHD 2018]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-20T14:08:50+00:00</published><updated>2020-01-20T16:33:23+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>URL: <a href="https://youtu.be/DDLcAfkvo_0">youtu.be
					<img src="https://i.ytimg.com/vi/DDLcAfkvo_0/hqdefault.jpg" width="100%">
				</a>
			</p>
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			<p>🌸あらすじ</p><p>今から二千年前、主イエスはお約束をされました。「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。」（ヨハネによる福音書14:2～3）主は<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>天国</b></a>へ行かれ、私達のために場所を準備されていると多くの者が信じています。果たしてこれは主の御言葉に沿っているのでしょうか？このお約束にはどういう奥義が隠されているのでしょう？</p><p><br></p><p>🌸おすすめ動画</p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/videos/Yearning-movie.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">キリスト教映画「待ち焦がれて」神は天の御国の降臨の奥義を明かす　完全な映画のHD2018　日本語吹き替え</a></p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/videos/gospel-movie-the-mystery-of-godliness.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">キリスト教映画「敬虔の奥義」主イエスが戻って来られた　日本語吹き替え　完全な映画のHD 2018</a></p><p><br></p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[救いと完全な救い · 質問：真の心で全能神を信じ、集まりを続け、神の言葉を読み、積極的に本分を尽くし、終わりまで神に従うならば、それは救いを得るのに十分なのか。]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7616350/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7616350</id><summary><![CDATA[神の御言葉による答え:人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に付き従う限り、神は最も義である故に、神は人間に対して公平であると言う。人間が最後まで神に付き従ったならば、神は人間を退けられるであろうか。わたしは全ての者に対して公平であり、全ての者を自分の義なる性質により裁くが、わたしは人間に対する要求に適切な条件を設けており、誰でも人間は、皆わたしの要求を満たす必要がある。わたしは、あなたの資格がどれほど多く立派であるかは気にせず、あなたがわたしの道を歩んでいるか、真理を愛し、渇望しているかどうかだけを勘案する。あなたに真理が無くわたしの名を辱め、わたしの道に従って行動せず、注意や配慮なく、単に付き従うだけであれば、わたしはその時あなたの邪悪のためにあなたを打ち倒し、罰するであろう。その時、あなたは何と言うであろうか。あなたは、神は義ではないと言えるであろうか。現在、あなたがわたしの言葉に応じているならば、あなたはわたしが認めるような人間である。あなたは、常に神に付き従いつつ苦難を受け、良い時も悪い時も神に付き従い、神と苦楽を共にしてきたと言うが、あなたは神の言葉を行動で示しておらず、毎日神の後を追いかけることだけを望み、有意義な人生を送ることについて考えたことが無い。「とにかく神は義であると信じている」とあなたは言う。あなたは神のために苦難を受け、神のために奔走し、自分を神に捧げ、褒賞を受けないにもかかわらず努力を続けてきたが、神は確かにあなたを覚えている。神は義であるというのは正しいが、その義はいかなる不浄にも汚されていない。その義には人間の意志が一切含まれておらず、肉や人間の取引に汚されてもいない。反抗的で反逆的であり、神の道を遵守しない者は皆、懲罰を与えられ、誰も赦されず、誰も容赦されないであろう。「今日、私はあなたのために走り回っていますが、終わりに日が来たとき、あなたは私に少しばかりの祝福を与えて下さるでしょうか。」と言う者も居る。そこで、わたしはあなたに尋ねるが「あなたはわたしの言葉に従ったであろうか。」あなたの言う義は、取引に基づいている。あなたは、わたしが義であり、全ての者に公平であり、最後までわたしに付き従う者は、確実に救われてわたしの祝福を得るとだけ考えている。「最後までわたしに付き従う者は、確実に救われる」というわたしの言葉には内在する意味がある。つまり、最後までわたしに付き従う者は、完全にわたしにより得られるであろう者であり、わたしに征服された後に真理を求め、完全にされた者である。あなたが満たした条件は、何であろうか。あなたが満たしたのは、最後までわたしに付き従うことのみであるが、そのほかに何があるだろうか。あなたはわたしの言葉を遵守しただろうか。あなたは、5つあるわたしの要求のうち、1つを満たしたが、残り4つを満たす意志は全く無い。あなたは、単に最も手軽で簡単な道を見いだし、それを追求しつつ、自分が幸運だと思っている。あなたのような者に対するわたしの義なる性質は、刑罰と裁きであり、それは義なる報いであり、邪悪を行う者全員に対する義なる懲罰である。わたしの道を歩まない者は、その者が最後まで付き従ったとしても、全員確実に懲罰を受けるであろう。これが神の義である。『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験：刑罰と裁きに関するペテロの認識」より「神に最後まで付き従う者は救われる」において、「付き従う」とは、苦難の中で揺るぎなく耐えることである。現在、多くの者が、神に付き従うのは容易であると考えているが、神の業が終わろうとしている時、あなたは「付き従う」という言葉の真意を知るであろう。征服された後の現在も依然として神に付き従うことが出来るということだけでは、あなたが完全にされる者の一人であることは証明されない。試練に耐えることも、苦難を克服することも出来ない者は、最終的に、揺るぎなく耐えることが出来ず、最後まで神に付き従うことが出来ないであろう。真に神に付き従っている者は、自分に対する試練の業に耐えることが出来るが、真に神に付き従っていない者は、いかなる神の試練にも耐えることが出来ない。遅かれ早かれ、そうした者は排除されるが、克服者は神の国に残るであろう。人間が神を真に求めているかどうかは、その者に対する業の試みすなわち神の試練により判断され、人間自身の判断とは無関係である。神が誰かを気まぐれで拒否することは無い。神が行う業は、全て人間が完全に確信するためのものである。神は、人間に見えない物事や、人間を確信させることが出来ない業を一切行わない。人間の信仰が本当であるかどうかは、事実により結果が求められるものであり、人間が決めることは出来ない。「麦を毒麦に変える事はできず、毒麦を麦に変える事も出来ない」ことは、間違い無い。神を真に愛する者は、全員最終的に神の国に残り、神は神を真に愛する者を虐げられることは無いであろう。『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より🌸関連した内容人類はなぜ神を信じるべきかなぜ神は人々を裁き、罰しなければならないのか。]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-19T12:52:03+00:00</published><updated>2020-01-19T12:52:03+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>神の御言葉による答え:</p><p>人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に付き従う限り、神は最も義である故に、神は人間に対して公平であると言う。人間が最後まで神に付き従ったならば、神は人間を退けられるであろうか。わたしは全ての者に対して公平であり、全ての者を自分の義なる性質により裁くが、わたしは人間に対する要求に適切な条件を設けており、誰でも人間は、皆わたしの要求を満たす必要がある。わたしは、あなたの資格がどれほど多く立派であるかは気にせず、あなたがわたしの道を歩んでいるか、真理を愛し、渇望しているかどうかだけを勘案する。あなたに真理が無くわたしの名を辱め、わたしの道に従って行動せず、注意や配慮なく、単に付き従うだけであれば、わたしはその時あなたの邪悪のためにあなたを打ち倒し、罰するであろう。その時、あなたは何と言うであろうか。あなたは、神は義ではないと言えるであろうか。現在、あなたがわたしの言葉に応じているならば、あなたはわたしが認めるような人間である。あなたは、常に神に付き従いつつ苦難を受け、良い時も悪い時も神に付き従い、神と苦楽を共にしてきたと言うが、あなたは神の言葉を行動で示しておらず、毎日神の後を追いかけることだけを望み、有意義な人生を送ることについて考えたことが無い。「とにかく神は義であると信じている」とあなたは言う。あなたは神のために苦難を受け、神のために奔走し、自分を神に捧げ、褒賞を受けないにもかかわらず努力を続けてきたが、神は確かにあなたを覚えている。神は義であるというのは正しいが、その義はいかなる不浄にも汚されていない。その義には人間の意志が一切含まれておらず、肉や人間の取引に汚されてもいない。反抗的で反逆的であり、神の道を遵守しない者は皆、懲罰を与えられ、誰も赦されず、誰も容赦されないであろう。「今日、私はあなたのために走り回っていますが、終わりに日が来たとき、あなたは私に少しばかりの祝福を与えて下さるでしょうか。」と言う者も居る。そこで、わたしはあなたに尋ねるが「あなたはわたしの言葉に従ったであろうか。」あなたの言う義は、取引に基づいている。あなたは、わたしが義であり、全ての者に公平であり、最後までわたしに付き従う者は、確実に救われてわたしの祝福を得るとだけ考えている。「最後までわたしに付き従う者は、確実に救われる」というわたしの言葉には内在する意味がある。つまり、最後までわたしに付き従う者は、完全にわたしにより得られるであろう者であり、わたしに征服された後に真理を求め、完全にされた者である。あなたが満たした条件は、何であろうか。あなたが満たしたのは、最後までわたしに付き従うことのみであるが、そのほかに何があるだろうか。あなたはわたしの言葉を遵守しただろうか。あなたは、5つあるわたしの要求のうち、1つを満たしたが、残り4つを満たす意志は全く無い。あなたは、単に最も手軽で簡単な道を見いだし、それを追求しつつ、自分が幸運だと思っている。あなたのような者に対するわたしの義なる性質は、刑罰と裁きであり、それは義なる報いであり、邪悪を行う者全員に対する義なる懲罰である。わたしの道を歩まない者は、その者が最後まで付き従ったとしても、全員確実に懲罰を受けるであろう。これが神の義である。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験：刑罰と裁きに関するペテロの認識」より</p><p>「神に最後まで付き従う者は救われる」において、「付き従う」とは、苦難の中で揺るぎなく耐えることである。現在、多くの者が、神に付き従うのは容易であると考えているが、神の業が終わろうとしている時、あなたは「付き従う」という言葉の真意を知るであろう。征服された後の現在も依然として神に付き従うことが出来るということだけでは、あなたが完全にされる者の一人であることは証明されない。試練に耐えることも、苦難を克服することも出来ない者は、最終的に、揺るぎなく耐えることが出来ず、最後まで神に付き従うことが出来ないであろう。真に神に付き従っている者は、自分に対する試練の業に耐えることが出来るが、真に神に付き従っていない者は、いかなる神の試練にも耐えることが出来ない。遅かれ早かれ、そうした者は排除されるが、克服者は<a href="https://jp.kingdomsalvation.org" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の国</b></a>に残るであろう。人間が神を真に求めているかどうかは、その者に対する業の試みすなわち神の試練により判断され、人間自身の判断とは無関係である。神が誰かを気まぐれで拒否することは無い。神が行う業は、全て人間が完全に確信するためのものである。神は、人間に見えない物事や、人間を確信させることが出来ない業を一切行わない。人間の<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/what-do-you-know-of-faith.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>信仰</b></a>が本当であるかどうかは、事実により結果が求められるものであり、人間が決めることは出来ない。「麦を毒麦に変える事はできず、毒麦を麦に変える事も出来ない」ことは、間違い無い。神を真に愛する者は、全員最終的に神の国に残り、神は神を真に愛する者を虐げられることは無いであろう。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より</p><p><br></p><p>🌸関連した内容</p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel/why-should-mankind-believe-in-god.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">人類はなぜ神を信じるべきか</a></p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel/judge-and-chastise-people.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">なぜ神は人々を裁き、罰しなければならないのか。</a></p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[ゴスペル　賛美歌「正直者になれてとても嬉しい！」  天国は正直者たちのパラダイス]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7611621/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7611621</id><summary><![CDATA[🌸ゴスペル　賛美歌「正直者になれてとても嬉しい！」 天国は正直者たちのパラダイスⅠ真理を理解すると霊が解放され、人は幸福になるそうだ！私は神の言葉への確信に満たされ、疑いは一切ない疑いなんてあるものか私は悲観せず、退かず、決して絶望しない見て！全身全霊で使命を掲げ、肉のことなど気に留めないさほど悪くもない！私の器は小さいが、正直な心を持っている本当？御心を満たすために全てを捧げ尽くす（あぁ、そうだ！）真理を実行し、神に従い、正直な人になろう最高！私は、光の中に生き、何も隠さず、正しく、偽りがない素晴らしい！正直な人々よ、早く来て互いに心から話し合おう神を愛する全ての者たちよ 友として集まり団結しよう１人２人３人皆、真の友だ真理を愛する人々は、皆、兄弟姉妹だ。（家族だ！）幸福な人たちよ 神を賛美して歌い踊ろう歌え！踊れ！正直者になれてとても嬉しい！正直者になれてとても嬉しい！正直者になれてほんとうに嬉しい！Ⅱ真理を理解すると霊が解放され、人は幸福になる（祝福された人よ！）私は神の言葉への確信に満たされ、疑いは一切ない私たちのビジョンははっきりしている！私は悲観せず、退かず、決して絶望しない（真理を知るのはよい！）全身全霊で使命を掲げ、肉のことなど気に留めない我らは人間として生きる！私の器は小さいが、正直な心を持っているアー、正直な心は貴い！御心を満たすために全てを捧げ尽くすここに実践の道があるではないか？真理を実行し、神に従い、正直な人になろう（神は無理なことは求めない。）私は、光の中に生き、何も隠さず、正しく、偽りがない神に栄光あれ！正直な人々よ、早く来て互いに心から話し合おう正直者を嫌う人はいないだろう？神を愛する全ての者たちよ 友として集まり団結しようああ、偽り者には我慢ならない！真理を愛する人々は、皆、兄弟姉妹だ幸福な人たちよ 神を賛美して歌い踊ろう正直者だけが真の幸福を持っている。（真の幸福を！）正直な人々よ 早く来て 互いに心から話し合おう神を愛する全ての者たちよ 友として集まり団結しよう真理を愛する人々は、皆、兄弟姉妹だ幸福な人たちよ 神を賛美して歌い踊ろう歌え！踊れ！正直な人々よ、早く来て互いに心から話し合おう神を愛する全ての者たちよ 友として集まり団結しよう真理を愛する人々は、皆、兄弟姉妹だ幸福な人たちよ 神を賛美して歌い踊ろう正直な人々よ、早く来て互いに心から話し合おう神を愛する全ての者たちよ 友として集まり団結しよう真理を愛する人々は、皆、兄弟姉妹だ幸福な人たちよ 神を賛美して歌い踊ろう正直な人々よ、早く来て互いに心から話し合おう神を愛する全ての者たちよ 友として集まり団結しよう真理を愛する人々は、皆、兄弟姉妹だ幸福な人たちよ 神を賛美して歌い踊ろう『小羊に従って新しい歌を歌おう』より🌸もっと見る教会音楽 礼拝讃美歌MV 「私は喜んで神の働きに服従します」キリスト教音楽「二千年に及ぶ切望」主イエスは再臨された　日英字幕]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-18T11:36:46+00:00</published><updated>2020-01-18T11:36:47+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p>URL: <a href="https://youtu.be/S4E3cfF2m_Q">youtu.be
					<img src="https://i.ytimg.com/vi/S4E3cfF2m_Q/hqdefault.jpg" width="100%">
				</a>
			</p>
		</div>
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			<p>🌸ゴスペル　賛美歌「正直者になれてとても嬉しい！」<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b> 天国</b></a>は正直者たちのパラダイス</p><p>Ⅰ</p><p>真理を理解すると霊が解放され、人は幸福になる</p><p>そうだ！</p><p>私は神の言葉への確信に満たされ、疑いは一切ない</p><p>疑いなんてあるものか</p><p>私は悲観せず、退かず、決して絶望しない</p><p>見て！</p><p>全身全霊で使命を掲げ、肉のことなど気に留めない</p><p>さほど悪くもない！</p><p>私の器は小さいが、正直な心を持っている</p><p>本当？</p><p>御心を満たすために全てを捧げ尽くす</p><p>（あぁ、そうだ！）</p><p>真理を実行し、神に従い、正直な人になろう</p><p>最高！</p><p>私は、光の中に生き、何も隠さず、正しく、偽りがない</p><p>素晴らしい！</p><p>正直な人々よ、早く来て</p><p>互いに心から話し合おう</p><p>神を愛する全ての者たちよ 友として集まり団結しよう</p><p>１人</p><p>２人</p><p>３人</p><p>皆、真の友だ</p><p>真理を愛する人々は、皆、兄弟姉妹だ。（家族だ！）</p><p>幸福な人たちよ 神を賛美して歌い踊ろう</p><p>歌え！踊れ！</p><p>正直者になれてとても嬉しい！</p><p>正直者になれてとても嬉しい！</p><p>正直者になれてほんとうに嬉しい！</p><p>Ⅱ</p><p>真理を理解すると霊が解放され、人は幸福になる</p><p>（祝福された人よ！）</p><p>私は神の言葉への確信に満たされ、疑いは一切ない</p><p>私たちのビジョンははっきりしている！</p><p>私は悲観せず、退かず、決して絶望しない</p><p>（真理を知るのはよい！）</p><p>全身全霊で使命を掲げ、肉のことなど気に留めない</p><p>我らは人間として生きる！</p><p>私の器は小さいが、正直な心を持っている</p><p>アー、正直な心は貴い！</p><p>御心を満たすために全てを捧げ尽くす</p><p>ここに実践の道があるではないか？</p><p>真理を実行し、神に従い、正直な人になろう</p><p>（神は無理なことは求めない。）</p><p>私は、光の中に生き、何も隠さず、正しく、偽りがない</p><p>神に栄光あれ！</p><p>正直な人々よ、早く来て</p><p>互いに心から話し合おう</p><p>正直者を嫌う人はいないだろう？</p><p>神を愛する全ての者たちよ 友として集まり団結しよう</p><p>ああ、偽り者には我慢ならない！</p><p>真理を愛する人々は、皆、兄弟姉妹だ</p><p>幸福な人たちよ 神を賛美して歌い踊ろう</p><p>正直者だけが真の幸福を持っている。（真の幸福を！）</p><p>正直な人々よ 早く来て 互いに心から話し合おう</p><p>神を愛する全ての者たちよ 友として集まり団結しよう</p><p>真理を愛する人々は、皆、兄弟姉妹だ</p><p>幸福な人たちよ 神を賛美して歌い踊ろう</p><p>歌え！踊れ！</p><p>正直な人々よ、早く来て</p><p>互いに心から話し合おう</p><p>神を愛する全ての者たちよ 友として集まり団結しよう</p><p>真理を愛する人々は、皆、兄弟姉妹だ</p><p>幸福な人たちよ 神を賛美して歌い踊ろう</p><p>正直な人々よ、早く来て</p><p>互いに心から話し合おう</p><p>神を愛する全ての者たちよ 友として集まり団結しよう</p><p>真理を愛する人々は、皆、兄弟姉妹だ</p><p>幸福な人たちよ 神を賛美して歌い踊ろう</p><p>正直な人々よ、早く来て</p><p>互いに心から話し合おう</p><p>神を愛する全ての者たちよ 友として集まり団結しよう</p><p>真理を愛する人々は、皆、兄弟姉妹だ</p><p>幸福な人たちよ 神を賛美して歌い踊ろう</p><p>『小羊に従って新しい歌を歌おう』より</p><p><br></p><p>🌸もっと見る</p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/videos/submit-to-God-s-work-mv.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">教会音楽 礼拝讃美歌MV 「私は喜んで神の働きに服従します」</a><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/videos/two-thousand-years-of-longing-mv.html" class="u-lnk-clr"><br></a></p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/videos/two-thousand-years-of-longing-mv.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">キリスト教音楽「二千年に及ぶ切望」主イエスは再臨された　日英字幕</a><br></p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[言葉は肉において現れる·神と人は共に安息に入る]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7606708/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7606708</id><summary><![CDATA[神と人は共に安息に救われたはじめ、神は安息の中にいた。その時、地上には人類も他の何物もなく、神は何も働きをしなかった。人類が存在するようになり、さらに人類が堕落してしまった後、神ははじめて経営（救い）の働きに取りかかった。その時から神はもう安息せず、人類の間で忙しく働き始めた。人類が堕落したため神は安息を失い、また大天使が裏切ったため神は安息を失った。もしサタンを打ち負かさず、堕落した人類を救わなければ、神は二度と再び安息に入ることができない。人に安息がないので、神にも安息がない。神がもう一度安息の中に入る時、人も安息の中に入る。安息の中の生活とは、戦いも汚れも、継続する不義もない生活である。言い換えれば、そのような生活には、神に敵対するいかなる勢力の侵入もないだけでなく、サタン（サタンとは敵対する勢力を指す）による妨害もサタンの堕落も存在しない。万物がおのおのその種類のものに従い、造物主を礼拝する。天上も地上も平穏になる。これが、人類が安息に入った生活である。神が安息の中に入った時、地上にはもうどんな不義も継続せず、もういかなる敵対勢力の侵入もなくなる。人類も新しい領域の中に入る。すなわち、彼らはもはやサタンに堕落させられた人類ではなく、サタンに堕落させられた後救われた人類である。人類の安息の日々は、神にとっての安息の日々でもある。神は人類が安息の中に入ることができないため、安息を失ったのである。つまり、神は本来、安息に入ることができなかったのではない。安息の中に入ることは、あらゆる事物の活動が止まることを意味するのでもなければ、あらゆる事物の発展が止まることを意味しているのでもない。また、神がもう働くことをやめる、あるいは人がもう生活することをやめることを意味しているのでもない。安息に入ったことのしるしは、以下のようなものである──サタンが滅ぼされている、サタンに同調する悪人たちがみな懲罰を受けて一掃されている、そして神に敵対するすべての勢力が存在しない。神が安息の中に入ることは、神がもう人類を救うという働きをしないことを意味している。人類が安息の中に入ることは、全人類がみな神の光の中と神の祝福の下に生きることを意味する。もはやサタンの堕落がなく、不義な事も起こらない。人類はみな地上で正常に生活し、神の加護のもとで生きるようになるだろう。神と人が共に安息に入るということは、人類が救われたこと、サタンは滅ぼされたこと、人における神の働きが全部終わったことを意味する。神はもはや人の中で働き続けず、人ももうサタンの支配下に生きることはなくなる。それゆえに、神はもう忙しく働かず、人はもう忙しく駆け回らない。神と人は同時に安息の中に入るようになる。神はもとの場所に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の経営（救い）が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。神はもはや人の間には住まず、人も神と一緒に神の目的地で住むことはできない。神と人は同じ領域の中で生活することができない。むしろ、それぞれ自分の生き方がある。神が全人類を導くのであり、全人類は神の経営の働きの結晶である。導かれるのは人類である。人間は、本質的には、神と異なる。安息することとは、神と人がそれぞれの本来の場所に帰ることを意味する。それゆえ神が安息に入るとき、それは神がもとの場所に復帰することを意味する。神はもう地上で生活しないか、あるいは人の間にあっても、人と苦楽を共にしない。人が安息に入るとは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダムとエバの生活に復する。これが、神と人が安息に入った後の、それぞれの生活と目的地である。サタンが打ち負かされることは、神とサタンとの戦いが必然的に向かう方向である。こうして、神が経営の働きを終えた後に安息に入ることと人が完全に救われ安息に入ることは、同様に不可避的に向かう方向になる。人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し、地上で生きる。神は安息の中で残りの人類を導くが、地上から導くのではなくて天から導く。神は依然として霊であり、一方、人は、依然として肉である。神と人にはおのおの異なる安息の仕方がある。神は安息するが、人の間に来て人に現れる。人は安息するが、神に導かれて天を訪ね、天上で人生を楽しむこともある。神と人が安息に入った後、サタンはもはや存在せず、サタン同様、邪悪な者も、もはや存在しない。神と人が安息に入る前に、かつて地上で神を迫害したことのある邪悪な者たち、地上で神に不従順だった敵たちはすでに滅ぼされている。彼らは終わりの日の大きな災難によって滅ぼされている。そのような邪悪な者たちが徹底的に滅ぼされた後、地上でサタンの妨害を見ることはなくなる。人は完全な救いを与えられ、そうして初めて、神の働きが完全に終わる。これは神と人が安息に入る前提である。万物の終わりが近づいたということは、神の働きが終わったことを示し、人類の発展が終わったことを示す。このことは、サタンによって堕落させられた人類は発展の終わりを迎えたことを意味し、アダムとエバの子孫たちは、それぞれの終焉に向かって増えていったことを意味し、さらに、サタンに堕落させられたこのような人類が引き続き発展していくことが不可能であることを意味する。初めアダムとエバは、堕落させられてはいなかった。しかし、エデンの園から追放されたアダムとエバはサタンに堕落させられた。神と人が共に安息に入る時、エデンの園から追放されたアダムとエバ及び彼らの子孫は最終的に終焉を迎える。未来の人類は依然としてアダムとエバの後裔から成るが、サタンの支配下に生きている人々ではない。彼らはむしろ、救われ、清められた人々である。このような人類はすでに裁かれ、罰せられており、聖なる人である。そのような人々は最初の人類とは異なっている。最初のアダムとエバとは全く異なる種類の人だと言うことができる。このような人々はサタンに堕落させられたあらゆる人の中から選び出された人々であり、神の裁きや刑罰にゆるがず耐え抜いた人々である。彼らは堕落した人類の中で生き残った最後の一団の人々である。この一団の人々だけが神と共に最後の安息の中に入ることができる。終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。神の働きが終わる時、生き残ることのできる人は、清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。彼らはかつて贖われたことがあり、また裁かれもし、懲らしめも受け罰せられたことがある。彼らはまた神への奉仕をしたこともあるが、終わりの日がきたら、彼らはやはり、自身の悪さ、自身の不従順さ、贖う術もないような有様が原因で、排除され、滅ぼされる。彼らは未来の世界では存在しないし、未来の人類の間で生きることもない。死んだ人の魂であれ、肉としてまだ生きている人であれ、すべての悪を働く者、すべての救われなかった者は、人類の中の聖なるものたちが安息の中に入る時、滅ぼされる。これらの、悪を働く魂と悪を働く人々、或いは義人の魂と義を行う人々が、どんな時代に属していたとしても、悪を行う者はみな滅ぼされ、義なる人はみな生き残る。人あるいは魂が救いを受けるかどうかは、終わりの時代の働きによってのみ決まるのではなく、むしろ、彼らが神に逆らってきたかどうかあるいは神に背いてきたかどうかによって確定されるのである。もし前の時代の人が悪を働き、救われなかったなら、彼らは間違いなく罰を受ける対象になる。もし今の時代の人が悪を働き、救われないなら、彼らもまた、確実に罰の対象になる。人々は、善と悪にもとづいて分離されるのであって、時代にもとづいて分離されるのではない。ひとたび、善と悪によって分離されたら、人々は直ちに罰を受けたり報いを与えられたりするのではない。むしろ神は、終わりの日における征服の働きを遂行した後はじめて、悪を行う者を罰し、善を行う者に報いる働きを行う。実は、神が人類に対して働きをはじめた時からずっと、神は人類を分けるために善と悪を用いている。神は自身の働きを終えて初めて、義なる人を報い、悪である者を罰するのである。最後に働きを終えて悪者と義人を分けて、それからすぐ悪を罰し、善に報いる働きに着手するのではない。悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。今日人々は肉のものを手放すことができない。肉の楽しみを放棄できず、この世、金銭、堕落した性質をも捨てることができない。大多数の人は思うままに追求している。実際、このような人々は、心の中に全く神を持っていない。まして、彼らは神を恐れない。彼らは心の中に神を持たないので、神が行うすべてを理解できず、彼の口から出た言葉を信じることはなおさらできない。このような人々はあまりにも肉的である。彼らは、あまりにも深く堕落させられ、いかなる真理をも欠いている。その上、神が受肉できることを信じない。肉となった神を信じない人、すなわち、目に見える神の働きと言葉を信じない人、目に見える神を信じないで目に見えない天の神を崇拝する人はみな、心の中に神を持たない人である。彼らは、神に従わず、反抗する人たちである。このような人は真理を欠いているのは言うまでもなく、人間性と理知をも欠いている。このような人たちにとっては、目に見える神、触れることができる神はもっと信頼できず、目に見えない神、触れることのできない神こそが、いちばん信頼でき、またいちばん彼らの心を喜ばせるのである。彼らが求めるものは現実的な真理ではなく、いのちの本質でもなく、ましてや神の考えなどではない。むしろ彼らは、刺激を求めている。もっとも彼らの欲望を満たすことができるものならどんなものであっても、間違いなくそれが、彼らが信じ、追い求めるものである。彼らはただ自分の欲望を満たすためだけに神を信じるのであって、真理を求めるためではない。このような人たちはみな悪を行う人たちではないのか。彼らはひどく自信過剰で、天の神が彼らのような「善良な人々」を滅ぼすとは信じない。むしろ神は彼らを生き残らせ、しかも手厚く報いてくれると思っている。なぜなら、彼らは神のために多くの事をし、神のためにずいぶん「忠誠心」を尽くしたからである。もし彼らが目に見える神を追い求めるとなった場合、彼らの欲望が満たされないとなれば、彼らは直ちに神に反撃するか、烈火のごとく怒るはずである。このような人たちはみな、自分の欲望を満たそうとする卑劣な人間である。彼らは、真理を追い求めることにおいて誠実な人々ではない。このような人々は、キリストに従ういわゆる悪者たちである。真理を求めないこのような人たちは真理を信じることはできない。彼らは、人類の未来の結末については、なおさら感じることができない。なぜなら、彼らは目に見える神の働きと言葉をひとつも信じず、人類の未来の終着点をも信じることができないからである。したがって、彼らは見える神につき従っていても、やはり悪を働いて真理を求めず、わたしの要求する真理を実践することもない。自分が滅ぼされることを信じない人たちは逆に、まさに滅ぼされる対象そのものである。彼らはみな、自分がとても賢明であると信じていて、自分が真理を実行する人であると信じている。彼らは自分の悪行を真理と考え、それを大事にする。このような悪者はみなひどく自信過剰である。彼らは真理は教義であるとし、自分の悪行を真理と見なす。最後に彼らは自分の蒔いた種から刈り取る。自信過剰で傲慢であればあるほど、真理を得ることができず、天の神を信じれば信じるほど、神に逆らう。このような人たちはみな罰せられる人々である。人類が安息の中に入る前に、各々の種類の人が罰せられるか、それとも報われるかどうかは、彼らが真理を求めるかどうか、神を知っているかどうか、目に見える神に従うことができるかどうかによって決まる。目に見える神に奉仕してきたが神を知らない人や従わない人はみな真理のない人である。このような人たちは悪を行う人であり、悪を行う人は間違いなく罰を受ける対象である。しかも彼らは、彼らの悪行に応じて罰せられる。神は人による信仰の対象であり、また人が従うに値する存在である。だが、漠然とした目に見えない神だけを信じる人たちはみな神を信じない人たちである。その上、彼らは神に従うことができない。もしこのような人たちが神の征服の働きが終わるときに、依然として、目に見える神を信じることができず、しかも目に見える肉の神に従わず、逆らい続けるなら、このような「漠然派」は疑いなく滅ぼされる。それは、あなたがたのうちにも見られる。つまり、あなたがたのうち、口先では肉となった神を認めるが肉となった神に従うという真理を行うことができない人は誰でも、最後には排除され、滅ぼされる。また、口先では目に見える神を認め、しかも目に見える神が表現した真理を食べ飲みするが、漠然とした見えない神を追い求める人はなおさら将来滅ぼされる。このような人々の誰も、神の働きが終わった後の安息の時まで生き残ることができない。このような人はだれも安息の時まで生き残ることができない。悪魔の類の人はみな真理を実行しない人である。彼らの本質は神に逆らい、不従順なものであって、彼らは神に従う意図が少しもない。この様な人々はみな滅ぼされる。あなたが真理をもっているかどうか、神に逆らっているかどうかは、あなたの本質によって決まるのであり、あなたの外貌あるいは時折の言行によって決まるのではない。人が滅ぼされるかどうかは、その人の本質によって決まる。すなわち、彼らが事を行い、真理を追い求める過程で外に現れる本質によって決まるのである。同様に働きをし、しかも同じ程度の量の働きをする人々のうち人間性の本質が善であり真理を持っている人々が生き残る人々であり、人間性の本質が悪であり、目に見える神に背く者は、滅ぼされる人々である。人類の終着点に向けられた神の働き及び言葉の何もかもが、人類を、各人の本質に従って適切に取り扱う。そこには何の偶然も無ければ、無論僅かな誤りもない。人が働きを遂行するときにのみ、人の情感あるいは意味が入り込むのである。神が行う働きは最適である。神はいかなる被造物についても事実を歪曲して罪に陥れることは決してない。現在、未来の人類の終着点を理解することができず、しかもわたしが話す言葉を信じない多くの人々がいる。真理を行わない人々と同様に、信じない人々は皆、悪魔である。追い求める人々と追い求めない人々は今や、2つの異なるタイプの人々であり、彼らは2つの異なる終着点をもつ2つのタイプの人々である。真理に関する認識を追求し、真理を実行する人々は神に救われる者である。真の道を知らない人々は、悪魔であり敵である。彼らは天使長の後裔であり、滅ぼされる。漠然とした神を信じる敬虔な信徒であっても、悪魔ではないだろうか。良心があるが真の道を受け入れないような人々は悪魔である。彼らの本質は神に逆らうものである。真の道を受け入れないような人々は、神に逆らう者である。このような人はたくさんの苦しみに耐えていたとしても、はやはり滅ぼされる。この世を捨てたがらず、父母を離れることに耐えられず、肉の喜びを捨てられないような人々はみな神に従順ではなく、みな滅ぼされる。肉となった神を信じない人はみな悪魔であり、彼らが滅ぼされるのはなおさらである。信じるが真理を行わない人々、肉となった神を信じない人々、神の存在を全く信じない人々はみな、滅ぼされる。生き残ることができる人はみな、精錬の苦しみを受けても堅く立って耐え抜いた人である。これは、本当に試練を経た人である。神を認めない人はみな敵である。すなわち、受肉した神を認めない者はだれでも、この流れの中にあってもなくても、みな反キリストである。神を信じない反抗者でないならば、サタンや悪魔、神の敵となることなどないはずだ。彼らは神に背く者ではないのか。口先だけで信じると言うが真理を持っていない人たちではないのか。祝福を受けることだけは追い求めるが、神のために証しをすることができない人たちではないだろうか。今日あなたはまだこのような悪魔と親しく交わり、良心や愛を悪魔と強調することもできる。これはサタンに親切心を示しているのではないだろうか。それは、悪魔に同調すると考えられないだろうか。もし人々が今日まだ、善悪を区別することができないなら、そして神の旨をどんな形でも求めることを望まず、愛や憐れみを、盲目的に強調するなら、さらに神の心を自身のものとして持つことが全くできないなら、そのような人の結末はもっと悲惨だろう。肉の神を信じないものはみな神の敵である。もしあなたが敵に向かって良心と愛を強調することができるなら、あなたは義の良識を欠いていないだろうか。もしあなたが、わたしが憎み嫌い、反対するものと相容れて、その上彼らとの愛あるいは個人的な感情を強調するなら、あなたは不従順ではないのか。あなたは故意に神に逆らっているのではないか。このような人が真理をもっているだろうか。もし、敵に対する良心を強調し、悪魔への愛を強調し、サタンへの憐れみを強調するなら、そのような人はみな、故意に神の働きを妨げていないだろうか。イエスだけを信じて、終わりの日の肉なる神を信じない人たち、口先では肉となった神を信じると言うが悪を行う人たちはみな、反キリストである。神を信じない人たちが反キリストであるのは言うまでもない。このような人はみな滅ぼされる。人が人を判断する基準は人の振る舞いである。行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は邪悪な者である。神が人を判断する基準は、その本質が神に従順であるかどうかである。つまり、その人の振る舞いが良いか悪いか、語る言葉が正しいかそうでないかに関わらず、神に従順な者は義であり、不従順な者は敵であり、悪者である。一部の人は善い行いによって未来のよい終着点を獲得しようと思い、一部の人はよい言葉によって未来のよい終着点を手に入れたいと考える。人々はみな、神が人の行い、或いは人の言葉によって人の結末を定めると間違った信じ方をし、ゆえに多くの人は偽ってこれらを用いて恵みを獲得しようとする。後に安息の中で生き残る人々はみな苦難の日を経験し、しかも神のために証しをしてきた人である。彼らはみな自分の本分を果たしてきた人であり、神に従おうとする人である。仕える機会を利用して真理の実践を免れようと思う人たちはみな、生き残ることができないだろう。神がすべての人の結末を定めるのは、適切な基準に基づいている。神は人の言行だけに基づいてそれを決定するのでもなく、ひとつの期間の行いに基づいて決定するのでもない。神は人がかつて神に仕えたからといって、そのすべての悪行に対して寛大に対処することは決してなく、また、人が神のために一時費やしたからといって彼の死を免除することもない。だれ一人として自分の悪の報いから逃れられず、また、だれ一人として自分の悪行を隠して滅びの苦しみから逃れることもできない。もし人が本当に自分の本分を果たすことができるのであれば、祝福を受けるにしろ不運に苦しむにしろ、その人が神に永遠に忠実であり、報いを求めないという意味である。祝福が見えれば神に忠実であり、祝福が見えない時は忠実ではなくなり、結局神のために証しをすることができず、尽くすべきように本分を尽くすこともできないこのような人たちは、かつては神に忠実に仕えた人であっても、やはり滅ぼされる。要するに、邪悪な者は永遠に生きることはできず、安息の中に入ることもできない。義なる人のみが安息の主人である。人類が正しい軌道に乗った後、人は正常な人間の生活をするようになる。彼らはみな自身の本分を尽くし、神に全く忠実である。彼らは不従順と堕落した性質を完全に脱ぎ捨て、神のために生き、神ゆえに生きる。彼らはもう神に背かず、逆らわず、神に完全に従うことができる。これこそ神と人の生活であり、神の国の生活であり、安息の生活である。全く信仰心のない子供や親戚を教会に連れて来る人たちは、あまりに自己中心であり、親切心を示している。このような人たちは、自分が連れてきた人たちが信じるかどうか、あるいはそれが神の旨であるかどうかを考慮せず、愛だけを強調する。一部の人たちは、彼らの妻や両親を神の前に連れて来る。聖霊が同意しているかどうかあるいは聖霊が働いているかどうかに関わらず、彼らは盲目的に神のために「才能ある人材を導入する」。信じていない人にそのように親切心を広げることから何の益が得られるのか。聖霊の臨在がないこれらの未信者がしぶしぶ神につき従っても、人が考えるように救われるものではない。救われる人を獲得するのはそれほど容易ではない。聖霊の働きと試練を経験せず、また肉となった神に完全にされていない人は、完全にされることなどない。それゆえ、このような人々は神に名目上つき従い始めた時から聖霊の臨在がない。彼らの状況と実際の状態では、完全にされることなどない。それだから、聖霊も彼らに対してそんなに多くの精力を費やすつもりがなく、またいかなる啓きあるいは導きをも、どんな形でも、与えない。ただ彼らにつき従わせるだけであり、最後になって彼らの結末を明らかにする──それだけで十分なのだ。人の熱意や意図はサタンから来るものであり、聖霊の働きを決して全うすることはない。どんな種類の人であっても、聖霊の働きを持たねばならない。人が人を完全にすることなどできるだろうか。夫はなぜ妻を愛するのか。また、妻はなぜ夫を愛するのか。子供たちはなぜ親に従うのか。また、なぜ親は子供たちをかわいがるのか。人々はどんな意図を心に抱いているのだろうか。すべて自分の計画どおりにし、私欲を満足させるためではないだろうか。本当に神の経営（救いの）計画のためだろうか。神の働きのためだろうか。被造物の本分を尽くすためだろうか。最初は神を信じたが聖霊の臨在を得ることができなかった人は、決して聖霊の働きを得ることができない。このような人たちはすでに滅ぼされるよう決められている。人が彼らに対してどれだけ多くの愛を持っていても、それは聖霊の働きに取って代わることはできない。人の熱意と愛は人の意図を表わすのであって、神の意図を表わすことも、神の働きに取って代わることもできない。名目上神を信じ神に従う振りをするが、神を信じるとは何かを知らないような人々に、最大限の愛や憐れみを与えたとしても、彼らはやはり神の同情を得ることも聖霊の働きを得ることもないのである。心から神に従う人は、たとえあまり素質がなく、多くの真理を理解することができなかったとしても、彼らはやはり、時折、聖霊の働きを得ることは可能である。しかし、素質がかなりあっても心から信じない人たちは、聖霊の臨在を得ることは決してできない。そのような人々が救われる余地は全くない。たとえ彼らが神の言葉を読んだり、時折説教を聞いたりしても、或いは神を賛美しても、結局は安息の中に残ることはできない。人が心から追い求めているかどうかは、他の人が彼らをどう評価するかによってあるいは、周りの人が彼らのことをどう見るかによって決まるのではなく、聖霊が彼らの上で働くかどうか、あるいは彼らに聖霊の臨在があるかどうかによって決められる。そして何より、彼らの性質が変化するかどうか、そして一定期間聖霊の働きを経験した後、神についての認識を持ったかどうかによって決められる。もし聖霊の働きが人の上にあれば、その人の性質は次第に変化し、彼らの神を信じることへの見方も次第に純粋になっていく。人が神につき従った時間に関係なく、その人が変化を経験したならば、聖霊がその人の上に働いていることを意味する。もしその人が変化しなかったなら、それは聖霊がその人の上に働いていないことを意味する。そのような人たちが何らかの奉仕をしても、彼らは幸運を手に入れようという意図に唆されているのである。性質を変化させる代わりに時折仕えるということはできない。最後には、彼らはやはり滅ぼされる。なぜなら、神の国では奉仕する者は不要で、性質が変えられていない人が完全にされかつ神に忠実な人たちに対して奉仕するといった需要もないからである。「ひとりの人が神を信じれば、その人の家族全員に幸運が訪れる」という昔からの言葉は、恵みの時代に適しているが、人の終着点とは関係がない。この言葉はただ恵みの時代の一段階だけに適していたのである。この言葉は、人が享受する平安と物質的な祝福に対して向けられていたのである。一人が主を信じれば家族全員が救われるということではなく、一人が幸運を手に入れると家族全員が安息の中に入れるということでもない。人が祝福を受けるか、それとも災いを受けるかは、その人の本質によって決まるのであって、その人がほかの人と共有する本質によって決まるのではない。神の国にはそのような言い習わしも規則もない。人が最後に生き残ることができるのは、その人が神の要求を満たしたからである。そして、人が最終的に安息の時を生き残ることができないのは、その人自身が神に背き、神の要求を満足させていないからである。どの人にもふさわしい終着点がある。この終着点は各人の本質によって決まるのであり、ほかの人とは全く関係がない。子供の悪行が親になすりつけられることはなく、子供の義も親と共有することはできない。親の悪行は子供になすりつけられることはなく、親の義も子供と共有することはできない。誰もが自分の罪を担い、誰もが自分の幸運を享受する。だれもほかの人の代わりをすることができない。これが義である。人間の考えは、親が幸運を手に入れれば子供も幸運を得ることができ、子供が悪を行えば親がその罪を償わなければならないというものである。これは人の見方であり、やり方である。神の見方ではない。どの人の結末もその人の行動からくる本質によって定められるのであり、それは常に適切に定められるのである。誰も他人の罪を担うことができず、他人の代わりに罰を受けることはなおさらできない。これは絶対的なことである。親は子供をかわいがるが、それは親が子供の代わりに義を行うことができるということではなく、また、子供が親に孝行しても、親の代わりに義を行うことができるということではない。これは「ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう」という言葉の背後にある真の意味である。子供をとても愛するがゆえに、悪を行う子供を安息の中に連れていくことができる者は一人もおらず、自ら義を行うがゆえに自分の妻（或いは夫）を安息の中に連れていくことができる者も一人もいない。これは神の行政上の規則であり、一人として例外はいない。義を行う者はつまるところ義を行う者であり、悪を行う者はつまるところ悪を行う者である。義を行う者は生き残ることができ、悪を行う者は滅される。聖なる者は聖なる者である。彼らは汚れた者ではない。汚れた者は汚れた者であって、聖なる要素が少しもない。悪を行う人の子供が義を行っても、義人の親が悪を行っても、邪悪な者はすべて滅ぼされ、義人はすべて生き残る。信仰深い夫と不信仰な妻はもともと関係がなく、信仰深い子供と不信仰な親はもともと関係がない。彼らは相容れない二種類の人である。安息の中に入る前に人には肉親があるが、ひとたび安息の中に入ると、もはや語るべき肉親はなくなる。本分を尽くす者と、本分を尽くさない者は敵であり、神を愛する者と、神を憎む者は敵対する。安息の中に入る者と、滅ぼされた者は相容れることのできない二種類の被造物である。本分を尽くす被造物は生き残ることができ、本分を尽くさない被造物は滅ぼされる。さらに、これは永遠に続く。あなたが夫を愛するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。あなたが妻を愛するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。あなたが自分の未信者の親に孝行するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。神を信じることに関して人の観点は正しいだろうか、間違えているだろうか。なぜあなたは神を信じるのだろうか。あなたは何を得たいのだろうか。あなたはどのように神を愛しているのだろうか。被造物の本分を果たすことができず、全力を尽くすことができない者は滅ぼされる。今日の人々は、血の繋がりだけでなく肉体の関係があるが、今後これは完全に打ち破られる。信じる者と信じない者は相容れないのであり、敵対する。安息の中の人はみな神の存在を信じる者であり、神に従順な者である。神に不従順な人々は完全に滅ぼされてしまう。地上にはもう家族がなくなる。それでは、どうして父母があるだろうか、どうして子供があるだろうか、どうして夫婦関係があるだろうか。信仰と不信仰という不一致が、このような肉の関係を切断してしまうのである。人類の中には、もともと家族がなく、男と女という二つの種類の人がいただけであった。家族は言うまでもなく、国もなかったが、人の堕落のゆえに、あらゆる種類の人々が個々の一族へと組織化し、後になって、それは国と民族に発展した。これらの国と民族はまた個々の小さな家族から成り、こうして、あらゆる種類の人々は異なった言語と地境に従って、種々な人種の間に分布するようになった。実は、世界の中の人種がどれほど多くても、人類はたった一人の祖先をもつ。最初、二つの種類の人間しかおらず、この二つの種類は男と女であった。だが神の働きの進展、歴史の移り変わり、地形の変遷のゆえに、この二つの種類の人間は、程度の差はあっても、次第にもっと多くの種類の人に発展した。要するに、人類の中にはどれだけの人種があっても、全人類はやはり神の創造物である。人々がどの人種に属していても、彼らは神の被造物である。彼らは、アダムとエバの後裔である。たとえ彼らが、神の手によって造られたのではないとしても、彼らは神が自ら造ったアダムとエバの後裔である。人々がどのタイプに属していても、彼らは神の創造物である。彼らは神によって作られた人類に属するから、彼らの終着点は人類がもつべき終着点である。そして彼らは人類を体系化する規則に従って分けられる。つまり、悪を行う人と、義を行う人はみな、結局のところ被造物である。悪を行う被造物は最後には滅ぼされ、義を行う被造物は生き残る。これは二つの種類の被造物に対するいちばん適切な取り決めである。悪を行なう者は、これまで不従順であったから、彼らが神の創造物であってもサタンによって略奪されてしまい、かくして救われることが不可能になったことを否定できない。義を行う被造物は生き残るが、彼らが神に造られながらもサタンに堕落させられた後に救いを受けたという事実は否定することができない。悪を行う者は神に背く被造物である。彼らは救われることがなく、しかもすでにサタンに徹底的に略奪された被造物である。悪を行う人もまた人である。彼らは極めて深く堕落させられた人であり、救われることのない人である。同じく被造物であり、義を行う者も堕落させられた人であるが、彼らは進んで堕落した性質を脱ぎ捨てようとする人であり、神に従うことができる人である。義を行う人は義で満ちた人ではない。彼らは救いを受け取り、堕落した性質を脱ぎ捨てて神に従う人である。彼らは最後にしっかりと立つことができるが、それは彼らがサタンに堕落させられなかったということではない。神の働きが終わった後、すべての被造物の中には、滅びる者もいれば、生き残る者もいる。これは神の経営（救い）の働きの必然的流れである。これはだれも否認できないことである。悪を行う者はみな生き残ることができず、最後まで神に従順でつき従う者は、確実に生き残る。これは、人類を経営する働きであるから、生き残る者もいれば排除される者もいる。これは異なる種類の人々の異なる結末であり、被造物に対するいちばんふさわしい取り決めである。人類に対する神の究極の取り決めは、家族、民族、国境を打ち破ることによって人類を区分することである。それによって、家族の区別がなくなり、国境による区別もなくなる。なぜなら、人は、つまるところ、一人の祖先であり、人は神の創造物だからである。要するに、悪を行う被造物は滅ぼされ、神に従順な被造物は生き残る。このようにして、未来の安息の中には家族も、国も、特に民族もない。このような人類が、もっとも聖なる人類である。最初、人が地上で万物を管理することができるように、アダムとエバは造られた。人はもともと万物の主人であった。ヤーウェが人を造る目的は、人が地上で生き、しかも地上の万物を管理することであった。なぜなら、最初人は堕落させられておらず、しかも人は悪を行うこともできなかったからである。しかし、人は堕落させられた後、もう万物の管理者でなくなった。そして、神の救いの目的は、人のこの機能を回復し、人の最初の理性、最初の従順さを回復することである。安息の中の人類はまさに神の救いの働きが達成することを望む結果の描写そのものである。それはもはやエデンの園のような生活ではないだろうが、その本質は同一である。人類は単に堕落させられる前の初期の人類ではなく、堕落させられた後、救われた人類なのである。救いを受け取ったこのような人々は最終的に（すなわち神の働きが終わった後）安息に入る。同様に、罰せられた人々の結末も最後に徹底的に明らかにされ、神の働きが終わった後、彼らは滅ぼされるだけである。つまり、彼の働きが終わった後、このような悪を行う者と救われた者は全てに明らかにされる。なぜなら、あらゆる種類の人々（悪を行う者であれ、救われた者であれ）を明らかにする働きは、すべての人の身に同時に行われるからである。悪を行う人が排除されると同時に、生き残ることができる人たちも明らかにされる。したがって、あらゆる種類の人の結末は同時に明らかにされる。神はまず、悪を行った者を取り置き、彼らを少しずつ裁き罰する前に、救済された一団の人々が安息の中へ入ることを許さない。事実は決してそうではない。悪人が滅ぼされ、生き残ることができる人が安息の中に入った時、全宇宙における神の働きは終わる。祝福を受ける者と苦しみを受ける者の間に優先順位はない。祝福を受ける者は永遠に生き、災いを受ける者は永遠に滅びる。これらの2段階の働きは同時に完成されるのである。それらの従順な人の義が明らかにされるのは、まさしく不従順なものがいるからであり、悪を行うそれらの人が自分の悪行のゆえに受けた災いが明らかにされるのは、まさしく祝福を受ける者がいるからこそである。もし神が悪を行う人を明らかにしなかったならば、心から神に従うそれらの人は永遠に太陽を見ることができない。もし神に従う人を神がふさわしい終着点に導き入れなければ、神に背くそれらの人は当然の報いを受けることができない。これは神の働きの手順である。もし神が、悪を行う者を罰し、善を行う者を報いる働きをしなければ、彼の創造物は永遠に各自の終着点の中に入ることができない。ひとたび人類が安息に入ったなら、悪を行う人たちはみな滅ぼされ、全人類は正しい軌道に乗り、各種類の人は自分の果たすべき機能によっておのおのその種類に従う。これのみが人類の安息の日であり、人類の発展の必然的な方向である。そして人類が安息に入る時こそ、神の偉大で、そして究極の成果が完成する。これが神の働きの終結である。この働きは全人類の退廃した肉体の生活を終わらせ、堕落した人類の生活を終わらせる。そこから人類は新しい領域の中に入る。人は肉体的存在であるが、その生活の実質は堕落した人類の生活のそれと大いに異なる。その存在の意味も堕落した人類の存在の意味とは異なる。これは新しい種類の人の生活ではないが、救いを受け取った人類の生活、回復された人間性と理性を伴う生活であると言える。このような人たちはかつて神に背いた人であり、かつて神に征服されて、それから救われた人たちである。この人たちはまた、神を辱めたことがあるが後で神のために証しをした人である。神の試練を受け、生き残った彼らの存在は、最も意義のある存在である。彼らはサタンの前で神のために証しした人である。彼らは生きるに相応しい人である。滅ぼされる人たちは、神の証しのために立つことができなくて、生きるに相応しくない人である。彼らの滅びは自らの悪行ゆえであり、滅びが彼らにとって最良の終着点である。人がその後よい領域の中に入ったら、人がきっとあると想像するような、夫と妻、父と娘、あるいは母と息子のような関係は全くないのである。その時、人はみな各々の種類に従い、家族はすでに打ち砕かれている。サタンは完全に失敗していて、もう人類をかき乱すことはなく、人にはもう堕落したサタン的性質がなくなっている。そのような不従順な人たちはすでに滅ぼされていて、従順な人だけが生き残る。それゆえに、ほとんどの家族が元のまま生き残ることができない。どうして肉の関係が依然、存続することができるだろうか。人の過去の肉の生活は完全に廃止される。人と人の間に肉の関係がどのして存続することなどできようか。堕落したサタン的性質がなければ、人の生活はもう以前の古い生活ではなくて、新しい生活である。親は子供を失い、子供は親を失う。夫は妻を失い、妻は夫を失うであろう。人々の間には現在肉の関係がある。彼らが完全に安息に入った時は、もう肉の関係がなくなる。このような人類こそが義と聖さをもち、そのような人類だけが、神を礼拝する人類である。神は人類を創造し、人類を地上に置き、今日まで導いてきた。その後、人類を救い、人類のための罪のいけにえとなった。終わりの時に、彼は人類を征服して、人類を完全に救い出し、人に本来の姿を回復させなければならない。これが、彼が始めから終わりまで従事してきた働きである。つまり、人を元のイメージへ回復し元の姿へ回復させるのである。神は自身の国を打ち立て、人に本来の姿を回復させる。つまり神は地上における自身の権威を回復し、あらゆる被造物の間における自身の権威を回復する。人はサタンに堕落させられた後、神を畏れる心を失い、被造物として持つべき機能を失って、神に背く敵になった。人はみなサタンの権威の下に生きるようになり、サタンの命令に従った。それゆえ、神は被造物の間で働くことができず、被造物からの畏れ敬いを得ることはさらにできなかった。人は神に造られており、神を礼拝すべきであるが、人は神に背いてサタンを崇拝した。サタンは人の心の中の偶像になった。こうして、神は人の心における立場を失い、つまり人を造った意義を失った。だから、神が人を造った意義を回復しようとするなら、人に本来の姿を回復させ、人に堕落した性質を脱ぎ捨てさせなければならない。人をサタンの手から奪い返すには、人を罪の中から救い出さなければならない。このようなやり方によってのみ、神は次第に人に本来の姿を回復させ、本来の機能を回復させる。そして遂には、神の国を回復する。最終的にそれらの不従順の子を徹底的に滅ぼすのも、人がよりよく神を礼拝し、よりよく地上で生存することができるためである。神は人類を造ったので、人に自身を礼拝させる。神は人に本来の機能を回復させたいので、徹底的に、しかも混じりけが少しもないように、回復させる。神が自身の権威を回復することは、人に自身を礼拝させることであり、自身に従わせることである。それは、人を神ゆえに生きるようにすることであり、神の権威ゆえに神の敵を滅ぼすことであり、神のあらゆる部分全てが人の間で、全く拒否されることなく存続するようにすることである。神が打ち立てようとする国は神自身の国である。神が求める人間は自身を礼拝する人間であり、完全に従う人間であり、神の栄光を持つ人間である。もし神が堕落した人間を救い出さなければ、神が人を造った意義は無となる。神は人の間で権威を持たなくなり、地上に神の国が現れることもない。もし神に背く敵を滅ぼさなければ、神は完全な栄光を得ることができず、地上で神の国を打ち立てることもできない。人類の不従順な者たちを徹底的に滅ぼし、完全にされた者たちを安息の中に連れていく──これは彼の働きが終わったことのしるしであり、神が偉業を達成したしるしである。人類がみな本来の姿を回復し、それぞれ自分の本分を尽くし、自分の立場を守り、神のすべての定めに従うことができたら、神が地上で一団の、自身を礼拝する人たちを得、自身を礼拝する国を打ち立てたことになる。神は地上で永遠の勝利を得、自身に敵対する者たちは永遠に滅びる。これは神が最初に人を造った時の意図を回復し、神が万物を造った意図を回復し、地上での神の権威、万物の中での神の権威、敵の間での神の権威をも回復したことになる。これらは神が完全に勝利を得たことのしるしである。その後人類は安息に入り、正しい軌道に乗った生活に入る。神も人との永遠の安息に入り、神と人が共有する永遠の生活に入る。地上の汚れと不従順は消え、地上の嘆き悲しみも消える。神に敵対する地上のあらゆるものも存在しなくなる。神と神に救われた人たちだけが残り、神の創造物だけが残る。]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-17T09:00:20+00:00</published><updated>2020-01-17T09:00:20+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p>神と人は共に安息に救われた</p><p>はじめ、神は安息の中にいた。その時、地上には人類も他の何物もなく、神は何も働きをしなかった。人類が存在するようになり、さらに人類が堕落してしまった後、神ははじめて経営（<a href="https://jp.godfootsteps.org/tag/the-salvation-of-God" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救い</b></a>）の働きに取りかかった。その時から神はもう安息せず、人類の間で忙しく働き始めた。人類が堕落したため神は安息を失い、また大天使が裏切ったため神は安息を失った。もしサタンを打ち負かさず、堕落した人類を救わなければ、神は二度と再び安息に入ることができない。人に安息がないので、神にも安息がない。神がもう一度安息の中に入る時、人も安息の中に入る。安息の中の生活とは、戦いも汚れも、継続する不義もない生活である。言い換えれば、そのような生活には、神に敵対するいかなる勢力の侵入もないだけでなく、サタン（サタンとは敵対する勢力を指す）による妨害もサタンの堕落も存在しない。万物がおのおのその種類のものに従い、造物主を礼拝する。天上も地上も平穏になる。これが、人類が安息に入った生活である。神が安息の中に入った時、地上にはもうどんな不義も継続せず、もういかなる敵対勢力の侵入もなくなる。人類も新しい領域の中に入る。すなわち、彼らはもはやサタンに堕落させられた人類ではなく、サタンに堕落させられた後<a href="https://jp.godfootsteps.org/salvation-1.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救われた</b></a>人類である。人類の安息の日々は、神にとっての安息の日々でもある。神は人類が安息の中に入ることができないため、安息を失ったのである。つまり、神は本来、安息に入ることができなかったのではない。安息の中に入ることは、あらゆる事物の活動が止まることを意味するのでもなければ、あらゆる事物の発展が止まることを意味しているのでもない。また、神がもう働くことをやめる、あるいは人がもう生活することをやめることを意味しているのでもない。安息に入ったことのしるしは、以下のようなものである──サタンが滅ぼされている、サタンに同調する悪人たちがみな懲罰を受けて一掃されている、そして神に敵対するすべての勢力が存在しない。神が安息の中に入ることは、神がもう人類を救うという働きをしないことを意味している。人類が安息の中に入ることは、全人類がみな神の光の中と<b><a href="https://jp.godfootsteps.org/crystallization-of-gods-management.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">神の祝福</a></b>の下に生きることを意味する。もはやサタンの堕落がなく、不義な事も起こらない。人類はみな地上で正常に生活し、神の加護のもとで生きるようになるだろう。神と人が共に安息に入るということは、人類が救われたこと、サタンは滅ぼされたこと、人における神の働きが全部終わったことを意味する。神はもはや人の中で働き続けず、人ももうサタンの支配下に生きることはなくなる。それゆえに、神はもう忙しく働かず、人はもう忙しく駆け回らない。神と人は同時に安息の中に入るようになる。神はもとの場所に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の経営（救い）が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。神はもはや人の間には住まず、人も神と一緒に神の目的地で住むことはできない。神と人は同じ領域の中で生活することができない。むしろ、それぞれ自分の生き方がある。神が全人類を導くのであり、全人類は神の経営の働きの結晶である。導かれるのは人類である。人間は、本質的には、神と異なる。安息することとは、神と人がそれぞれの本来の場所に帰ることを意味する。それゆえ神が安息に入るとき、それは神がもとの場所に復帰することを意味する。神はもう地上で生活しないか、あるいは人の間にあっても、人と苦楽を共にしない。人が安息に入るとは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダムとエバの生活に復する。これが、神と人が安息に入った後の、それぞれの生活と目的地である。サタンが打ち負かされることは、神とサタンとの戦いが必然的に向かう方向である。こうして、神が経営の働きを終えた後に安息に入ることと人が完全に救われ安息に入ることは、同様に不可避的に向かう方向になる。人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し、地上で生きる。神は安息の中で残りの人類を導くが、地上から導くのではなくて天から導く。神は依然として霊であり、一方、人は、依然として肉である。神と人にはおのおの異なる安息の仕方がある。神は安息するが、人の間に来て人に現れる。人は安息するが、神に導かれて天を訪ね、天上で人生を楽しむこともある。神と人が安息に入った後、サタンはもはや存在せず、サタン同様、邪悪な者も、もはや存在しない。神と人が安息に入る前に、かつて地上で神を迫害したことのある邪悪な者たち、地上で神に不従順だった敵たちはすでに滅ぼされている。彼らは終わりの日の大きな災難によって滅ぼされている。そのような邪悪な者たちが徹底的に滅ぼされた後、地上でサタンの妨害を見ることはなくなる。人は完全な救いを与えられ、そうして初めて、神の働きが完全に終わる。これは神と人が安息に入る前提である。</p><p>万物の終わりが近づいたということは、神の働きが終わったことを示し、人類の発展が終わったことを示す。このことは、サタンによって堕落させられた人類は発展の終わりを迎えたことを意味し、アダムとエバの子孫たちは、それぞれの終焉に向かって増えていったことを意味し、さらに、サタンに堕落させられたこのような人類が引き続き発展していくことが不可能であることを意味する。初めアダムとエバは、堕落させられてはいなかった。しかし、エデンの園から追放されたアダムとエバはサタンに堕落させられた。神と人が共に安息に入る時、エデンの園から追放されたアダムとエバ及び彼らの子孫は最終的に終焉を迎える。未来の人類は依然としてアダムとエバの後裔から成るが、サタンの支配下に生きている人々ではない。彼らはむしろ、救われ、清められた人々である。このような人類はすでに裁かれ、罰せられており、聖なる人である。そのような人々は最初の人類とは異なっている。最初のアダムとエバとは全く異なる種類の人だと言うことができる。このような人々はサタンに堕落させられたあらゆる人の中から選び出された人々であり、<a href="https://jp.godfootsteps.org/appendix-iii-beholding-the-appearance-of-god-in-his-judgment-and-chastisement.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の裁き</b></a>や刑罰にゆるがず耐え抜いた人々である。彼らは堕落した人類の中で生き残った最後の一団の人々である。この一団の人々だけが神と共に最後の安息の中に入ることができる。終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。神の働きが終わる時、生き残ることのできる人は、清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。彼らはかつて贖われたことがあり、また裁かれもし、懲らしめも受け罰せられたことがある。彼らはまた神への奉仕をしたこともあるが、終わりの日がきたら、彼らはやはり、自身の悪さ、自身の不従順さ、贖う術もないような有様が原因で、排除され、滅ぼされる。彼らは未来の世界では存在しないし、未来の人類の間で生きることもない。死んだ人の魂であれ、肉としてまだ生きている人であれ、すべての悪を働く者、すべての救われなかった者は、人類の中の聖なるものたちが安息の中に入る時、滅ぼされる。これらの、悪を働く魂と悪を働く人々、或いは義人の魂と義を行う人々が、どんな時代に属していたとしても、悪を行う者はみな滅ぼされ、義なる人はみな生き残る。人あるいは魂が救いを受けるかどうかは、終わりの時代の働きによってのみ決まるのではなく、むしろ、彼らが神に逆らってきたかどうかあるいは神に背いてきたかどうかによって確定されるのである。もし前の時代の人が悪を働き、救われなかったなら、彼らは間違いなく罰を受ける対象になる。もし今の時代の人が悪を働き、救われないなら、彼らもまた、確実に罰の対象になる。人々は、善と悪にもとづいて分離されるのであって、時代にもとづいて分離されるのではない。ひとたび、善と悪によって分離されたら、人々は直ちに罰を受けたり報いを与えられたりするのではない。むしろ神は、終わりの日における征服の働きを遂行した後はじめて、悪を行う者を罰し、善を行う者に報いる働きを行う。実は、神が人類に対して働きをはじめた時からずっと、神は人類を分けるために善と悪を用いている。神は自身の働きを終えて初めて、義なる人を報い、悪である者を罰するのである。最後に働きを終えて悪者と義人を分けて、それからすぐ悪を罰し、善に報いる働きに着手するのではない。悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。</p><p>今日人々は肉のものを手放すことができない。肉の楽しみを放棄できず、この世、金銭、堕落した性質をも捨てることができない。大多数の人は思うままに追求している。実際、このような人々は、心の中に全く神を持っていない。まして、彼らは神を恐れない。彼らは心の中に神を持たないので、神が行うすべてを理解できず、彼の口から出た言葉を信じることはなおさらできない。このような人々はあまりにも肉的である。彼らは、あまりにも深く堕落させられ、いかなる真理をも欠いている。その上、神が<a href="https://jp.godfootsteps.org/what-is-incarnation.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>受肉</b></a>できることを信じない。肉となった神を信じない人、すなわち、目に見える神の働きと言葉を信じない人、目に見える神を信じないで目に見えない天の神を崇拝する人はみな、心の中に神を持たない人である。彼らは、神に従わず、反抗する人たちである。このような人は真理を欠いているのは言うまでもなく、人間性と理知をも欠いている。このような人たちにとっては、目に見える神、触れることができる神はもっと信頼できず、目に見えない神、触れることのできない神こそが、いちばん信頼でき、またいちばん彼らの心を喜ばせるのである。彼らが求めるものは現実的な真理ではなく、いのちの本質でもなく、ましてや神の考えなどではない。むしろ彼らは、刺激を求めている。もっとも彼らの欲望を満たすことができるものならどんなものであっても、間違いなくそれが、彼らが信じ、追い求めるものである。彼らはただ自分の欲望を満たすためだけに神を信じるのであって、真理を求めるためではない。このような人たちはみな悪を行う人たちではないのか。彼らはひどく自信過剰で、天の神が彼らのような「善良な人々」を滅ぼすとは信じない。むしろ神は彼らを生き残らせ、しかも手厚く報いてくれると思っている。なぜなら、彼らは神のために多くの事をし、神のためにずいぶん「忠誠心」を尽くしたからである。もし彼らが目に見える神を追い求めるとなった場合、彼らの欲望が満たされないとなれば、彼らは直ちに神に反撃するか、烈火のごとく怒るはずである。このような人たちはみな、自分の欲望を満たそうとする卑劣な人間である。彼らは、真理を追い求めることにおいて誠実な人々ではない。このような人々は、キリストに従ういわゆる悪者たちである。真理を求めないこのような人たちは真理を信じることはできない。彼らは、人類の未来の結末については、なおさら感じることができない。なぜなら、彼らは目に見える神の働きと言葉をひとつも信じず、人類の未来の終着点をも信じることができないからである。したがって、彼らは見える神につき従っていても、やはり悪を働いて真理を求めず、わたしの要求する真理を実践することもない。自分が滅ぼされることを信じない人たちは逆に、まさに滅ぼされる対象そのものである。彼らはみな、自分がとても賢明であると信じていて、自分が真理を実行する人であると信じている。彼らは自分の悪行を真理と考え、それを大事にする。このような悪者はみなひどく自信過剰である。彼らは真理は教義であるとし、自分の悪行を真理と見なす。最後に彼らは自分の蒔いた種から刈り取る。自信過剰で傲慢であればあるほど、真理を得ることができず、天の神を信じれば信じるほど、神に逆らう。このような人たちはみな罰せられる人々である。人類が安息の中に入る前に、各々の種類の人が罰せられるか、それとも報われるかどうかは、彼らが真理を求めるかどうか、神を知っているかどうか、目に見える神に従うことができるかどうかによって決まる。目に見える神に奉仕してきたが神を知らない人や従わない人はみな真理のない人である。このような人たちは悪を行う人であり、悪を行う人は間違いなく罰を受ける対象である。しかも彼らは、彼らの悪行に応じて罰せられる。神は人による信仰の対象であり、また人が従うに値する存在である。だが、漠然とした目に見えない神だけを信じる人たちはみな神を信じない人たちである。その上、彼らは神に従うことができない。もしこのような人たちが神の征服の働きが終わるときに、依然として、目に見える神を信じることができず、しかも目に見える肉の神に従わず、逆らい続けるなら、このような「漠然派」は疑いなく滅ぼされる。それは、あなたがたのうちにも見られる。つまり、あなたがたのうち、口先では肉となった神を認めるが肉となった神に従うという真理を行うことができない人は誰でも、最後には排除され、滅ぼされる。また、口先では目に見える神を認め、しかも目に見える神が表現した真理を食べ飲みするが、漠然とした見えない神を追い求める人はなおさら将来滅ぼされる。このような人々の誰も、神の働きが終わった後の安息の時まで生き残ることができない。このような人はだれも安息の時まで生き残ることができない。悪魔の類の人はみな真理を実行しない人である。彼らの本質は神に逆らい、不従順なものであって、彼らは神に従う意図が少しもない。この様な人々はみな滅ぼされる。あなたが真理をもっているかどうか、神に逆らっているかどうかは、あなたの本質によって決まるのであり、あなたの外貌あるいは時折の言行によって決まるのではない。人が滅ぼされるかどうかは、その人の本質によって決まる。すなわち、彼らが事を行い、真理を追い求める過程で外に現れる本質によって決まるのである。同様に働きをし、しかも同じ程度の量の働きをする人々のうち人間性の本質が善であり真理を持っている人々が生き残る人々であり、人間性の本質が悪であり、目に見える神に背く者は、滅ぼされる人々である。人類の終着点に向けられた神の働き及び言葉の何もかもが、人類を、各人の本質に従って適切に取り扱う。そこには何の偶然も無ければ、無論僅かな誤りもない。人が働きを遂行するときにのみ、人の情感あるいは意味が入り込むのである。神が行う働きは最適である。神はいかなる被造物についても事実を歪曲して罪に陥れることは決してない。現在、未来の人類の終着点を理解することができず、しかもわたしが話す言葉を信じない多くの人々がいる。真理を行わない人々と同様に、信じない人々は皆、悪魔である。</p><p>追い求める人々と追い求めない人々は今や、2つの異なるタイプの人々であり、彼らは2つの異なる終着点をもつ2つのタイプの人々である。真理に関する認識を追求し、真理を実行する人々は神に救われる者である。真の道を知らない人々は、悪魔であり敵である。彼らは天使長の後裔であり、滅ぼされる。漠然とした神を信じる敬虔な信徒であっても、悪魔ではないだろうか。良心があるが真の道を受け入れないような人々は悪魔である。彼らの本質は神に逆らうものである。真の道を受け入れないような人々は、神に逆らう者である。このような人はたくさんの苦しみに耐えていたとしても、はやはり滅ぼされる。この世を捨てたがらず、父母を離れることに耐えられず、肉の喜びを捨てられないような人々はみな神に従順ではなく、みな滅ぼされる。肉となった神を信じない人はみな悪魔であり、彼らが滅ぼされるのはなおさらである。信じるが真理を行わない人々、肉となった神を信じない人々、神の存在を全く信じない人々はみな、滅ぼされる。生き残ることができる人はみな、精錬の苦しみを受けても堅く立って耐え抜いた人である。これは、本当に試練を経た人である。神を認めない人はみな敵である。すなわち、受肉した神を認めない者はだれでも、この流れの中にあってもなくても、みな反キリストである。神を信じない反抗者でないならば、サタンや悪魔、神の敵となることなどないはずだ。彼らは神に背く者ではないのか。口先だけで信じると言うが真理を持っていない人たちではないのか。祝福を受けることだけは追い求めるが、神のために証しをすることができない人たちではないだろうか。今日あなたはまだこのような悪魔と親しく交わり、良心や愛を悪魔と強調することもできる。これはサタンに親切心を示しているのではないだろうか。それは、悪魔に同調すると考えられないだろうか。もし人々が今日まだ、善悪を区別することができないなら、そして神の旨をどんな形でも求めることを望まず、愛や憐れみを、盲目的に強調するなら、さらに神の心を自身のものとして持つことが全くできないなら、そのような人の結末はもっと悲惨だろう。肉の神を信じないものはみな神の敵である。もしあなたが敵に向かって良心と愛を強調することができるなら、あなたは義の良識を欠いていないだろうか。もしあなたが、わたしが憎み嫌い、反対するものと相容れて、その上彼らとの愛あるいは個人的な感情を強調するなら、あなたは不従順ではないのか。あなたは故意に神に逆らっているのではないか。このような人が真理をもっているだろうか。もし、敵に対する良心を強調し、悪魔への愛を強調し、サタンへの憐れみを強調するなら、そのような人はみな、故意に神の働きを妨げていないだろうか。イエスだけを信じて、終わりの日の肉なる神を信じない人たち、口先では肉となった神を信じると言うが悪を行う人たちはみな、反キリストである。神を信じない人たちが反キリストであるのは言うまでもない。このような人はみな滅ぼされる。人が人を判断する基準は人の振る舞いである。行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は邪悪な者である。神が人を判断する基準は、その本質が神に従順であるかどうかである。つまり、その人の振る舞いが良いか悪いか、語る言葉が正しいかそうでないかに関わらず、神に従順な者は義であり、不従順な者は敵であり、悪者である。一部の人は善い行いによって未来のよい終着点を獲得しようと思い、一部の人はよい言葉によって未来のよい終着点を手に入れたいと考える。人々はみな、神が人の行い、或いは人の言葉によって人の結末を定めると間違った信じ方をし、ゆえに多くの人は偽ってこれらを用いて恵みを獲得しようとする。後に安息の中で生き残る人々はみな苦難の日を経験し、しかも神のために証しをしてきた人である。彼らはみな自分の本分を果たしてきた人であり、神に従おうとする人である。仕える機会を利用して真理の実践を免れようと思う人たちはみな、生き残ることができないだろう。神がすべての人の結末を定めるのは、適切な基準に基づいている。神は人の言行だけに基づいてそれを決定するのでもなく、ひとつの期間の行いに基づいて決定するのでもない。神は人がかつて神に仕えたからといって、そのすべての悪行に対して寛大に対処することは決してなく、また、人が神のために一時費やしたからといって彼の死を免除することもない。だれ一人として自分の悪の報いから逃れられず、また、だれ一人として自分の悪行を隠して滅びの苦しみから逃れることもできない。もし人が本当に自分の本分を果たすことができるのであれば、祝福を受けるにしろ不運に苦しむにしろ、その人が神に永遠に忠実であり、報いを求めないという意味である。祝福が見えれば神に忠実であり、祝福が見えない時は忠実ではなくなり、結局神のために証しをすることができず、尽くすべきように本分を尽くすこともできないこのような人たちは、かつては神に忠実に仕えた人であっても、やはり滅ぼされる。要するに、邪悪な者は永遠に生きることはできず、安息の中に入ることもできない。義なる人のみが安息の主人である。人類が正しい軌道に乗った後、人は正常な人間の生活をするようになる。彼らはみな自身の本分を尽くし、神に全く忠実である。彼らは不従順と堕落した性質を完全に脱ぎ捨て、神のために生き、神ゆえに生きる。彼らはもう神に背かず、逆らわず、神に完全に従うことができる。これこそ神と人の生活であり、神の国の生活であり、安息の生活である。</p><p>全く信仰心のない子供や親戚を教会に連れて来る人たちは、あまりに自己中心であり、親切心を示している。このような人たちは、自分が連れてきた人たちが信じるかどうか、あるいはそれが神の旨であるかどうかを考慮せず、愛だけを強調する。一部の人たちは、彼らの妻や両親を神の前に連れて来る。聖霊が同意しているかどうかあるいは聖霊が働いているかどうかに関わらず、彼らは盲目的に神のために「才能ある人材を導入する」。信じていない人にそのように親切心を広げることから何の益が得られるのか。聖霊の臨在がないこれらの未信者がしぶしぶ神につき従っても、人が考えるように救われるものではない。救われる人を獲得するのはそれほど容易ではない。聖霊の働きと試練を経験せず、また肉となった神に完全にされていない人は、完全にされることなどない。それゆえ、このような人々は神に名目上つき従い始めた時から聖霊の臨在がない。彼らの状況と実際の状態では、完全にされることなどない。それだから、聖霊も彼らに対してそんなに多くの精力を費やすつもりがなく、またいかなる啓きあるいは導きをも、どんな形でも、与えない。ただ彼らにつき従わせるだけであり、最後になって彼らの結末を明らかにする──それだけで十分なのだ。人の熱意や意図はサタンから来るものであり、聖霊の働きを決して全うすることはない。どんな種類の人であっても、聖霊の働きを持たねばならない。人が人を完全にすることなどできるだろうか。夫はなぜ妻を愛するのか。また、妻はなぜ夫を愛するのか。子供たちはなぜ親に従うのか。また、なぜ親は子供たちをかわいがるのか。人々はどんな意図を心に抱いているのだろうか。すべて自分の計画どおりにし、私欲を満足させるためではないだろうか。本当に神の経営（救いの）計画のためだろうか。神の働きのためだろうか。被造物の本分を尽くすためだろうか。最初は神を信じたが聖霊の臨在を得ることができなかった人は、決して聖霊の働きを得ることができない。このような人たちはすでに滅ぼされるよう決められている。人が彼らに対してどれだけ多くの愛を持っていても、それは聖霊の働きに取って代わることはできない。人の熱意と愛は人の意図を表わすのであって、神の意図を表わすことも、神の働きに取って代わることもできない。名目上神を信じ神に従う振りをするが、神を信じるとは何かを知らないような人々に、最大限の愛や憐れみを与えたとしても、彼らはやはり神の同情を得ることも聖霊の働きを得ることもないのである。心から神に従う人は、たとえあまり素質がなく、多くの真理を理解することができなかったとしても、彼らはやはり、時折、聖霊の働きを得ることは可能である。しかし、素質がかなりあっても心から信じない人たちは、聖霊の臨在を得ることは決してできない。そのような人々が救われる余地は全くない。たとえ彼らが神の言葉を読んだり、時折説教を聞いたりしても、或いは神を賛美しても、結局は安息の中に残ることはできない。人が心から追い求めているかどうかは、他の人が彼らをどう評価するかによってあるいは、周りの人が彼らのことをどう見るかによって決まるのではなく、聖霊が彼らの上で働くかどうか、あるいは彼らに聖霊の臨在があるかどうかによって決められる。そして何より、彼らの性質が変化するかどうか、そして一定期間聖霊の働きを経験した後、神についての認識を持ったかどうかによって決められる。もし聖霊の働きが人の上にあれば、その人の性質は次第に変化し、彼らの神を信じることへの見方も次第に純粋になっていく。人が神につき従った時間に関係なく、その人が変化を経験したならば、聖霊がその人の上に働いていることを意味する。もしその人が変化しなかったなら、それは聖霊がその人の上に働いていないことを意味する。そのような人たちが何らかの奉仕をしても、彼らは幸運を手に入れようという意図に唆されているのである。性質を変化させる代わりに時折仕えるということはできない。最後には、彼らはやはり滅ぼされる。なぜなら、神の国では奉仕する者は不要で、性質が変えられていない人が完全にされかつ神に忠実な人たちに対して奉仕するといった需要もないからである。「ひとりの人が神を信じれば、その人の家族全員に幸運が訪れる」という昔からの言葉は、恵みの時代に適しているが、人の終着点とは関係がない。この言葉はただ恵みの時代の一段階だけに適していたのである。この言葉は、人が享受する平安と物質的な祝福に対して向けられていたのである。一人が主を信じれば家族全員が救われるということではなく、一人が幸運を手に入れると家族全員が安息の中に入れるということでもない。人が祝福を受けるか、それとも災いを受けるかは、その人の本質によって決まるのであって、その人がほかの人と共有する本質によって決まるのではない。神の国にはそのような言い習わしも規則もない。人が最後に生き残ることができるのは、その人が神の要求を満たしたからである。そして、人が最終的に安息の時を生き残ることができないのは、その人自身が神に背き、神の要求を満足させていないからである。どの人にもふさわしい終着点がある。この終着点は各人の本質によって決まるのであり、ほかの人とは全く関係がない。子供の悪行が親になすりつけられることはなく、子供の義も親と共有することはできない。親の悪行は子供になすりつけられることはなく、親の義も子供と共有することはできない。誰もが自分の罪を担い、誰もが自分の幸運を享受する。だれもほかの人の代わりをすることができない。これが義である。人間の考えは、親が幸運を手に入れれば子供も幸運を得ることができ、子供が悪を行えば親がその罪を償わなければならないというものである。これは人の見方であり、やり方である。神の見方ではない。どの人の結末もその人の行動からくる本質によって定められるのであり、それは常に適切に定められるのである。誰も他人の罪を担うことができず、他人の代わりに罰を受けることはなおさらできない。これは絶対的なことである。親は子供をかわいがるが、それは親が子供の代わりに義を行うことができるということではなく、また、子供が親に孝行しても、親の代わりに義を行うことができるということではない。これは「ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう」という言葉の背後にある真の意味である。子供をとても愛するがゆえに、悪を行う子供を安息の中に連れていくことができる者は一人もおらず、自ら義を行うがゆえに自分の妻（或いは夫）を安息の中に連れていくことができる者も一人もいない。これは神の行政上の規則であり、一人として例外はいない。義を行う者はつまるところ義を行う者であり、悪を行う者はつまるところ悪を行う者である。義を行う者は生き残ることができ、悪を行う者は滅される。聖なる者は聖なる者である。彼らは汚れた者ではない。汚れた者は汚れた者であって、聖なる要素が少しもない。悪を行う人の子供が義を行っても、義人の親が悪を行っても、邪悪な者はすべて滅ぼされ、義人はすべて生き残る。信仰深い夫と不信仰な妻はもともと関係がなく、信仰深い子供と不信仰な親はもともと関係がない。彼らは相容れない二種類の人である。安息の中に入る前に人には肉親があるが、ひとたび安息の中に入ると、もはや語るべき肉親はなくなる。本分を尽くす者と、本分を尽くさない者は敵であり、神を愛する者と、神を憎む者は敵対する。安息の中に入る者と、滅ぼされた者は相容れることのできない二種類の被造物である。本分を尽くす被造物は生き残ることができ、本分を尽くさない被造物は滅ぼされる。さらに、これは永遠に続く。あなたが夫を愛するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。あなたが妻を愛するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。あなたが自分の未信者の親に孝行するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。神を信じることに関して人の観点は正しいだろうか、間違えているだろうか。なぜあなたは神を信じるのだろうか。あなたは何を得たいのだろうか。あなたはどのように神を愛しているのだろうか。被造物の本分を果たすことができず、全力を尽くすことができない者は滅ぼされる。今日の人々は、血の繋がりだけでなく肉体の関係があるが、今後これは完全に打ち破られる。信じる者と信じない者は相容れないのであり、敵対する。安息の中の人はみな神の存在を信じる者であり、神に従順な者である。神に不従順な人々は完全に滅ぼされてしまう。地上にはもう家族がなくなる。それでは、どうして父母があるだろうか、どうして子供があるだろうか、どうして夫婦関係があるだろうか。信仰と不信仰という不一致が、このような肉の関係を切断してしまうのである。</p><p>人類の中には、もともと家族がなく、男と女という二つの種類の人がいただけであった。家族は言うまでもなく、国もなかったが、人の堕落のゆえに、あらゆる種類の人々が個々の一族へと組織化し、後になって、それは国と民族に発展した。これらの国と民族はまた個々の小さな家族から成り、こうして、あらゆる種類の人々は異なった言語と地境に従って、種々な人種の間に分布するようになった。実は、世界の中の人種がどれほど多くても、人類はたった一人の祖先をもつ。最初、二つの種類の人間しかおらず、この二つの種類は男と女であった。だが神の働きの進展、歴史の移り変わり、地形の変遷のゆえに、この二つの種類の人間は、程度の差はあっても、次第にもっと多くの種類の人に発展した。要するに、人類の中にはどれだけの人種があっても、全人類はやはり神の創造物である。人々がどの人種に属していても、彼らは神の被造物である。彼らは、アダムとエバの後裔である。たとえ彼らが、神の手によって造られたのではないとしても、彼らは神が自ら造ったアダムとエバの後裔である。人々がどのタイプに属していても、彼らは神の創造物である。彼らは神によって作られた人類に属するから、彼らの終着点は人類がもつべき終着点である。そして彼らは人類を体系化する規則に従って分けられる。つまり、悪を行う人と、義を行う人はみな、結局のところ被造物である。悪を行う被造物は最後には滅ぼされ、義を行う被造物は生き残る。これは二つの種類の被造物に対するいちばん適切な取り決めである。悪を行なう者は、これまで不従順であったから、彼らが神の創造物であってもサタンによって略奪されてしまい、かくして救われることが不可能になったことを否定できない。義を行う被造物は生き残るが、彼らが神に造られながらもサタンに堕落させられた後に救いを受けたという事実は否定することができない。悪を行う者は神に背く被造物である。彼らは救われることがなく、しかもすでにサタンに徹底的に略奪された被造物である。悪を行う人もまた人である。彼らは極めて深く堕落させられた人であり、救われることのない人である。同じく被造物であり、義を行う者も堕落させられた人であるが、彼らは進んで堕落した性質を脱ぎ捨てようとする人であり、神に従うことができる人である。義を行う人は義で満ちた人ではない。彼らは救いを受け取り、堕落した性質を脱ぎ捨てて神に従う人である。彼らは最後にしっかりと立つことができるが、それは彼らがサタンに堕落させられなかったということではない。神の働きが終わった後、すべての被造物の中には、滅びる者もいれば、生き残る者もいる。これは神の経営（救い）の働きの必然的流れである。これはだれも否認できないことである。悪を行う者はみな生き残ることができず、最後まで神に従順でつき従う者は、確実に生き残る。これは、人類を経営する働きであるから、生き残る者もいれば排除される者もいる。これは異なる種類の人々の異なる結末であり、被造物に対するいちばんふさわしい取り決めである。人類に対する神の究極の取り決めは、家族、民族、国境を打ち破ることによって人類を区分することである。それによって、家族の区別がなくなり、国境による区別もなくなる。なぜなら、人は、つまるところ、一人の祖先であり、人は神の創造物だからである。要するに、悪を行う被造物は滅ぼされ、神に従順な被造物は生き残る。このようにして、未来の安息の中には家族も、国も、特に民族もない。このような人類が、もっとも聖なる人類である。最初、人が地上で万物を管理することができるように、アダムとエバは造られた。人はもともと万物の主人であった。ヤーウェが人を造る目的は、人が地上で生き、しかも地上の万物を管理することであった。なぜなら、最初人は堕落させられておらず、しかも人は悪を行うこともできなかったからである。しかし、人は堕落させられた後、もう万物の管理者でなくなった。そして、神の救いの目的は、人のこの機能を回復し、人の最初の理性、最初の従順さを回復することである。安息の中の人類はまさに神の救いの働きが達成することを望む結果の描写そのものである。それはもはやエデンの園のような生活ではないだろうが、その本質は同一である。人類は単に堕落させられる前の初期の人類ではなく、堕落させられた後、救われた人類なのである。救いを受け取ったこのような人々は最終的に（すなわち神の働きが終わった後）安息に入る。同様に、罰せられた人々の結末も最後に徹底的に明らかにされ、神の働きが終わった後、彼らは滅ぼされるだけである。つまり、彼の働きが終わった後、このような悪を行う者と救われた者は全てに明らかにされる。なぜなら、あらゆる種類の人々（悪を行う者であれ、救われた者であれ）を明らかにする働きは、すべての人の身に同時に行われるからである。悪を行う人が排除されると同時に、生き残ることができる人たちも明らかにされる。したがって、あらゆる種類の人の結末は同時に明らかにされる。神はまず、悪を行った者を取り置き、彼らを少しずつ裁き罰する前に、救済された一団の人々が安息の中へ入ることを許さない。事実は決してそうではない。悪人が滅ぼされ、生き残ることができる人が安息の中に入った時、全宇宙における神の働きは終わる。祝福を受ける者と苦しみを受ける者の間に優先順位はない。祝福を受ける者は永遠に生き、災いを受ける者は永遠に滅びる。これらの2段階の働きは同時に完成されるのである。それらの従順な人の義が明らかにされるのは、まさしく不従順なものがいるからであり、悪を行うそれらの人が自分の悪行のゆえに受けた災いが明らかにされるのは、まさしく祝福を受ける者がいるからこそである。もし神が悪を行う人を明らかにしなかったならば、心から神に従うそれらの人は永遠に太陽を見ることができない。もし神に従う人を神がふさわしい終着点に導き入れなければ、神に背くそれらの人は当然の報いを受けることができない。これは神の働きの手順である。もし神が、悪を行う者を罰し、善を行う者を報いる働きをしなければ、彼の創造物は永遠に各自の終着点の中に入ることができない。ひとたび人類が安息に入ったなら、悪を行う人たちはみな滅ぼされ、全人類は正しい軌道に乗り、各種類の人は自分の果たすべき機能によっておのおのその種類に従う。これのみが人類の安息の日であり、人類の発展の必然的な方向である。そして人類が安息に入る時こそ、神の偉大で、そして究極の成果が完成する。これが神の働きの終結である。この働きは全人類の退廃した肉体の生活を終わらせ、堕落した人類の生活を終わらせる。そこから人類は新しい領域の中に入る。人は肉体的存在であるが、その生活の実質は堕落した人類の生活のそれと大いに異なる。その存在の意味も堕落した人類の存在の意味とは異なる。これは新しい種類の人の生活ではないが、救いを受け取った人類の生活、回復された人間性と理性を伴う生活であると言える。このような人たちはかつて神に背いた人であり、かつて神に征服されて、それから救われた人たちである。この人たちはまた、神を辱めたことがあるが後で神のために証しをした人である。神の試練を受け、生き残った彼らの存在は、最も意義のある存在である。彼らはサタンの前で神のために証しした人である。彼らは生きるに相応しい人である。滅ぼされる人たちは、神の証しのために立つことができなくて、生きるに相応しくない人である。彼らの滅びは自らの悪行ゆえであり、滅びが彼らにとって最良の終着点である。人がその後よい領域の中に入ったら、人がきっとあると想像するような、夫と妻、父と娘、あるいは母と息子のような関係は全くないのである。その時、人はみな各々の種類に従い、家族はすでに打ち砕かれている。サタンは完全に失敗していて、もう人類をかき乱すことはなく、人にはもう堕落したサタン的性質がなくなっている。そのような不従順な人たちはすでに滅ぼされていて、従順な人だけが生き残る。それゆえに、ほとんどの家族が元のまま生き残ることができない。どうして肉の関係が依然、存続することができるだろうか。人の過去の肉の生活は完全に廃止される。人と人の間に肉の関係がどのして存続することなどできようか。堕落したサタン的性質がなければ、人の生活はもう以前の古い生活ではなくて、新しい生活である。親は子供を失い、子供は親を失う。夫は妻を失い、妻は夫を失うであろう。人々の間には現在肉の関係がある。彼らが完全に安息に入った時は、もう肉の関係がなくなる。このような人類こそが義と聖さをもち、そのような人類だけが、神を礼拝する人類である。</p><p>神は人類を創造し、人類を地上に置き、今日まで導いてきた。その後、人類を救い、人類のための罪のいけにえとなった。終わりの時に、彼は人類を征服して、人類を完全に救い出し、人に本来の姿を回復させなければならない。これが、彼が始めから終わりまで従事してきた働きである。つまり、人を元のイメージへ回復し元の姿へ回復させるのである。神は自身の国を打ち立て、人に本来の姿を回復させる。つまり神は地上における自身の権威を回復し、あらゆる被造物の間における自身の権威を回復する。人はサタンに堕落させられた後、神を畏れる心を失い、被造物として持つべき機能を失って、神に背く敵になった。人はみなサタンの権威の下に生きるようになり、サタンの命令に従った。それゆえ、神は被造物の間で働くことができず、被造物からの畏れ敬いを得ることはさらにできなかった。人は神に造られており、神を礼拝すべきであるが、人は神に背いてサタンを崇拝した。サタンは人の心の中の偶像になった。こうして、神は人の心における立場を失い、つまり人を造った意義を失った。だから、神が人を造った意義を回復しようとするなら、人に本来の姿を回復させ、人に堕落した性質を脱ぎ捨てさせなければならない。人をサタンの手から奪い返すには、人を罪の中から救い出さなければならない。このようなやり方によってのみ、神は次第に人に本来の姿を回復させ、本来の機能を回復させる。そして遂には、神の国を回復する。最終的にそれらの不従順の子を徹底的に滅ぼすのも、人がよりよく神を礼拝し、よりよく地上で生存することができるためである。神は人類を造ったので、人に自身を礼拝させる。神は人に本来の機能を回復させたいので、徹底的に、しかも混じりけが少しもないように、回復させる。神が自身の権威を回復することは、人に自身を礼拝させることであり、自身に従わせることである。それは、人を神ゆえに生きるようにすることであり、神の権威ゆえに神の敵を滅ぼすことであり、神のあらゆる部分全てが人の間で、全く拒否されることなく存続するようにすることである。神が打ち立てようとする国は神自身の国である。神が求める人間は自身を礼拝する人間であり、完全に従う人間であり、神の栄光を持つ人間である。もし神が堕落した人間を救い出さなければ、神が人を造った意義は無となる。神は人の間で権威を持たなくなり、地上に神の国が現れることもない。もし神に背く敵を滅ぼさなければ、神は完全な栄光を得ることができず、地上で神の国を打ち立てることもできない。人類の不従順な者たちを徹底的に滅ぼし、完全にされた者たちを安息の中に連れていく──これは彼の働きが終わったことのしるしであり、神が偉業を達成したしるしである。人類がみな本来の姿を回復し、それぞれ自分の本分を尽くし、自分の立場を守り、神のすべての定めに従うことができたら、神が地上で一団の、自身を礼拝する人たちを得、自身を礼拝する国を打ち立てたことになる。神は地上で永遠の勝利を得、自身に敵対する者たちは永遠に滅びる。これは神が最初に人を造った時の意図を回復し、神が万物を造った意図を回復し、地上での神の権威、万物の中での神の権威、敵の間での神の権威をも回復したことになる。これらは神が完全に勝利を得たことのしるしである。その後人類は安息に入り、正しい軌道に乗った生活に入る。神も人との永遠の安息に入り、神と人が共有する永遠の生活に入る。地上の汚れと不従順は消え、地上の嘆き悲しみも消える。神に敵対する地上のあらゆるものも存在しなくなる。神と神に救われた人たちだけが残り、神の創造物だけが残る。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[クリスチャン映画「福音の使者」 抜粋シーン（１）主イエスは、十字架の上で「すべてが終った」と言われたとき、何を意味されたのでしょうか？]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7603059/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7603059</id><summary><![CDATA[🌸あらすじ宗教界の多くの人々はこう考える、「主イエスが十字架の上で『すべてが終った』と仰せられたということは、人類を救う神の働きは終わった証拠だ。我々は主を信じるだけで、罪を赦され、信仰によって義とされ、恵みによって救われる。主が来られれば、我々を天の御国に引き上げてくださる。更なる救いの働きなどなさるはずがない。」この見解は神の働きの事実と合致しているだろうか？🌸もっと見るキリスト教ドキュメンタリー映画「万物の主権を握るお方」神様の大いなる力を証しする救い主の再臨を歓迎する | ミュージカルドラマ—「全ての国が実際神を礼拝する」]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-16T13:26:54+00:00</published><updated>2020-01-16T13:26:54+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>URL: <a href="https://youtu.be/ZM64cOgr8AI">youtu.be
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			<p>🌸あらすじ</p><p>宗教界の多くの人々はこう考える、「主イエスが十字架の上で『すべてが終った』と仰せられたということは、人類を<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/special-topic/three-stages-of-work/index.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救う</b></a>神の働きは終わった証拠だ。我々は主を信じるだけで、罪を赦され、信仰によって義とされ、恵みによって救われる。主が来られれば、我々を天の御国に引き上げてくださる。更なる救いの働きなどなさるはずがない。」この見解は神の働きの事実と合致しているだろうか？</p><p><br></p><p>🌸もっと見る</p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/videos/one-who-holds-sovereignty-over-everything.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">キリスト教ドキュメンタリー映画「万物の主権を握るお方」神様の大いなる力を証しする</a></p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/videos/chinese-choir-19.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">救い主の再臨を歓迎する | ミュージカルドラマ—「全ての国が実際神を礼拝する」</a></p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[さまよえる心が家に帰る]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7597963/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7597963</id><summary><![CDATA[ノヴォ（フィリピン）フィリピン人のノヴォと申します。私は子供のころから母にならって神を信じており、説教を聞きに兄弟姉妹とよく教会に行ったものです。そうして長年主を信じてきたのですが、私には自分が何の変化も遂げておらず、不信心者も同然だと思えました。心の中では絶えず、どうしたらもっとお金を稼げるか、快適な日々を送ってよい生活を楽しむにはどうすればよいかを考えていたのです。そのうえ、いつも友だちと飲みに出かけ、お金に余裕があるときはギャンブルもしました。こうしたことが主の御心に反することはわかっていたので、しばしば主に祈って自分の罪を告白し、これらの悪癖を改めて今日から二度と罪を犯しませんと、主に固く誓ったものです。しかし友人たちにうまいこと誘惑されると、自分を抑えることがどうしてもできませんでした。私はそうしてますます堕落し、心がさらに神から離れ、祈りの中に誠実さはもはやありませんでした。毎週簡単な祈りをいくつか唱えるだけで、それで済ませていたのです。主は再臨なさるとき、その行動と振る舞いをもとに一人ひとりを裁かれ、天国に行くか地獄に堕ちるかを決められることは知っていたので、私は時々心から絶望的な気持ちになりました。自分は堕落した人間であり、神は二度と私をお赦しにならないだろうと思ったのです。その後、私は結婚して子どもをもうけましたが、考えるのは妻と子どもたちのことばかりでした。信仰はとうの昔に心の片隅に追いやっていたのです。子どもたちによりよい将来を与え、金持ちになる願いを叶えるべく、私は外国へ働きに行くことにし、台湾に渡りました。しかし、仕事が見つかってからも、生活習慣を変えることはありませんでした。暇なときには同僚と出かけて飲んだり歌ったりして、馬鹿騒ぎしながら暮らしていたのです。神への信仰はずっと前から心の片隅に追いやられていました。2011年、私は台湾のある工場で溶接工として働くことになりました。そして2012年のある日、私がカトリック教徒だと知った台湾の同僚から、教会で行なわれるミサに誘われました。ある日曜の朝、その同僚は工場に私を迎えに来て、友人の家に連れて行ってくれました。そこで私はジョセフ兄弟と出会ったのです。ジョセフ兄弟から「兄弟、あなたは主イエスの再臨を信じていますか」と訊かれた私は、信じていると答えました。ジョセフ兄弟が「お戻りになった主イエスがどんな働きをなさるかご存知ですか」と重ねて訊くので、私は「お戻りになった主イエスは大きな白い玉座に座られ、人類をお裁きになると信じています。誰もが裁きの座の前にひざまずき、自分の罪の申し開きをします。すると主は、その人の行動と行ないをもとに、天国に行くか地獄に堕ちるかをお決めになります」と答えました。するとジョセフ兄弟は続けて「主イエスがすでにいらっしゃり、いままさに終わりの日の裁きの働きをなさっていて、それによって『さばきが神の家から始められる時がきた。』という預言を成就なさっていると言ったら、あなたは信じますか」と尋ねるのです。それを聞いて私はすっかり驚き、こう思いました。「主イエスがすでにいらっしゃった？　そんなことがあるだろうか？　俺は大きな白い玉座が空に現われるのを見ていないし、主が白い雲に乗って降りてこられるのも目にしていない。なのにこの人は、主イエスがお戻りになって裁きの働きをなさり、『さばきが神の家から始められる時がきた。』という預言を成就なさっていると言っている。なるほど。神のお知恵は人間には理解できないのだから、探求を続けたほうがよさそうだ」　そこで私は「兄弟、主イエスがお戻りになったかどうかなんて、私にはとても言えません。なので、そのことについてどうか私と交わってください」と答えました。するとジョセフ兄弟たちは、主が再臨されて裁きの働きをなさるという預言に関する聖書の聖句をいくつも見つけ、私に読んでくれました。例えば、『ペテロの第一の手紙』４章１７節にはこう記されています。「さばきが神の家から始められる時がきた。」また『ヨハネによる福音書』１６章１２－１３節にもこうあります。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」　そしてジョセフ兄弟は、「真理の御霊」とは主の再臨と、主が真理を表わし裁きの働きをなさることを指していると言いました。終わりの日の神は、人の子として肉において戻られたのです。神は恵みの時代になさった贖いの働きを土台として、真理を表わし、神の家から始まる裁きの段階の働きをなさっています。実際には、この裁きの働きは人を完全に清めて救う働きです。これは主イエスによる次の預言をまさに成就するものです。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」（ヨハネによる福音書 12:47–48）「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。…そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。」（ヨハネによる福音書 5:22–27）私は兄弟が説く教えにじっくり耳を傾け、彼が伝えてくれている言葉はどれも真実だと信じました。主の預言は残らず成就し、現実のものになるはずだと信じていたからです。次にジョセフ兄弟は『キリストは真理をもって裁きの働きを行う』という書籍から全能神の御言葉を読んでくれました。「裁きの働きは神自身の働きであり、そのため当然ながら神が自ら行なわなければならない。それは神の代わりに人が行うことはできない。裁きとは真理を用いて人類を征服することなので、この働きを人のあいだで行うために神が受肉した姿で再び現れることは疑いもないことである。つまり、終わりの日においてキリストは真理を用いて世界各地の人々を教え、彼らにあらゆる真理を知らしめる。これが神の裁きの働きである。」「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」（『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より）全能神の御言葉を読み終わったジョセフ兄弟は、神による終わりの日の裁きの働きについて数多くの真理を私と交わってくれました。すると、神の働きが本当に実践的であって超自然的なものではまったくないこと、神による終わりの日の裁きの働きが私の想像と似ても似つかぬものであることがわかるようになりました。私はそれまで、神が空中に巨大な卓を置いて大きな白い玉座に座られ、全人類が神の御前にひざまずくことを想像してきました。そうして私たちが善人か悪人か、天国に行くか地獄に堕ちるかを決定すべく、神が私たちの罪を一つずつ列挙される、というわけです。しかし実際には、神は受肉されてこの世へおいでになり、実際的な形で真理を表わし、人の罪を裁き、人の堕落の真相と、人の本性と本質を暴かれてきたのです。ジョセフ兄弟は交わりを続け、傲慢やうぬぼれ、邪悪や狡猾、利己心や下劣といった私たちのサタン的性質はどれも神の裁きを経なければならず、それから私たちは清めていただけるのだと教えてくれました。神による裁きの働きの最終的な成果は、私たちに自分の汚れと堕落、醜さと邪悪さ、そして神に反抗して裏切る本質を目の当たりにさせ、自分がサタンによって深く堕落させられてきたこと、サタン的性質に満ちていること、そして自分がサタンの化身であって滅ぼされなければならないことを、私たちにわからせることです。このような形でのみ、私たちは自分自身を憎んで呪い、サタンを永遠に捨て去るようになれるのです。さらにそれは、私たちが神の御言葉による裁きと刑罰の中で、神の義にして聖く、背きを許さない性質を知るようにさせることでもあります。そうして私たちは神を畏れる心を無意識のうちに育み、二度と無謀にも神に逆らって反抗しようとはしなくなり、自分の肉を捨てて真理を実践できるようになります。いったん自分のいのちが変化を遂げると、私たちは真に神に従い、神を崇めることができるようになります。そして終わりの日に神が表わされる真理の様々な側面を得ると、神によって完全に清められ、救っていただき、御国に引き上げていただくのにふさわしくなれるのです。神による終わりの日の裁きの働きを拒む者は神の清めを得ることができず、最後は神の働きによって淘汰され、救われて天国へ入る機会を失います。ジョセフ兄弟の交わりを聞いた私は、人をお救いになる神の働きはまさに本物で、このうえなく現実的だと思いました。長年主を信じてきて、頻繁に神に祈っては罪を告白してきたにもかかわらず、私は未だに罪に生きてきた。ギャンブルをし、酒を飲み、嘘をついて人を欺いた。いつも罪を犯しては告白し、また罪を犯した。私の人生は苦しみに満ちている。確かに、私たちは本当に神に来ていただき、裁きと救いの働きをしていただかねばならない。聖書には「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」（ヘブル人への手紙 12:14）と書かれている。主は聖なる方である。もし人間が罪から清められないなら、主の御顔を仰ぐ価値はない。もし我々の想像通りに、神が人間を裁くために終わりの日にいらして天空に白い玉座を据えられ、直接人間の終末を決められるとしたら、人間はどうやって罪をなくせるだろうか？人間は非難され、懲罰を受けているではないか？全能の神は、お戻りになった主なるイエス様のようだ。これは本気で研究しないといけない。主をお迎えするチャンスを逃してはならない。その後ジョセフ兄弟から『言葉は肉において現れる』という本をもらい、私はとても胸を躍らせました。その夜、寄宿舎に戻ってからその本を読み始めたのですが、一晩中読んでしまいました。そのとき読んだ全能神の御言葉の中に、次のようなものがあります。「あなたがたの口は欺きと汚物、裏切りと傲慢の言葉で満ちている。誠実な言葉をわたしに語ったこともなければ、聖なる言葉も、わたしの言葉を経験しても、わたしへの服従の言葉も語ったことがない。最後には、あなたがたの信仰はどのようになるのだろうか。あなたがたの心は欲望と富で、あなたがたの頭は物質的なもので満ちている。日々、あなたがたはいかにして何かをわたしから得ようかと、どれほどの富と幾つの物質的なものがあるかを計算している。日々、さらに多くの、もっと良い享受されるものが享受できるようにと、あなたがたにさらなる祝福が施されるのを待っている。あなたがたの考えにいつ何時もあるのはわたしではなく、わたしから来る真理でもなく、むしろあなたがたの夫（妻）や息子、娘、あるいは食べたり着たりするもの、あなたがたの楽しみがいかに増え、さらに良くなることができるかということである。たとえ限界まで満腹したところで、あなたがたは死体とほとんど変わらないのではないのか。たとえ外見を豪華に着飾ったところで、あなたがたはいまだに、いのちのない歩く屍ではないのか。あなたがたは食べ物のために、髪に白髪が交じるまで懸命に働くが、わたしの働きのために毛一本犠牲にする者は誰もいない。あなたがたは常に、体を酷使し頭を悩ませて、自分の肉体のため、息子や娘のために働きづめだが、わたしの心に気づかいを見せる者はひとりとしていない。あなたがたがわたしからまだ得ることを期待しているものは何なのか。」（『言葉は肉において現れる』の「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」より）という御言葉を読み、私は神の御言葉が鋭い刀のように心に突き刺さるのを感じました。御言葉は私の生きる状態をまざまざと明らかにし、内なる心の本当の状況を言い表しました。私は、神のみが人間の心を調べ、人間の邪悪を顕せると知っていたので、全能の神の御言葉は本当に神の御言葉だと思いました。神の御言葉から、私は自分の信仰が嘘と欲に満ちていることを知りました。私は神の御名だけを受け入れていましたが、心には神がありませんでした。私は自分の家族や仕事、そして自分の将来だけを考えていました。毎日、どうしたらもっと金儲けができるか、どうしたら家族がもっと豊かな暮らしができるか、とだけ考えていたのです。私は神に対し、折に触れて神を愛しますと告げていましたが、言った通りにせず、神を欺き続けました。また、私はいつでも、神に祈る際にもっと祝福してくださるようお願いしていました。神は永遠に愛の神であり、人間に対する慈悲で溢れている、例え私が罪を犯しても神は私の罪を赦し、私に慈悲をたれて祝福してくれると思っていたのです。しかし、全能の神の御言葉を読み終わった私は、何人も神の義なる性情を犯してはならないことを知り、私の心は神を畏れ始めました。裁きと刑罰についての神の御言葉により、私は自分の過去を非常に悔やみ、とても悲しくなって寝床の中で泣きました。人生で初めて、私は激しく泣きながら、「神よ、私の罪をどうかお赦しください。あらゆる点で私はあなたに背きました。あなたを欺きました。私にはあなたに共にいていただく資格はありません。私は刑罰を受けるべきです。神よ、悔い改め、救われるチャンスを下さり、感謝します。これからは、真実を求めるために最善を尽くします。真実の心をもってあなたを愛します…。」と神に祈り、悔い改めました。そして祈りの後、罪を犯しては告白するという悪循環に陥った自分の生き様を変えるために、私には神の裁きを受ける必要があるのだ、全能の神の御言葉をもっと読み、頻繁に御言葉について考えることで、真実をより良く理解し、肉体に背く強さを持ち、真実を実践に移して神の御心を満足させられるようにしなければならないのだ、と言い聞かせました。それ以来、休憩中に神の御言葉を読んでじっくり考えられるよう、私は『言葉は肉において現れる』を職場に持参するようになりました。そして全能神の御言葉により、自分の行動や考えがいかに堕落していて反抗的かを知りました。その後、私は次の全能神の御言葉を読みました。「あなたは、自分の実際の状態と聖霊によって為されるべき働きに従って段階的に祈る必要があり、また神の意志と人間に対する要求に則して神と交わるべきである。あなたが祈りの実践を開始する時は、まず最初に自分の心を神に捧げなさい。神の意志を把握しようとしてはならない。ただあなたの心の内にある言葉を神に話そうとしなさい。神の前に来て、こう言いなさい。『おお神よ、私は今日になって初めて、あなたに服従していなかったことを知りました。私は本当に堕落した、忌み嫌われるべき存在です。以前、私は時間を無駄にしていました。私は今日からあなたのために生き、意義のある人生を行動で示し、あなたの意志を満足させます。私があなたの前で響きわたるような力強い証をし、あなたの栄光とあなたの証しと、私たちの内にあるあなたの勝利の証拠をサタンに示すことが出来るよう、私は、あなたの霊がいつも私の内で働き、常に私に光と悟りを与えることを望みます。』あなたがこのように祈る時、あなたの心は完全に解放されるであろう。このように祈ったことで、あなたの心は神にいっそう近付くであろう。そして頻繁にこのように祈ることで、聖霊は必然的にあなたの中で働くであろう」（『言葉は肉において現れる』の「祈りの実践について」より）神の御言葉の中に、私は自分の堕落した性質を解決する実践の道を見つけ、敬虔な心で真摯に神に祈り、自分の堕落した性質を神に打ち明けるとともに、自分が何を成し遂げようと心の中で望んでいるかを神に伝えました。そして御言葉によって生きられるようお導きくださいと、神にお願いしたのです。このように祈っていると、神が私を啓いて導かれているようにしばしば感じられ、心が信仰と力で一杯になりました。もはやかつてのような生き方をすることも、それまで心に抱いていた堕落した考えや発想にしたがって行動することもなくなりました。私の生活は変わり、罪を犯して告白するというかつての堕落した生活を送ることはなく、その代わり真に神の御前で生き、神のお気遣いとご加護を得たのです。2014年7月、私はフィリピンに戻りましたが、そのとき初めて、フィリピンの多くの兄弟姉妹が神に選んでいただいたことを知りました。私は非常に嬉しく思いました。現在、私は教会で兄弟姉妹とともに神の御言葉について交わり合い、教会生活を送って互いに助け支え合っています。私たちはみな真理を追求し、性質の変化と神に救っていただくことを求めています。また、キリストがすでに戻られたことを知り、私たちと同じく神による終わりの日の救いを得られるよう、国内外の人々に全能神による終わりの日の働きの証しをしています。全能神に感謝します。私はいまとても充実した幸せな生活を送っています。かつての堕落した退廃的な生活は完全に捨て去りました。全能神が私をお導きになり、人生の目標と方向を見つけられるようにしてくださったのです。これが有意義な人生を送る唯一の方法だと、私は実感しています。]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-15T12:26:36+00:00</published><updated>2020-01-15T12:26:36+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>ノヴォ（フィリピン）<br></p><p>フィリピン人のノヴォと申します。私は子供のころから母にならって神を信じており、説教を聞きに兄弟姉妹とよく教会に行ったものです。そうして長年主を信じてきたのですが、私には自分が何の変化も遂げておらず、不信心者も同然だと思えました。心の中では絶えず、どうしたらもっとお金を稼げるか、快適な日々を送ってよい生活を楽しむにはどうすればよいかを考えていたのです。そのうえ、いつも友だちと飲みに出かけ、お金に余裕があるときはギャンブルもしました。こうしたことが主の御心に反することはわかっていたので、しばしば主に祈って自分の罪を告白し、これらの悪癖を改めて今日から二度と罪を犯しませんと、主に固く誓ったものです。しかし友人たちにうまいこと誘惑されると、自分を抑えることがどうしてもできませんでした。私はそうしてますます堕落し、心がさらに神から離れ、祈りの中に誠実さはもはやありませんでした。毎週簡単な祈りをいくつか唱えるだけで、それで済ませていたのです。主は再臨なさるとき、その行動と振る舞いをもとに一人ひとりを裁かれ、<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>天国</b></a>に行くか地獄に堕ちるかを決められることは知っていたので、私は時々心から絶望的な気持ちになりました。自分は堕落した人間であり、神は二度と私をお赦しにならないだろうと思ったのです。その後、私は結婚して子どもをもうけましたが、考えるのは妻と子どもたちのことばかりでした。<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/what-do-you-know-of-faith.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>信仰</b></a>はとうの昔に心の片隅に追いやっていたのです。子どもたちによりよい将来を与え、金持ちになる願いを叶えるべく、私は外国へ働きに行くことにし、台湾に渡りました。しかし、仕事が見つかってからも、生活習慣を変えることはありませんでした。暇なときには同僚と出かけて飲んだり歌ったりして、馬鹿騒ぎしながら暮らしていたのです。神への信仰はずっと前から心の片隅に追いやられていました。</p><p>2011年、私は台湾のある工場で溶接工として働くことになりました。そして2012年のある日、私がカトリック教徒だと知った台湾の同僚から、教会で行なわれるミサに誘われました。ある日曜の朝、その同僚は工場に私を迎えに来て、友人の家に連れて行ってくれました。そこで私はジョセフ兄弟と出会ったのです。ジョセフ兄弟から「兄弟、あなたは主イエスの再臨を信じていますか」と訊かれた私は、信じていると答えました。ジョセフ兄弟が「お戻りになった主イエスがどんな働きをなさるかご存知ですか」と重ねて訊くので、私は「お戻りになった主イエスは大きな白い玉座に座られ、人類をお裁きになると信じています。誰もが裁きの座の前にひざまずき、自分の罪の申し開きをします。すると主は、その人の行動と行ないをもとに、天国に行くか地獄に堕ちるかをお決めになります」と答えました。するとジョセフ兄弟は続けて「主イエスがすでにいらっしゃり、いままさに<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/only-christ-of-the-last-days-can-give-man-the-way-of-eternal-life-selections.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>終わりの日</b></a>の裁きの働きをなさっていて、それによって『さばきが神の家から始められる時がきた。』という預言を成就なさっていると言ったら、あなたは信じますか」と尋ねるのです。それを聞いて私はすっかり驚き、こう思いました。</p><p>「主イエスがすでにいらっしゃった？　そんなことがあるだろうか？　俺は大きな白い玉座が空に現われるのを見ていないし、主が白い雲に乗って降りてこられるのも目にしていない。なのにこの人は、主イエスがお戻りになって裁きの働きをなさり、『さばきが神の家から始められる時がきた。』という預言を成就なさっていると言っている。なるほど。神のお知恵は人間には理解できないのだから、探求を続けたほうがよさそうだ」</p><p>　そこで私は「兄弟、主イエスがお戻りになったかどうかなんて、私にはとても言えません。なので、そのことについてどうか私と交わってください」と答えました。するとジョセフ兄弟たちは、主が再臨されて裁きの働きをなさるという預言に関する聖書の聖句をいくつも見つけ、私に読んでくれました。例えば、『ペテロの第一の手紙』４章１７節にはこう記されています。</p><p>「さばきが神の家から始められる時がきた。」</p><p>また『ヨハネによる福音書』１６章１２－１３節にもこうあります。</p><p>「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」</p><p>　そしてジョセフ兄弟は、「真理の御霊」とは主の再臨と、主が真理を表わし裁きの働きをなさることを指していると言いました。終わりの日の神は、人の子として肉において戻られたのです。神は恵みの時代になさった贖いの働きを土台として、真理を表わし、神の家から始まる裁きの段階の働きをなさっています。実際には、この裁きの働きは人を完全に清めて<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/special-topic/three-stages-of-work/index.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救う</b></a>働きです。これは主イエスによる次の預言をまさに成就するものです。</p><p>「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」（ヨハネによる福音書 12:47–48）</p><p>「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。…そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。」（ヨハネによる福音書 5:22–27）私は兄弟が説く教えにじっくり耳を傾け、彼が伝えてくれている言葉はどれも真実だと信じました。主の預言は残らず成就し、現実のものになるはずだと信じていたからです。</p><p>次にジョセフ兄弟は『キリストは真理をもって裁きの働きを行う』という書籍から<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/about-us-questions-4.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>全能神</b></a>の御言葉を読んでくれました。</p><p>「裁きの働きは神自身の働きであり、そのため当然ながら神が自ら行なわなければならない。それは神の代わりに人が行うことはできない。裁きとは真理を用いて人類を征服することなので、この働きを人のあいだで行うために神が受肉した姿で再び現れることは疑いもないことである。つまり、終わりの日においてキリストは真理を用いて世界各地の人々を教え、彼らにあらゆる真理を知らしめる。これが神の裁きの働きである。」「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」（『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より）</p><p>全能神の御言葉を読み終わったジョセフ兄弟は、神による終わりの日の裁きの働きについて数多くの真理を私と交わってくれました。すると、神の働きが本当に実践的であって超自然的なものではまったくないこと、神による終わりの日の裁きの働きが私の想像と似ても似つかぬものであることがわかるようになりました。私はそれまで、神が空中に巨大な卓を置いて大きな白い玉座に座られ、全人類が神の御前にひざまずくことを想像してきました。そうして私たちが善人か悪人か、天国に行くか地獄に堕ちるかを決定すべく、神が私たちの罪を一つずつ列挙される、というわけです。しかし実際には、神は受肉されてこの世へおいでになり、実際的な形で真理を表わし、人の罪を裁き、人の堕落の真相と、人の本性と本質を暴かれてきたのです。ジョセフ兄弟は交わりを続け、傲慢やうぬぼれ、邪悪や狡猾、利己心や下劣といった私たちのサタン的性質はどれも神の裁きを経なければならず、それから私たちは清めていただけるのだと教えてくれました。神による裁きの働きの最終的な成果は、私たちに自分の汚れと堕落、醜さと邪悪さ、そして神に反抗して裏切る本質を目の当たりにさせ、自分がサタンによって深く堕落させられてきたこと、サタン的性質に満ちていること、そして自分がサタンの化身であって滅ぼされなければならないことを、私たちにわからせることです。このような形でのみ、私たちは自分自身を憎んで呪い、サタンを永遠に捨て去るようになれるのです。さらにそれは、私たちが神の御言葉による裁きと刑罰の中で、神の義にして聖く、背きを許さない性質を知るようにさせることでもあります。そうして私たちは神を畏れる心を無意識のうちに育み、二度と無謀にも神に逆らって反抗しようとはしなくなり、自分の肉を捨てて真理を実践できるようになります。いったん自分のいのちが変化を遂げると、私たちは真に神に従い、神を崇めることができるようになります。そして終わりの日に神が表わされる真理の様々な側面を得ると、神によって完全に清められ、救っていただき、御国に引き上げていただくのにふさわしくなれるのです。神による終わりの日の裁きの働きを拒む者は神の清めを得ることができず、最後は神の働きによって淘汰され、救われて天国へ入る機会を失います。ジョセフ兄弟の交わりを聞いた私は、人をお救いになる神の働きはまさに本物で、このうえなく現実的だと思いました。</p><p>長年主を信じてきて、頻繁に神に祈っては罪を告白してきたにもかかわらず、私は未だに罪に生きてきた。ギャンブルをし、酒を飲み、嘘をついて人を欺いた。いつも罪を犯しては告白し、また罪を犯した。私の人生は苦しみに満ちている。確かに、私たちは本当に神に来ていただき、裁きと救いの働きをしていただかねばならない。聖書には「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」（ヘブル人への手紙 12:14）と書かれている。主は聖なる方である。もし人間が罪から清められないなら、主の御顔を仰ぐ価値はない。もし我々の想像通りに、神が人間を裁くために終わりの日にいらして天空に白い玉座を据えられ、直接人間の終末を決められるとしたら、人間はどうやって罪をなくせるだろうか？人間は非難され、懲罰を受けているではないか？全能の神は、お戻りになった主なるイエス様のようだ。これは本気で研究しないといけない。主をお迎えするチャンスを逃してはならない。</p><p>その後ジョセフ兄弟から『言葉は肉において現れる』という本をもらい、私はとても胸を躍らせました。その夜、寄宿舎に戻ってからその本を読み始めたのですが、一晩中読んでしまいました。そのとき読んだ全能神の御言葉の中に、次のようなものがあります。</p><p>「あなたがたの口は欺きと汚物、裏切りと傲慢の言葉で満ちている。誠実な言葉をわたしに語ったこともなければ、聖なる言葉も、わたしの言葉を経験しても、わたしへの服従の言葉も語ったことがない。最後には、あなたがたの信仰はどのようになるのだろうか。あなたがたの心は欲望と富で、あなたがたの頭は物質的なもので満ちている。日々、あなたがたはいかにして何かをわたしから得ようかと、どれほどの富と幾つの物質的なものがあるかを計算している。日々、さらに多くの、もっと良い享受されるものが享受できるようにと、あなたがたにさらなる祝福が施されるのを待っている。あなたがたの考えにいつ何時もあるのはわたしではなく、わたしから来る真理でもなく、むしろあなたがたの夫（妻）や息子、娘、あるいは食べたり着たりするもの、あなたがたの楽しみがいかに増え、さらに良くなることができるかということである。たとえ限界まで満腹したところで、あなたがたは死体とほとんど変わらないのではないのか。たとえ外見を豪華に着飾ったところで、あなたがたはいまだに、いのちのない歩く屍ではないのか。あなたがたは食べ物のために、髪に白髪が交じるまで懸命に働くが、わたしの働きのために毛一本犠牲にする者は誰もいない。あなたがたは常に、体を酷使し頭を悩ませて、自分の肉体のため、息子や娘のために働きづめだが、わたしの心に気づかいを見せる者はひとりとしていない。あなたがたがわたしからまだ得ることを期待しているものは何なのか。」（『言葉は肉において現れる』の「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」より）</p><p>という御言葉を読み、私は神の御言葉が鋭い刀のように心に突き刺さるのを感じました。御言葉は私の生きる状態をまざまざと明らかにし、内なる心の本当の状況を言い表しました。私は、神のみが人間の心を調べ、人間の邪悪を顕せると知っていたので、全能の神の御言葉は本当に神の御言葉だと思いました。神の御言葉から、私は自分の信仰が嘘と欲に満ちていることを知りました。私は神の御名だけを受け入れていましたが、心には神がありませんでした。私は自分の家族や仕事、そして自分の将来だけを考えていました。毎日、どうしたらもっと金儲けができるか、どうしたら家族がもっと豊かな暮らしができるか、とだけ考えていたのです。私は神に対し、折に触れて神を愛しますと告げていましたが、言った通りにせず、神を欺き続けました。また、私はいつでも、神に祈る際にもっと祝福してくださるようお願いしていました。神は永遠に愛の神であり、人間に対する慈悲で溢れている、例え私が罪を犯しても神は私の罪を赦し、私に慈悲をたれて祝福してくれると思っていたのです。しかし、全能の神の御言葉を読み終わった私は、何人も神の義なる性情を犯してはならないことを知り、私の心は神を畏れ始めました。裁きと刑罰についての神の御言葉により、私は自分の過去を非常に悔やみ、とても悲しくなって寝床の中で泣きました。人生で初めて、私は激しく泣きながら、「神よ、私の罪をどうかお赦しください。あらゆる点で私はあなたに背きました。あなたを欺きました。私にはあなたに共にいていただく資格はありません。私は刑罰を受けるべきです。神よ、悔い改め、救われるチャンスを下さり、感謝します。これからは、真実を求めるために最善を尽くします。真実の心をもってあなたを愛します…。」と神に祈り、悔い改めました。そして祈りの後、罪を犯しては告白するという悪循環に陥った自分の生き様を変えるために、私には神の裁きを受ける必要があるのだ、全能の神の御言葉をもっと読み、頻繁に御言葉について考えることで、真実をより良く理解し、肉体に背く強さを持ち、真実を実践に移して神の御心を満足させられるようにしなければならないのだ、と言い聞かせました。</p><p>それ以来、休憩中に神の御言葉を読んでじっくり考えられるよう、私は『言葉は肉において現れる』を職場に持参するようになりました。そして全能神の御言葉により、自分の行動や考えがいかに堕落していて反抗的かを知りました。その後、私は次の全能神の御言葉を読みました。</p><p>「あなたは、自分の実際の状態と聖霊によって為されるべき働きに従って段階的に祈る必要があり、また神の意志と人間に対する要求に則して神と交わるべきである。あなたが祈りの実践を開始する時は、まず最初に自分の心を神に捧げなさい。神の意志を把握しようとしてはならない。ただあなたの心の内にある言葉を神に話そうとしなさい。神の前に来て、こう言いなさい。『おお神よ、私は今日になって初めて、あなたに服従していなかったことを知りました。私は本当に堕落した、忌み嫌われるべき存在です。以前、私は時間を無駄にしていました。私は今日からあなたのために生き、意義のある人生を行動で示し、あなたの意志を満足させます。私があなたの前で響きわたるような力強い証をし、あなたの栄光とあなたの証しと、私たちの内にあるあなたの勝利の証拠をサタンに示すことが出来るよう、私は、あなたの霊がいつも私の内で働き、常に私に光と悟りを与えることを望みます。』あなたがこのように祈る時、あなたの心は完全に解放されるであろう。このように祈ったことで、あなたの心は神にいっそう近付くであろう。そして頻繁にこのように祈ることで、聖霊は必然的にあなたの中で働くであろう」（『言葉は肉において現れる』の「祈りの実践について」より）</p><p>神の御言葉の中に、私は自分の堕落した性質を解決する実践の道を見つけ、敬虔な心で真摯に神に祈り、自分の堕落した性質を神に打ち明けるとともに、自分が何を成し遂げようと心の中で望んでいるかを神に伝えました。そして御言葉によって生きられるようお導きくださいと、神にお願いしたのです。このように祈っていると、神が私を啓いて導かれているようにしばしば感じられ、心が信仰と力で一杯になりました。もはやかつてのような生き方をすることも、それまで心に抱いていた堕落した考えや発想にしたがって行動することもなくなりました。私の生活は変わり、罪を犯して告白するというかつての堕落した生活を送ることはなく、その代わり真に神の御前で生き、神のお気遣いとご加護を得たのです。</p><p>2014年7月、私はフィリピンに戻りましたが、そのとき初めて、フィリピンの多くの兄弟姉妹が神に選んでいただいたことを知りました。私は非常に嬉しく思いました。現在、私は教会で兄弟姉妹とともに神の御言葉について交わり合い、教会生活を送って互いに助け支え合っています。私たちはみな真理を追求し、性質の変化と神に救っていただくことを求めています。また、キリストがすでに戻られたことを知り、私たちと同じく神による終わりの日の救いを得られるよう、国内外の人々に全能神による終わりの日の働きの証しをしています。全能神に感謝します。私はいまとても充実した幸せな生活を送っています。かつての堕落した退廃的な生活は完全に捨て去りました。全能神が私をお導きになり、人生の目標と方向を見つけられるようにしてくださったのです。これが有意義な人生を送る唯一の方法だと、私は実感しています。</p><p><br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[幸せな結婚生活は神の救いを受け入れて始まる]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7589257/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7589257</id><summary><![CDATA[ジュイ・チュウ（マレーシア）私は美容師で夫は農業をしています。私たちはマレーシアで、オレンジを投げる伝統行事にて出会いました。これは良縁を求める女性のための行事です。一年後、私たちの結婚式は牧師の立会のもと、教会で執り行われました。私はその牧師による私たちの婚姻のための祈りにとても深く感動しました。私は信心深くありませんでしたが、声に出さずに神に懇願しました。「この人がずっと変わらず私を慈しみ、私を大切に思ってくれますように。そして一生私の伴侶でいてくれますように」結婚生活が始まると、夫婦間の対立がひとつまたひとつと生じてきました。夫は毎朝四時に家を出て野菜を売りに行き、午後七時までは帰宅せず、私は午後十時過ぎまで仕事が終わりません。私たちは一緒に過ごす時間がほとんどありませんでした。疲れきった体を引きずって帰宅するたびに、私は夫から気遣いや思いやり、理解を少しでも受けられたらと強く願っていました。仕事はどうだったか、楽しかったかどうか、夫に尋ねてほしかったのです。しかし残念なことに、私が仕事から帰ると夫はほぼ毎回テレビを見ていなければ携帯電話をいじっていて、私にお帰りとすら言わないこともありました。私が存在すらしていないかのようでした。私はこれに本当に落胆して、次第に夫に対して不満を募らせていきました。あるとき私はお客さんと意見の行き違いがあり、とてもいら立ち、不当な扱いを受けたと感じていました。帰宅後、そのことを夫に愚痴りました。夫が私を慰めてくれるだろうと期待していたのです。しかし驚いたことに夫は携帯電話をもてあそびながら、ただ私に気づいてうなずいただけで、私に意識を向けないではありませんか。うなずいた後はすぐにうつむいてまた携帯電話を見始めました。夫の私に対する完全な無関心に我慢できず、私は夫に向かって怒鳴りました。「あなた石でできてるの？話さえできないの？誰かのことも気に留めるってことある？」ひどく怒る私を見て、夫は答えるのを拒否しました。夫に無言でいられればいられるほど、私の怒りはヒートアップしました。私は夫をしつこく責め立て、何か言わせてやろうとすっかり躍起になっていました。思いがけず夫が突然「まだ言い足りないのか」と怒鳴り返してきました。これで私は余計に怒りを感じ、さらに不当に扱われたと思い、夫にわからせようと話し続けました。結局、夫は何も言おうとしないため、私たちの口論は話になりませんでした。また別の時に、職場であった腹立たしいことについて夫に愚痴を言って、夫が私の気を楽にしてくれることを期待したことがありました。しかしその代わりに夫の返事はぶっきらぼうで氷のように冷たかったのです。「どっちもどっちだろう。君は他人の問題しか見えてないんだな。なんで自分のことを省みないんだ？」私は瞬間的に不機嫌になり、一言言ってやらずには気がすみませんでした。憤りで頭がいっぱいになり、思いました。「この人どんな人種なの。私、なんでこんな人と結婚しちゃったの。私の気持ちをこれっぽっちも考えないじゃない。一言だって私を慰めようとしない」この時から私は、職場でのことを夫に話すのをほとんどすっかりやめました。しばらく後になって夫は私に仕事のことを訊こうとしてきましたが、私は夫に注意を向けたいとは決して思いませんでした。夫は次第に私に質問するのをやめていきました。私たちの間には共通の話題がどんどんなくなっていき、失望するような出来事が起こると、私は耳を貸してくれる友達に当たってみるのでした。時には遅くまで外で話し込み、夜半過ぎまで帰宅しないこともありました。それほど遅くに帰宅しても、夫は私を気遣う様子など見せず、ただ「うちをホテル扱いしてるみたいだ」と言うのです。私はひどく気分を害し、夫への不満が大きくなり、私たちはしょっちゅう口げんかするようになりました。二人とも苦しんでいました。私はこれ以上こんな生活を続けたくないと思い、夫ときちんと話せるチャンスを見つけようと決めました。ある日の夕食後、私は夫に頼みました。「私のこと本当に我慢ならないんでしょ。どうなの。どうして私のこと少しも気にしてくれないのよ。私のことで何か問題があるなら直接言ってよ」夫が何とも答えないので、私は夫に迫り続けました。すると驚いたことに夫はいら立って私に怒鳴ったのです。「そんな質問をするのはやめろ。君とのことは全部が問題だよ。うんざりなんだよ」こんな風に言い返され、私は怒りで頭に血が上り、私たちはまた言い合いを始めました。何か言っては言い返されるというように、しばらく口論を続けていましたが、最後は夫が立ち上がり私をドンと押しました。私はバランスを崩し、ソファに倒れ込みました。夫が私に手を挙げたことに、私は胸が張り裂けそうでした。「これがあんなに慎重に選んだ夫？これが私があれほど望んでいた結婚？この人はどうして私をこんなふうに扱えるんだろう」この時から私は夫に何かを期待するのをやめました。2014年4月、ほんの偶然から、ある姉妹が私に主イエスの福音を分かち合ってくれました。姉妹は主が私たちを愛していて私たちを救うために十字架にかけられたのだと言いました。私は主の愛に心から感動したので、主の福音を受け入れました。その後、私は牧師に結婚生活の問題について話したところ、牧師は言いました。「私たちは、まず自分自身が変わらない限り、他の誰も変えることはできないのです。主イエスの例に倣い、他者への寛容さと忍耐強さを実践すべきなのです」それで私は自分自身を変えようとし始めました。仕事が終わるとすぐに帰宅し、家を掃除し、時には夫が私を無視するとかっとしそうになりましたが、寛容さと忍耐強さを私にお授けくださるよう主に祈りました。自制心を失って夫と口論を始めてしまった時には、その口論を丸く収めようと私の方から働きかけました。私に起こった変化を見て、夫も主を信じるようになりました。双方が信徒になると、口論は減り、意思の疎通が増えました。主が直接私たちをお救いくださったのがわかり、私は主への感謝でいっぱいになりました。しかし時は流れて、私たちはなお自分の感情をコントロールできずにいました。家庭内不和はまだ時々起こり、そして特に一人が不機嫌だともう一人も寛容さと忍耐強さを実践することができず、結果として私たちの口論は激しさを増していきました。口論の後は毎回、私は心が痛み苦しくなりました。そして主に祈りました。「主よ、寛容で忍耐強くなるようにと教えてくださいますが、私はどうしてもそうできないようです。夫が私の嫌なことをするのを見ると、夫への不満が本当にひどくなります。主よ、私はどうすべきなのですか」その後、私は実践の道を見つけたくて教会が主催するあらゆる勉強会に参加し始めました。しかし望んでいたものは得られませんでした。グループのリーダーに助けを求めても、ただこう言うだけです。「妻と私もしょっちゅう口論しますよ。パウロでさえ『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。』（ローマ人への手紙7：18）と言っていますしね。たえず罪を犯しては告白するというサイクルに直面した私たちの問題の解決法を誰も持っていません。私たちにできるのは、主に祈り、憐れみくださいとお願いすることだけです」それを聞いて私は途方に暮れました。対立の泥沼にはまったまま二人とも残りの人生を過ごすのが運命だ、ということなのでしょうか。2017年3月、これまでずっと無口な人だった夫が突然、生き生きとした話し好きになりました。それに加えて聖書に書いてあることで自分が理解したことを、たびたび私と分かち合ってくれるようになりました。さらに驚いたことに夫の話は本当に光に満ちていたのです。私は不思議に思いました。夫が突然別人になったかのようだったからです。それに夫の言うことは本当に識見に飛んでいました。私は一体何が起こっているのか知りたいと強く思いました。ある日、夫があるSNSのグループのメンバーだと偶然に知り、すぐに夫に仲間とどんなことを話しているのか尋ねました。夫はとても真剣な面持ちで、終りの日の全能神の働きのことを検討しているのだと、主イエスが既に再臨されていて、それが全能神なのだと言いました。夫が言うには、全能神は既に何百万語もの御言葉を発せられ、終りの日における人類の裁きと清めの働きをされているとのことでした。また、それは聖書の預言「さばきが神の家から始められる時がきた」（ペテロの第一の手紙4：17）を完全に成就していると言いました。神の出現と働きを求めるなら、自分の観念と想像に盲目的に執着するのではなく、神の御声を聞くことに集中しなければならない。真理を追求せずにただ神の啓示を消極的に待っていたら、主の再臨を歓迎することはできないだろう、とも言うのです。これを聞いて私は衝撃を受け、信じられない気持ちでした。その後、私はかつてインド人牧師が言っていたことをふと思い出しました。神の再臨のことを耳にしたら、心を開いて真剣に吟味して求めるべきだと。自分の観念と想像を頼りにして盲目的に物事を決め付けてはいられないのだと。そこで私は主に祈りました。「主よ、もし全能神が本当に再臨された主であるなら、心を開いて真理を追求し、このことを吟味できるよう、どうか私をお導きください。そうでないならば、私が主から逸れないよう、私の心をお守りください。アーメン」こう祈った後、聖書を開くと、ヨハネの黙示録3章20節にこうありました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」これは私によって突然の天啓の瞬間で、主が私に話されている、再臨したらあなたの戸を叩こうと仰っているのだ、と感じました。主の声に耳を傾けて戸を開けよという主のご指示だと感じました。それはまるで聖書にある花婿の声を聞いて花婿を迎えに急いだ賢いおとめたちのようでした。それから私はヨハネによる福音書16章12-13節のことを考えました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」聖書のこのような節について熟考していると、高揚感が湧き上がってきました。主が遠い昔に、ご自身の再臨に際し私たちにさらに多くの御言葉を発し真理を授けてくださると教えてくださっていたのだと気づきました。そして終わりの日の全能神の働きは、人類を裁き清めるために御言葉を発せられることです。全能神は本当に再臨された主イエスなのだろうか。もし主が本当に再臨され、人類のあらゆる困難を解決するために真理を表されているなら、罪の束縛から逃れる希望があります。ならば私と夫の間の問題も解決できるのではないでしょうか。私はすぐさま、全能神教会の兄弟姉妹と連絡を取らせてほしいと夫に頼みました。私も終わりの日の全能神の働きを吟味したいと思ったのです。集会では全能神教会の兄弟姉妹が聖書からいくつか節を選んで、真理のさまざまな側面について私に話してくれました。それは主の再臨の仕方、主の新しい名前、主がどのような働きをなさるのか、といったことでした。兄弟姉妹の説教はとてつもなく説得力があり、私には全く新しいものでした。私は終わりの日の神の働きについてもっと知りたいと切望したので、何度も何度も神に祈り、神の御言葉を理解できるように私を照らしてくださいとお願いしました。神の御言葉を読み、兄弟姉妹の説教を聴くことにより、私は次第に人類を経営する神の目的、人類を救う神の働きの三段階、人類の結末と終着点について、次第に理解するようになりました。終わりの日の神の働きについて調べている間も、私はごくごく些細なことでいまだに夫と言い争ってしまうことがあり、その後でひどい罪悪感に苛まれ動揺し自問しました。「なぜ私は神の御言葉を実践できないの」私は当惑したままでした。集会で、私はある姉妹に質問しました。「私と夫はなぜいつも口げんかしてしまうのでしょうか。なぜ平和に仲良くやっていけないのでしょうか」姉妹は神の御言葉の数節を私のために見つけてくれました。「人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。」（『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義（４）」より）「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」（『言葉は肉において現れる』の「序文」より）姉妹はそれから、説教をしてくれました。「最初、アダムとイブはエデンの園で神の御前にて幸せに暮らしていました。口論などありません。苦しみもありませんでした。しかしヘビの言うことを聞いて善悪の知識の木になる実を食べた後、彼らは神からどんどん離れ、神を裏切り、神によるお世話と保護を失ってサタンの権力下で生きるようになります。悲しみと苦しみの日々の始まりです。これが今日まで続いているのです。そして私たちはサタンによりどんどん深く堕落しています。私たちは堕落したサタン的な性質に満ちています。私たちはとてつもなく傲慢で利己的で嘘つきで、強情です。あらゆる物事において自己中心的で、常に人に自分のことを聞かせたいのです。だから闘ったり殺し合ったりするのです。親子、夫婦ですらお互いへの寛容さと忍耐強さを持たず、互いに調和して仲良くやっていくことができないでいます。私たちには最も基礎的な良心と理知さえも欠けているのです。主イエスが私たちを贖ってくださり、私たちが主に祈り、告白し、悔い改め、頑張って主の教えに従ってもなお、私たちはどうしても罪を犯し神に背いてしまいます。これは主イエスが人類を贖うという働きのみをされたからなのです。主イエスは人類を完全に救い清めるという働きはなさいませんでした。主イエスの救いを受け入れることは、ただ、もはや私たちに罪はなく、祈りにおいて主の御前に来て、主の憐れみを受けて罪を許される機会があることを意味するだけです。でも、私たちの堕落した性質はまだ清められていません。私たちの罪深い本性はまだ私たちの中に深く根付いたままです。私たちにはまだ、終わりの日に主が再臨なさり、人類を清め変容させる段階の働きを行なうことで私たちの罪深い本性の問題を解決していただくことが必要なのです。そして今や神は再び受肉され、私たちを堕落した性質から完全に救い、サタンの影響から逃れさせて完全に救うために、裁き清める働きを行うための御言葉を発せられています。神の新しい働きに遅れずついていき、神の御言葉の裁きと罰を受け入れ、真理を追求し、神の御言葉を実践する限り、私たちの堕落した性質は次第に変容します。これが真の人の似姿を生きられる唯一の道であり、そうすることで初めて他者とのかかわり合いにおいて調和を実現できるのです」神の御言葉と姉妹の説教から、私はようやく気づきました。私たちが罪を犯しては告白するという状況に常に生きているのは、主イエスが人類を贖うという働きはされても、私たち信徒の罪が赦されただけで、私たちの中の罪深い本性は非常に深く揺るぎなく存在しており、私たちのサタン的な性質はまだ清められていないからなのです。その好例が、私が主の教えに沿って忍耐強さと寛容さを実践しようとしても、夫が私の嫌な言動をするやいなやどうしても腹を立ててしまうことです。どうしても自分を制御できないのです。私たちを救う神の働きなくして、自身のサタン的な堕落した性質を自身の努力だけで拭い去ることは不可能です。そして今、人類を裁き清める働きを行なうために神が再び受肉されました。神の新しい働きを受け入れ、真理を本当に追求することで、私たちには性質の変容を達成する機会があります。私は御声を聞かせてくださった主の憐れみに心から感動し、とてつもなく感謝しました。しかし私にはまだわからないことがありました。神が私たちを清め変容させる目的で御言葉を発するために今回再臨されたのはわかりましたが、どうして御言葉が私たちの堕落した性質を裁き清めることができるのでしょうか。そこで私は自分の混乱を説明しました。姉妹は、神の御言葉の別の一節を読んでくれました。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」（『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より）姉妹はさらに私と説教を分かち合ってくれました。「神の御言葉は、神がどのように裁きの働きをされるのか明確に私たちに説明しています。神は人類を裁き清めるために御言葉を使われるのです。神は御言葉によりおもに私たちの堕落した本性と本質、サタン的な性質を直接明らかにされ、細かく分析されます。また、どのように神に服従し神を崇拝すればよいのか、正しい人としてどう生きればよいか、どのように真理を追求し、性質の変化を達成すればよいか、どうすれば正直な人でいられるか、そして神が何を人に望まれ要求されるかを明確に説いてこられました。神はどのような人を好まれ、どのような人を排除されるか、また他に多くのことも告げられてきました。また、私たちを刈り込み取り扱い、試し、精錬するための人々、出来事、物事、環境を準備されます。こうして私たちの堕落した性質が明らかにされ、私たちは神の御前に行き真理を追求し、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、自らを顧み、自らを知ることを余儀なくされます。神の裁きと刑罰の御言葉を受け入れると、まるで神が私たちと面と向かって生き生きと話されているように感じられるのです。そこで神に対する私たちの不従順と抵抗、私たちの不正な動機、私たちの観念と想像を余すところなく明らかにされます。それで初めて私たちは自らの本性と本質が傲慢さとうぬぼれ、欺瞞、腹黒さ、身勝手さ、卑劣さに満ちていることを知ることができます。私たちは神への畏敬の心が全く欠けていること、サタン的で堕落した本性に完全に基づいて生きていること、露呈するものすべてがサタン的性質であること、ただただ人の似姿に欠けていることを知るのです。すると自分を憎み始め、心から自分を嫌悪し、これ以上サタンの影響下で生きていたくないと、サタンにもてあそばれ傷つけられるのはもうたくさんだと思います。何よりも、神の裁きと刑罰をとおして神の神聖な本質と罪を一切許容しない神の義なる性質とを知ります。神への畏敬の心が私たちの中で生まれ、神に御満足いただくために真理を実践しようと意欲的になります。ひとたび真理を実践し始めると、神の善に満ち憐れみ深い性質が私たちに明かされます。神の御言葉を読み続け、神の裁きと刑罰を経験し続けることにより、自身の堕落した本性についての認識を深め、神が表現される真理をさらに認識し、神の裁きと刑罰を受け入れ服従すること、肉を見捨て真理を実践し神に満足していただくことをさらにいとわなくなります。堕落の露呈が減っていき、真理を実践するのがどんどん容易になり、神を畏れ悪を遠ざける道へと次第に歩みを進めていきます。神の御言葉による裁きと刑罰を経験すると、これが堕落した性質から私たちを救い癒す万能薬であることを誰もが心から確信することができます。これが私たち堕落した人間に対する神の至高の真の愛であり、神の御言葉による裁きと刑罰を経験しなければ、真の人の似姿を生きることは決してできません」神の御言葉と姉妹の説教は、私にとってとても大きな衝撃でした。終わりの日の裁きと刑罰という神の働きは本当に実際的だと思い、また自分の堕落した性質が変容するよう願うなら、神の御言葉による裁きと刑罰を経験しなければならないのだと思いました。そうでなければ、罪を犯しては告白するという循環の中に永遠に生き続け、罪の束縛から決して逃れられないのです。ですから心の中で神に祈り、御言葉で私を潤し糧を与えてくださいと、そして自分自身を知り、堕落した性質が近い将来変容して真の人の似姿を生きられるように私を裁き罰する環境を整えてくださいとお願いしました。終りの日の神の働きを受け入れた後、私はまた神が私のために整えてくださったこの結婚について、新たな認識を得ました。ある時、ある姉妹が私のために神の御言葉の数節を読んでくれたのです。「人間は、自分が結婚を経験するまで、結婚に関して様々な幻想を抱き、その幻想は全て美しい。女性は、白雪姫に登場する王子のような自分の夫を想像し、男性は自分が白雪姫のような者と結婚することを想像する。こうした空想により、人間には、それぞれに結婚の条件、数件の要求事項、基準事項があることが示される。」（『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 ３」より）「結婚は人生における重要な節目である。結婚は人間の運命の産物であり、人間の運命における重要な繋がりである。結婚は人間の個人的な意志や嗜好に基づくものでも、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、当事者双方の運命、双方の運命に関する創造主の采配と定めにより決定される。」（『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 ３」より）「したがって、ある者が結婚した場合、その者の人生の旅路は、その者の配偶者に関与して影響を与え、同様にその者の配偶者の人生の旅路はその者の人生の運命に関与して影響を与える。換言すると、人間の運命は相互に関連しており、他人に全く依存せずに自分の人生における使命を全うし、役割を果たすことが出来る者はいない。人間の出生は、極めて幅広い関係の結びつきに影響を与える。また、成育にも複雑な関係の結びつきが含まれる。それらと同様、必然的に結婚もまた、極めて幅広く複雑な網の目のような人間関係の中に存在し、維持されて、その関係に含まれる全ての者の運命に影響する。結婚は、当事者双方の家族や、成育環境、容姿、年齢、資質、才能その他あらゆる要素の産物ではなく、むしろ共通の使命と関連する運命から発生する。これが、創造主により指揮され、用意された、人間の運命の産物である結婚の起源である。」（『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 ３」より）姉妹はそれから私と説教を分かち合ってくれました。「私たちの結婚はどれもがみな、神によって予定されていて、私たちが誰と家庭を持つかを神がずっと前に決められているのです。みな神ご自身の知恵により采配されています。神が私たちのためにお選びになった結婚は、私たちの社会的地位や外見や能力によるのではなく、両人の人生における使命により決定されます。しかし、私たちは自身の堕落した性質にコントロールされているので、たえず自分の片割れにたくさん要求し、いつも相手が物事を自分のやり方で行なってほしいのです。相手がそうしないと、私たちはそれを受け入れるのを拒否し、不満に感じます。相手と口論したり怒ったり、不平をぶつけたりもし、また神を責めたり誤解したりもします。こうして両人とも苦しんで生きることになります。この種の痛みは他の誰からももたらされるものではなく、神の支配や編成によるものでもなく、ただ私たちが傲慢でうぬぼれた堕落した性質で生きているがゆえなのです。このような堕落した性質により、私たちは神の支配に抗います。神の采配や編成に服従できずにいるのです」姉妹のこの説教を聴いて、私は夫との今までの関係を思い返しました。私はいつも夫に対し不満を露わにし、いつも私の思い通りにしてほしいと要求していました。夫が私のことを気にしていなかったり私に気遣いや思いやりをみせてくれないと、また私が幸福であるか知ろうとしてくれないと、夫に対し文句を言い、だめな人だなどと思っていました。私は夫をあらゆる面で見下し、冷戦をふっかけ、彼に注意を払うのを拒否していました。私はようやく、自分が実に傲慢でうぬぼれていて利己的で卑劣な人間だったとわかりました。自分の利益しか考えず、他人の気持ちを考えようとしない人でした。よくよく考えてみると、夫が私に思いやりがないなどというのは全く真実ではありませんでした。夫はただかなり内向的であまり感情を表さないだけだったのです。そして夫には独自の思いや好みがありました。それなのに私は夫がしたがらないことをさせようと躍起になっていたのでした。私はいつも夫に私を中心にして動き回ってほしくて、それが私たちの間であれほどの対立が起こった原因だったのです。私は自分の過去の振る舞いを後悔せずにはいられませんでした。また夫が言ったことを思い返せば、過去に主の福音を夫に伝えたのは私の方ですが、今度は夫が終わりの日の神の福音を私と分かち合ってくれたのでした。これは私たちへの神の偉大な御恵みで、神の素晴らしい編成でした。私たちは二人とも極めて恵まれていたのに、私には感謝の気持ちが一切ありませんでした。それどころか神が私のために手配してくださった結婚に自分を委ねようとせず、たえず神を責めていました。自分がどれほど傲慢でどれほど理知を欠いていたかがわかりました。御言葉で私を導いてくださった神に感謝します。私はこの結婚におけるあらゆる苦しみの根源を見つけました。そして心が楽になり力が抜けるのを感じました。またこの時から、傲慢でうぬぼれた堕落した性質を捨てるため、そして夫と仲良く暮らしていくため、私は生活において喜んで神に頼り、神に目を向けるようになりました。それ以来、夫と私はよく一緒に神の御言葉を読んだり真理に関して交わったりするようになり、被創造物として自らの能力の最善を発揮して本分を尽くしています。また、毎日神の御言葉により糧と潤いを得ています。問題に直面した時には、神の御言葉から神の御意志を求めます。堕落を露呈したり口論を始めたりすると、二人とも神の御前に進んで自らを顧みて自らを知ります。このように実践していると、お互いへの認識も赦しの心も育っていきました。口論の回数はどんどん減り、家庭生活は調和し、人生がどんどん充実してきました。私が一番感動したのは、夫が私よりも真理を認識していることです。夫はよく神の御言葉で理解したことについて私と説教を分かち合ってくれ、私の堕落した性質が見えた時には真理と神の御意志について話してくれます。私への夫の思いやりと愛を本当に感じ、心から幸せです。私たちの歩んだ道を振り返ると、いまだに私は私のまま、夫は夫のままです。終りの日の全能神の働きを受け入れ、いくらかの真理を理解してきた、ただそれだけで、何もかもがすっかり変わったのです。私たちをお救いくださった全能神に感謝します。]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-14T01:06:53+00:00</published><updated>2020-01-14T01:06:53+00:00</updated><content 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			<p>ジュイ・チュウ（マレーシア）<br></p><p>私は美容師で夫は農業をしています。私たちはマレーシアで、オレンジを投げる伝統行事にて出会いました。これは良縁を求める女性のための行事です。一年後、私たちの結婚式は牧師の立会のもと、教会で執り行われました。私はその牧師による私たちの婚姻のための<a href="https://jp.godfootsteps.org/tag/ways-to-pray" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>祈り</b></a>にとても深く感動しました。私は信心深くありませんでしたが、声に出さずに神に懇願しました。「この人がずっと変わらず私を慈しみ、私を大切に思ってくれますように。そして一生私の伴侶でいてくれますように」</p><p>結婚生活が始まると、夫婦間の対立がひとつまたひとつと生じてきました。夫は毎朝四時に家を出て野菜を売りに行き、午後七時までは帰宅せず、私は午後十時過ぎまで仕事が終わりません。私たちは一緒に過ごす時間がほとんどありませんでした。疲れきった体を引きずって帰宅するたびに、私は夫から気遣いや思いやり、理解を少しでも受けられたらと強く願っていました。仕事はどうだったか、楽しかったかどうか、夫に尋ねてほしかったのです。しかし残念なことに、私が仕事から帰ると夫はほぼ毎回テレビを見ていなければ携帯電話をいじっていて、私にお帰りとすら言わないこともありました。私が存在すらしていないかのようでした。私はこれに本当に落胆して、次第に夫に対して不満を募らせていきました。</p><p>あるとき私はお客さんと意見の行き違いがあり、とてもいら立ち、不当な扱いを受けたと感じていました。帰宅後、そのことを夫に愚痴りました。夫が私を慰めてくれるだろうと期待していたのです。しかし驚いたことに夫は携帯電話をもてあそびながら、ただ私に気づいてうなずいただけで、私に意識を向けないではありませんか。うなずいた後はすぐにうつむいてまた携帯電話を見始めました。夫の私に対する完全な無関心に我慢できず、私は夫に向かって怒鳴りました。「あなた石でできてるの？話さえできないの？誰かのことも気に留めるってことある？」ひどく怒る私を見て、夫は答えるのを拒否しました。夫に無言でいられればいられるほど、私の怒りはヒートアップしました。私は夫をしつこく責め立て、何か言わせてやろうとすっかり躍起になっていました。思いがけず夫が突然「まだ言い足りないのか」と怒鳴り返してきました。これで私は余計に怒りを感じ、さらに不当に扱われたと思い、夫にわからせようと話し続けました。結局、夫は何も言おうとしないため、私たちの口論は話になりませんでした。また別の時に、職場であった腹立たしいことについて夫に愚痴を言って、夫が私の気を楽にしてくれることを期待したことがありました。しかしその代わりに夫の返事はぶっきらぼうで氷のように冷たかったのです。「どっちもどっちだろう。君は他人の問題しか見えてないんだな。なんで自分のことを省みないんだ？」私は瞬間的に不機嫌になり、一言言ってやらずには気がすみませんでした。憤りで頭がいっぱいになり、思いました。「この人どんな人種なの。私、なんでこんな人と結婚しちゃったの。私の気持ちをこれっぽっちも考えないじゃない。一言だって私を慰めようとしない」この時から私は、職場でのことを夫に話すのをほとんどすっかりやめました。しばらく後になって夫は私に仕事のことを訊こうとしてきましたが、私は夫に注意を向けたいとは決して思いませんでした。夫は次第に私に質問するのをやめていきました。私たちの間には共通の話題がどんどんなくなっていき、失望するような出来事が起こると、私は耳を貸してくれる友達に当たってみるのでした。時には遅くまで外で話し込み、夜半過ぎまで帰宅しないこともありました。それほど遅くに帰宅しても、夫は私を気遣う様子など見せず、ただ「うちをホテル扱いしてるみたいだ」と言うのです。私はひどく気分を害し、夫への不満が大きくなり、私たちはしょっちゅう口げんかするようになりました。二人とも苦しんでいました。私はこれ以上こんな生活を続けたくないと思い、夫ときちんと話せるチャンスを見つけようと決めました。</p><p>ある日の夕食後、私は夫に頼みました。「私のこと本当に我慢ならないんでしょ。どうなの。どうして私のこと少しも気にしてくれないのよ。私のことで何か問題があるなら直接言ってよ」夫が何とも答えないので、私は夫に迫り続けました。すると驚いたことに夫はいら立って私に怒鳴ったのです。「そんな質問をするのはやめろ。君とのことは全部が問題だよ。うんざりなんだよ」こんな風に言い返され、私は怒りで頭に血が上り、私たちはまた言い合いを始めました。何か言っては言い返されるというように、しばらく口論を続けていましたが、最後は夫が立ち上がり私をドンと押しました。私はバランスを崩し、ソファに倒れ込みました。夫が私に手を挙げたことに、私は胸が張り裂けそうでした。「これがあんなに慎重に選んだ夫？これが私があれほど望んでいた結婚？この人はどうして私をこんなふうに扱えるんだろう」この時から私は夫に何かを期待するのをやめました。</p><p>2014年4月、ほんの偶然から、ある姉妹が私に主イエスの<a href="https://jp.godfootsteps.org/the-work-of-spreading-the-gospel-is-also-the-work-of-saving-man.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>福音</b></a>を分かち合ってくれました。姉妹は主が私たちを愛していて私たちを救うために十字架にかけられたのだと言いました。私は主の愛に心から感動したので、主の福音を受け入れました。その後、私は牧師に結婚生活の問題について話したところ、牧師は言いました。「私たちは、まず自分自身が変わらない限り、他の誰も変えることはできないのです。主イエスの例に倣い、他者への寛容さと忍耐強さを実践すべきなのです」それで私は自分自身を変えようとし始めました。仕事が終わるとすぐに帰宅し、家を掃除し、時には夫が私を無視するとかっとしそうになりましたが、寛容さと忍耐強さを私にお授けくださるよう主に祈りました。自制心を失って夫と口論を始めてしまった時には、その口論を丸く収めようと私の方から働きかけました。私に起こった変化を見て、夫も主を信じるようになりました。双方が信徒になると、口論は減り、意思の疎通が増えました。主が直接私たちをお救いくださったのがわかり、私は主への感謝でいっぱいになりました。</p><p>しかし時は流れて、私たちはなお自分の感情をコントロールできずにいました。家庭内不和はまだ時々起こり、そして特に一人が不機嫌だともう一人も寛容さと忍耐強さを実践することができず、結果として私たちの口論は激しさを増していきました。口論の後は毎回、私は心が痛み苦しくなりました。そして主に祈りました。「主よ、寛容で忍耐強くなるようにと教えてくださいますが、私はどうしてもそうできないようです。夫が私の嫌なことをするのを見ると、夫への不満が本当にひどくなります。主よ、私はどうすべきなのですか」その後、私は実践の道を見つけたくて教会が主催するあらゆる勉強会に参加し始めました。しかし望んでいたものは得られませんでした。グループのリーダーに助けを求めても、ただこう言うだけです。「妻と私もしょっちゅう口論しますよ。パウロでさえ『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。』（ローマ人への手紙7：18）と言っていますしね。たえず罪を犯しては告白するというサイクルに直面した私たちの問題の解決法を誰も持っていません。私たちにできるのは、主に祈り、憐れみくださいとお願いすることだけです」それを聞いて私は途方に暮れました。対立の泥沼にはまったまま二人とも残りの人生を過ごすのが運命だ、ということなのでしょうか。</p><p>2017年3月、これまでずっと無口な人だった夫が突然、生き生きとした話し好きになりました。それに加えて聖書に書いてあることで自分が理解したことを、たびたび私と分かち合ってくれるようになりました。さらに驚いたことに夫の話は本当に光に満ちていたのです。私は不思議に思いました。夫が突然別人になったかのようだったからです。それに夫の言うことは本当に識見に飛んでいました。私は一体何が起こっているのか知りたいと強く思いました。ある日、夫があるSNSのグループのメンバーだと偶然に知り、すぐに夫に仲間とどんなことを話しているのか尋ねました。夫はとても真剣な面持ちで、終りの日の<a href="https://jp.godfootsteps.org/" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>全能神</b></a>の働きのことを検討しているのだと、主イエスが既に再臨されていて、それが全能神なのだと言いました。夫が言うには、全能神は既に何百万語もの御言葉を発せられ、終りの日における人類の裁きと清めの働きをされているとのことでした。また、それは聖書の預言「さばきが神の家から始められる時がきた」（ペテロの第一の手紙4：17）を完全に成就していると言いました。神の出現と働きを求めるなら、自分の観念と想像に盲目的に執着するのではなく、神の御声を聞くことに集中しなければならない。真理を追求せずにただ神の啓示を消極的に待っていたら、<a href="https://jp.godfootsteps.org/almighty-god-is-the-returned-jesus.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>主の再臨</b></a>を歓迎することはできないだろう、とも言うのです。これを聞いて私は衝撃を受け、信じられない気持ちでした。その後、私はかつてインド人牧師が言っていたことをふと思い出しました。神の再臨のことを耳にしたら、心を開いて真剣に吟味して求めるべきだと。自分の観念と想像を頼りにして盲目的に物事を決め付けてはいられないのだと。そこで私は主に祈りました。「主よ、もし全能神が本当に再臨された主であるなら、心を開いて真理を追求し、このことを吟味できるよう、どうか私をお導きください。そうでないならば、私が主から逸れないよう、私の心をお守りください。アーメン」</p><p>こう祈った後、聖書を開くと、ヨハネの黙示録3章20節にこうありました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」これは私によって突然の天啓の瞬間で、主が私に話されている、再臨したらあなたの戸を叩こうと仰っているのだ、と感じました。主の声に耳を傾けて戸を開けよという主のご指示だと感じました。それはまるで聖書にある花婿の声を聞いて花婿を迎えに急いだ賢いおとめたちのようでした。それから私はヨハネによる福音書16章12-13節のことを考えました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」聖書のこのような節について熟考していると、高揚感が湧き上がってきました。主が遠い昔に、ご自身の再臨に際し私たちにさらに多くの御言葉を発し真理を授けてくださると教えてくださっていたのだと気づきました。そして終わりの日の全能神の働きは、人類を裁き清めるために御言葉を発せられることです。全能神は本当に再臨された主イエスなのだろうか。もし主が本当に再臨され、人類のあらゆる困難を解決するために真理を表されているなら、罪の束縛から逃れる希望があります。ならば私と夫の間の問題も解決できるのではないでしょうか。私はすぐさま、全能神教会の兄弟姉妹と連絡を取らせてほしいと夫に頼みました。私も終わりの日の全能神の働きを吟味したいと思ったのです。</p><p>集会では全能神教会の兄弟姉妹が聖書からいくつか節を選んで、真理のさまざまな側面について私に話してくれました。それは主の再臨の仕方、主の新しい名前、主がどのような働きをなさるのか、といったことでした。兄弟姉妹の説教はとてつもなく説得力があり、私には全く新しいものでした。私は終わりの日の神の働きについてもっと知りたいと切望したので、何度も何度も神に祈り、神の御言葉を理解できるように私を照らしてくださいとお願いしました。神の御言葉を読み、兄弟姉妹の説教を聴くことにより、私は次第に人類を経営する神の目的、人類を救う神の働きの三段階、人類の結末と終着点について、次第に理解するようになりました。終わりの日の神の働きについて調べている間も、私はごくごく些細なことでいまだに夫と言い争ってしまうことがあり、その後でひどい罪悪感に苛まれ動揺し自問しました。「なぜ私は神の御言葉を実践できないの」私は当惑したままでした。集会で、私はある姉妹に質問しました。「私と夫はなぜいつも口げんかしてしまうのでしょうか。なぜ平和に仲良くやっていけないのでしょうか」姉妹は神の御言葉の数節を私のために見つけてくれました。「人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。」（『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義（４）」より）「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」（『言葉は肉において現れる』の「序文」より）</p><p>姉妹はそれから、説教をしてくれました。「最初、アダムとイブはエデンの園で神の御前にて幸せに暮らしていました。口論などありません。苦しみもありませんでした。しかしヘビの言うことを聞いて善悪の知識の木になる実を食べた後、彼らは神からどんどん離れ、神を裏切り、神によるお世話と保護を失ってサタンの権力下で生きるようになります。悲しみと苦しみの日々の始まりです。これが今日まで続いているのです。そして私たちはサタンによりどんどん深く堕落しています。私たちは堕落したサタン的な性質に満ちています。私たちはとてつもなく傲慢で利己的で嘘つきで、強情です。あらゆる物事において自己中心的で、常に人に自分のことを聞かせたいのです。だから闘ったり殺し合ったりするのです。親子、夫婦ですらお互いへの寛容さと忍耐強さを持たず、互いに調和して仲良くやっていくことができないでいます。私たちには最も基礎的な良心と理知さえも欠けているのです。主イエスが私たちを贖ってくださり、私たちが主に祈り、告白し、悔い改め、頑張って主の教えに従ってもなお、私たちはどうしても罪を犯し神に背いてしまいます。これは主イエスが人類を贖うという働きのみをされたからなのです。主イエスは人類を完全に<a href="https://jp.godfootsteps.org/tag/the-salvation-of-God" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救い</b></a>清めるという働きはなさいませんでした。主イエスの救いを受け入れることは、ただ、もはや私たちに罪はなく、祈りにおいて主の御前に来て、主の憐れみを受けて罪を許される機会があることを意味するだけです。でも、私たちの堕落した性質はまだ清められていません。私たちの罪深い本性はまだ私たちの中に深く根付いたままです。私たちにはまだ、終わりの日に主が再臨なさり、人類を清め変容させる段階の働きを行なうことで私たちの罪深い本性の問題を解決していただくことが必要なのです。そして今や神は再び受肉され、私たちを堕落した性質から完全に救い、サタンの影響から逃れさせて完全に救うために、裁き清める働きを行うための御言葉を発せられています。神の新しい働きに遅れずついていき、神の御言葉の裁きと罰を受け入れ、真理を追求し、神の御言葉を実践する限り、私たちの堕落した性質は次第に変容します。これが真の人の似姿を生きられる唯一の道であり、そうすることで初めて他者とのかかわり合いにおいて調和を実現できるのです」</p><p>神の御言葉と姉妹の説教から、私はようやく気づきました。私たちが罪を犯しては告白するという状況に常に生きているのは、主イエスが人類を贖うという働きはされても、私たち信徒の罪が赦されただけで、私たちの中の罪深い本性は非常に深く揺るぎなく存在しており、私たちのサタン的な性質はまだ清められていないからなのです。その好例が、私が主の教えに沿って忍耐強さと寛容さを実践しようとしても、夫が私の嫌な言動をするやいなやどうしても腹を立ててしまうことです。どうしても自分を制御できないのです。私たちを救う神の働きなくして、自身のサタン的な堕落した性質を自身の努力だけで拭い去ることは不可能です。そして今、人類を裁き清める働きを行なうために神が再び受肉されました。神の新しい働きを受け入れ、真理を本当に追求することで、私たちには性質の変容を達成する機会があります。私は御声を聞かせてくださった主の憐れみに心から感動し、とてつもなく感謝しました。しかし私にはまだわからないことがありました。神が私たちを清め変容させる目的で御言葉を発するために今回再臨されたのはわかりましたが、どうして御言葉が私たちの堕落した性質を裁き清めることができるのでしょうか。そこで私は自分の混乱を説明しました。</p><p>姉妹は、神の御言葉の別の一節を読んでくれました。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」（『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より）</p><p>姉妹はさらに私と説教を分かち合ってくれました。「神の御言葉は、神がどのように裁きの働きをされるのか明確に私たちに説明しています。神は人類を裁き清めるために御言葉を使われるのです。神は御言葉によりおもに私たちの堕落した本性と本質、サタン的な性質を直接明らかにされ、細かく分析されます。また、どのように神に服従し神を崇拝すればよいのか、正しい人としてどう生きればよいか、どのように真理を追求し、性質の変化を達成すればよいか、どうすれば正直な人でいられるか、そして神が何を人に望まれ要求されるかを明確に説いてこられました。神はどのような人を好まれ、どのような人を排除されるか、また他に多くのことも告げられてきました。また、私たちを刈り込み取り扱い、試し、精錬するための人々、出来事、物事、環境を準備されます。こうして私たちの堕落した性質が明らかにされ、私たちは神の御前に行き真理を追求し、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、自らを顧み、自らを知ることを余儀なくされます。神の裁きと刑罰の御言葉を受け入れると、まるで神が私たちと面と向かって生き生きと話されているように感じられるのです。そこで神に対する私たちの不従順と抵抗、私たちの不正な動機、私たちの観念と想像を余すところなく明らかにされます。それで初めて私たちは自らの本性と本質が傲慢さとうぬぼれ、欺瞞、腹黒さ、身勝手さ、卑劣さに満ちていることを知ることができます。私たちは神への畏敬の心が全く欠けていること、サタン的で堕落した本性に完全に基づいて生きていること、露呈するものすべてがサタン的性質であること、ただただ人の似姿に欠けていることを知るのです。すると自分を憎み始め、心から自分を嫌悪し、これ以上サタンの影響下で生きていたくないと、サタンにもてあそばれ傷つけられるのはもうたくさんだと思います。何よりも、神の裁きと刑罰をとおして神の神聖な本質と罪を一切許容しない神の義なる性質とを知ります。神への畏敬の心が私たちの中で生まれ、神に御満足いただくために真理を実践しようと意欲的になります。ひとたび真理を実践し始めると、神の善に満ち憐れみ深い性質が私たちに明かされます。神の御言葉を読み続け、神の裁きと刑罰を経験し続けることにより、自身の堕落した本性についての認識を深め、神が表現される真理をさらに認識し、神の裁きと刑罰を受け入れ服従すること、肉を見捨て真理を実践し神に満足していただくことをさらにいとわなくなります。堕落の露呈が減っていき、真理を実践するのがどんどん容易になり、神を畏れ悪を遠ざける道へと次第に歩みを進めていきます。神の御言葉による裁きと刑罰を経験すると、これが堕落した性質から私たちを救い癒す万能薬であることを誰もが心から確信することができます。これが私たち堕落した人間に対する神の至高の真の愛であり、神の御言葉による裁きと刑罰を経験しなければ、真の人の似姿を生きることは決してできません」</p><p>神の御言葉と姉妹の説教は、私にとってとても大きな衝撃でした。終わりの日の裁きと刑罰という神の働きは本当に実際的だと思い、また自分の堕落した性質が変容するよう願うなら、神の御言葉による裁きと刑罰を経験しなければならないのだと思いました。そうでなければ、罪を犯しては告白するという循環の中に永遠に生き続け、罪の束縛から決して逃れられないのです。ですから心の中で神に祈り、御言葉で私を潤し糧を与えてくださいと、そして自分自身を知り、堕落した性質が近い将来変容して真の人の似姿を生きられるように私を裁き罰する環境を整えてくださいとお願いしました。</p><p>終りの日の神の働きを受け入れた後、私はまた神が私のために整えてくださったこの結婚について、新たな認識を得ました。ある時、ある姉妹が私のために神の御言葉の数節を読んでくれたのです。「人間は、自分が結婚を経験するまで、結婚に関して様々な幻想を抱き、その幻想は全て美しい。女性は、白雪姫に登場する王子のような自分の夫を想像し、男性は自分が白雪姫のような者と結婚することを想像する。こうした空想により、人間には、それぞれに結婚の条件、数件の要求事項、基準事項があることが示される。」（『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 ３」より）「結婚は人生における重要な節目である。結婚は人間の運命の産物であり、人間の運命における重要な繋がりである。結婚は人間の個人的な意志や嗜好に基づくものでも、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、当事者双方の運命、双方の運命に関する創造主の采配と定めにより決定される。」（『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 ３」より）「したがって、ある者が結婚した場合、その者の人生の旅路は、その者の配偶者に関与して影響を与え、同様にその者の配偶者の人生の旅路はその者の人生の運命に関与して影響を与える。換言すると、人間の運命は相互に関連しており、他人に全く依存せずに自分の人生における使命を全うし、役割を果たすことが出来る者はいない。人間の出生は、極めて幅広い関係の結びつきに影響を与える。また、成育にも複雑な関係の結びつきが含まれる。それらと同様、必然的に結婚もまた、極めて幅広く複雑な網の目のような人間関係の中に存在し、維持されて、その関係に含まれる全ての者の運命に影響する。結婚は、当事者双方の家族や、成育環境、容姿、年齢、資質、才能その他あらゆる要素の産物ではなく、むしろ共通の使命と関連する運命から発生する。これが、創造主により指揮され、用意された、人間の運命の産物である結婚の起源である。」（『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 ３」より）姉妹はそれから私と説教を分かち合ってくれました。「私たちの結婚はどれもがみな、神によって予定されていて、私たちが誰と家庭を持つかを神がずっと前に決められているのです。みな神ご自身の知恵により采配されています。神が私たちのためにお選びになった結婚は、私たちの社会的地位や外見や能力によるのではなく、両人の人生における使命により決定されます。しかし、私たちは自身の堕落した性質にコントロールされているので、たえず自分の片割れにたくさん要求し、いつも相手が物事を自分のやり方で行なってほしいのです。相手がそうしないと、私たちはそれを受け入れるのを拒否し、不満に感じます。相手と口論したり怒ったり、不平をぶつけたりもし、また神を責めたり誤解したりもします。こうして両人とも苦しんで生きることになります。この種の痛みは他の誰からももたらされるものではなく、神の支配や編成によるものでもなく、ただ私たちが傲慢でうぬぼれた堕落した性質で生きているがゆえなのです。このような堕落した性質により、私たちは神の支配に抗います。神の采配や編成に服従できずにいるのです」</p><p>姉妹のこの説教を聴いて、私は夫との今までの関係を思い返しました。私はいつも夫に対し不満を露わにし、いつも私の思い通りにしてほしいと要求していました。夫が私のことを気にしていなかったり私に気遣いや思いやりをみせてくれないと、また私が幸福であるか知ろうとしてくれないと、夫に対し文句を言い、だめな人だなどと思っていました。私は夫をあらゆる面で見下し、冷戦をふっかけ、彼に注意を払うのを拒否していました。私はようやく、自分が実に傲慢でうぬぼれていて利己的で卑劣な人間だったとわかりました。自分の利益しか考えず、他人の気持ちを考えようとしない人でした。よくよく考えてみると、夫が私に思いやりがないなどというのは全く真実ではありませんでした。夫はただかなり内向的であまり感情を表さないだけだったのです。そして夫には独自の思いや好みがありました。それなのに私は夫がしたがらないことをさせようと躍起になっていたのでした。私はいつも夫に私を中心にして動き回ってほしくて、それが私たちの間であれほどの対立が起こった原因だったのです。私は自分の過去の振る舞いを後悔せずにはいられませんでした。また夫が言ったことを思い返せば、過去に主の福音を夫に伝えたのは私の方ですが、今度は夫が終わりの日の神の福音を私と分かち合ってくれたのでした。これは私たちへの神の偉大な御恵みで、神の素晴らしい編成でした。私たちは二人とも極めて恵まれていたのに、私には感謝の気持ちが一切ありませんでした。それどころか神が私のために手配してくださった結婚に自分を委ねようとせず、たえず神を責めていました。自分がどれほど傲慢でどれほど理知を欠いていたかがわかりました。御言葉で私を導いてくださった神に感謝します。私はこの結婚におけるあらゆる苦しみの根源を見つけました。そして心が楽になり力が抜けるのを感じました。またこの時から、傲慢でうぬぼれた堕落した性質を捨てるため、そして夫と仲良く暮らしていくため、私は生活において喜んで神に頼り、神に目を向けるようになりました。</p><p>それ以来、夫と私はよく一緒に神の御言葉を読んだり真理に関して交わったりするようになり、被創造物として自らの能力の最善を発揮して本分を尽くしています。また、毎日神の御言葉により糧と潤いを得ています。問題に直面した時には、神の御言葉から神の御意志を求めます。堕落を露呈したり口論を始めたりすると、二人とも神の御前に進んで自らを顧みて自らを知ります。このように実践していると、お互いへの認識も赦しの心も育っていきました。口論の回数はどんどん減り、家庭生活は調和し、人生がどんどん充実してきました。私が一番感動したのは、夫が私よりも真理を認識していることです。夫はよく神の御言葉で理解したことについて私と説教を分かち合ってくれ、私の堕落した性質が見えた時には真理と神の御意志について話してくれます。私への夫の思いやりと愛を本当に感じ、心から幸せです。私たちの歩んだ道を振り返ると、いまだに私は私のまま、夫は夫のままです。終りの日の全能神の働きを受け入れ、いくらかの真理を理解してきた、ただそれだけで、何もかもがすっかり変わったのです。私たちをお救いくださった全能神に感謝します。</p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[キリスト教讃美歌「正直な人々だけが人間の姿を持つ」 神の言葉は私に新しい命を与える]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7585443/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7585443</id><summary><![CDATA[🌸あらすじキリスト教讃美歌「正直な人々だけが人間の姿を持つ」 神の言葉は私に新しい命を与えるわたしは利益のためにすべての行動の基準を棄て厚かましくも欺瞞を使って暮らしを立てた良心や道徳、誠実や尊厳のことなど全く考えずただ膨らむ肉欲と欲望を満たすために生きていた不安な心で、罪の泥沼の中でもがきこの無限の闇から逃れるすべはなかった生活の富とはかない快楽はわたしの心の空しさと痛みを＠覆うことはできなかった「人」という言葉を書くことは簡単だが正直で信頼に値する者になることは何よりも難しいわたしをこの罪の淵から救えるのは誰？わたしをこの罪の淵から救えるのは誰？神の御声がわたしを御前に導いた今日わたしは神に従い神のために尽くすことができる神の言葉を日々読むことでわたしの心は甘美さに満たされる真理を理解することによってわたしは今、人間の行いの原則を持っているわたしが行うこと、話すことのすべては神の言葉によるすべてのことにおいて神の吟味を受け入れると私の心は安らぎ、平安になる欺瞞も偽りもなく、私は光の中に生きる開いた心で、正直な人となりやっと人間の姿を生きるようになる神の裁きと刑罰がわたしを救い神の言葉によって生まれ変われるようにしてくれた神の愛と救いに永遠に感謝します神の愛と救いに永遠に感謝します神の愛と救いに永遠に感謝します『小羊に従って新しい歌を歌おう』より]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-13T07:40:48+00:00</published><updated>2020-01-13T07:40:48+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>URL: <a href="https://youtu.be/u3HFhrpzKJk">youtu.be
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			<p>🌸あらすじ</p><p>キリスト教<a href="https://jp.easternlightning.org/hymns.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>讃美歌</b></a>「正直な人々だけが人間の姿を持つ」 神の言葉は私に新しい命を与える</p><p>わたしは利益のために</p><p>すべての行動の基準を棄て</p><p>厚かましくも</p><p>欺瞞を使って暮らしを立てた</p><p>良心や道徳、誠実や尊厳のことなど全く考えず</p><p>ただ膨らむ肉欲と欲望を満たすために生きていた</p><p>不安な心で、罪の泥沼の中でもがき</p><p>この無限の闇から逃れるすべはなかった</p><p>生活の富とはかない快楽は</p><p>わたしの心の空しさと痛みを＠覆うことはできなかった</p><p>「人」という言葉を書くことは簡単だが</p><p>正直で信頼に値する者になることは</p><p>何よりも難しい</p><p>わたしをこの罪の淵から救えるのは誰？</p><p>わたしをこの罪の淵から救えるのは誰？</p><p>神の御声がわたしを御前に導いた</p><p>今日わたしは神に従い</p><p>神のために尽くすことができる</p><p>神の言葉を日々読むことで</p><p>わたしの心は甘美さに満たされる</p><p>真理を理解することによって</p><p>わたしは今、人間の行いの原則を持っている</p><p>わたしが行うこと、話すことのすべては</p><p>神の言葉による</p><p>すべてのことにおいて神の吟味を受け入れると</p><p>私の心は安らぎ、平安になる</p><p>欺瞞も偽りもなく、私は光の中に生きる</p><p>開いた心で、<a href="https://jp.easternlightning.org/faith-qa/practice-being-honest-person.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>正直な人</b></a>となり</p><p>やっと人間の姿を生きるようになる</p><p><a href="https://jp.easternlightning.org/judgment-categories/judgment-of-the-last-days.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の裁き</b></a>と刑罰がわたしを救い</p><p>神の言葉によって</p><p>生まれ変われるようにしてくれた</p><p>神の愛と<a href="https://jp.easternlightning.org/judgment-categories/salvation-and-full-salvation.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救い</b></a>に永遠に感謝します</p><p>神の愛と救いに永遠に感謝します</p><p><a href="https://jp.easternlightning.org/tag/God-s-love" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の愛</b></a>と救いに永遠に感謝します</p><p>『小羊に従って新しい歌を歌おう』より</p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「玉座から命の川の水が流れ出る」から、その八「どうやって『永遠の命の道』を得るか」]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7582327/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7582327</id><summary><![CDATA[🌸あらすじ「玉座から命の川の水が流れ出る」――どう追い求めれば永遠の命の道を得ることができるでしょうか？🌸もっと見るキリスト教映画「待ち焦がれて」抜粋シーン（５）主が私達に用意してくださった場所はどこにあるゴスペル キリスト教映画「神への信仰」抜粋シーン（3）神の働きと出現は教団になにをもたらすか 　日本語吹き替え]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-12T13:42:09+00:00</published><updated>2020-01-12T13:42:09+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>URL: <a href="https://youtu.be/hbXiTe3mdPk">youtu.be
					<img src="https://i.ytimg.com/vi/hbXiTe3mdPk/hqdefault.jpg" width="100%">
				</a>
			</p>
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			<p>🌸あらすじ</p><p>「玉座から命の川の水が流れ出る」――どう追い求めれば<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/videos/do-you-know-the-source-of-eternal-life.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>永遠の命</b></a>の道を得ることができるでしょうか？</p><p><br></p><p>🌸もっと見る</p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/videos/Yearning-5.html" class="u-lnk-clr">キリスト教映画「待ち焦がれて」抜粋シーン（５）主が私達に用意してくださった場所はどこにある</a><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/videos/faith-in-God-movie-3.html" class="u-lnk-clr"><br></a></p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/videos/faith-in-God-movie-3.html" class="u-lnk-clr">ゴスペル キリスト教映画「神への信仰」抜粋シーン（3）神の働きと出現は教団になにをもたらすか 　日本語吹き替え</a><br></p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[IV.  天の御国へ入る条件に関する質問と答え·主イエスと全能神は同じ神ならば、救われるのにはイエスを信じるだけで十分ではないのか。]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7577397/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7577397</id><summary><![CDATA[神の御言葉による答え:人にとって、神の磔刑は神の受肉の働きを終結させ、全人類を罪から贖い、神がハデスへの鍵を握るようにした。誰もが神の働きは完全に成し遂げられたと考えている。実際は、神にとっては、働きのほんの一部が成し遂げられたにすぎない。神は人類の罪を贖っただけである。人類を征服しておらず、ましてや人の中のサタンの醜さを変えていない。そのため神は「人となったわたしの肉体は死の苦しみを経験したが、それは受肉の目標のすべてではなかった。イエスはわたしの愛する子で、わたしのために十字架にくぎで打ちつけられたが、イエスはわたしの働きを完全には終了しなかった。その一部を行ったに過ぎない」と言う。したがって、神は受肉の働きを続行する計画の第二回目を開始した。神の最終的意図は、サタンの手から救われたすべての人を完全なものにし、神のものとすることであり、そのため、神は人の姿となるという危険を再び冒す準備をした。『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(6)」より…恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質がどのように取り除かれるかという働きは人の中ではなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い性質は取り去られず残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、人がもはや罪を犯さず、罪深い本性が完全に取り去られ変えられるにはどうしたらよいかという問題を人は解決することができなかった。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、よれにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。…だから、その段階が終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きがある。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い性質が捨てられることもないだろうし、人は罪の赦しにだけ執着するだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができる。神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践するよう求めるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より宗教的な教会における実践が旧態化していると言われているのは、何故だろうか。それは、そうした教会で実践されている物事が現在の業と断絶されているからである。恵みの時代においては、教会で実践していた事は正しかったが、その時代が過ぎ去り、神の業は変化し、教会の実践は次第に旧態化していった。そうした実践は、新たな業と光に置き去りにされている。聖霊の業は、元来の基礎の上で、何段階か深化している。しかし、そうした教会の人々は神の業の、元来の段階のまま滞り、旧来の実践と光を未だに固守している。神の業は3年ないし5年で大きな変化を遂げることがある。それならば、2000年の間にそれ以上の変化が起こるのではないだろうか。人間に新たな光も実践も無いならば、それは人間が聖霊の業から遅れていることを意味する。これは人間の失敗である。神の新たな業の存在は否定出来ない。なぜなら、現在において、聖霊の元来の業のある者は、旧来の実践を遵守しているからである。聖霊の業は常に進行しており、聖霊の流れの中に居る者もまた一層深化し、漸進的に変化する必要がある。人間は、ある段階で停滞すべきではない。神の元来の業に留まり、聖霊の新たな業を受け容れないのは、聖霊の業を知らない者のみである。聖霊の業を得ることが出来ないのは、不従順な者だけである。人間の実践が聖霊の新たな業に遅れたならば、人間の実践もまた、現在の業から分離していること、そして現在の業と相容れないことは確実である。そうした旧態化した人々は、明らかに神の心を実現出来ず、いわんや神の証しに立つ最後の者となることなど出来ないであろう。さらに、経営の業全体は、そうした人々の中では完結できない。嘗てヤーウェの律法を遵守していた者と、十字架のために苦難を受けた者にとって、終わりの日の業の段階を受け容れられなければ、そうした者が行った物事は全て無に帰し、無駄になるであろう。…………各期間において、神は新たな業を開始し、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」ないし「イエスはキリストである」といった、ある１つの時代のみに該当する真理のみに従うのであれば、人間は聖霊の業と足並みを揃えることは決して出来ず、聖霊の業を得ることは永遠に出来ないであろう。…多くの者は、旧来の律法を拒否して新たな業を受け容れた者は、良心が無いとさえ信じている。良心に関して話をするだけで聖霊の業を知らない者は、究極的には自らの良心のために見通しを中断される。神の業は教義に準拠しておらず、またそれは神自身の業であるが、神はそれに固執しない。否定されるべき物事が否定され、排除されるべき物事が排除される。しかし、人間は神の経営の業のうち、ほんの一部に固執し、よって自ら神と対立している。それは人間の不合理ではなかろうか。それは人間の無知ではなかろうか。人間が神の祝福を得られないことを畏れて臆病になり、用心し過ぎればし過ぎるほど、より大きな祝福と、最後の祝福を得ることが一層不可能となる。盲目的に律法を遵守している人々は皆、律法に対して最高の忠義を示し、そうした者が律法に対して最高の忠義を示せば示すほど、そうした者は一層神に反抗する反逆者である。現在は律法の時代ではなく神の国の時代であり、現在の業を従来の業と比較することはできず、過去の業を現在の業と比較することは出来ない。神の業は既に変化しているので、人間の実践もまた変化した。現在の実践は、律法を守ることでも、十字架を負うことでも無い。したがって、律法や十字架に対する人間の忠義は、神の承認を得ないであろう。『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より神の働きにはいつも新しい進展があるので、新しい働きもあり、当然すたれた古い働きも出てくる。この古い働きと新しい働きは矛盾するものではなく、補い合うもので、そのひとつひとつが過去から続いている。新しい働きがあるから、もちろん、古い働きは取り除かれなければならない。…神の働きはいつも新しく古いものは何ひとつなく、規定を形成することも一切なく、むしろ、継続的により大きい範囲で変化したり小さい範囲で変化したりして、新しくなっている。この働きは神自身の本来の性質の表れである。それはまた神の働きの本来の原則でもあり、神が自身の経営を成し遂げる手段の一つである。もし神がこの方法で働かないとしたら、人は変わらず、神を知ることもできず、サタンに打ち勝つこともないだろう。よって、神の働きのうちに一貫性のないように見える変化は継続して起きるが、それは実は周期的なものである。しかしながら、人が神を信じる方法は全く異なり、古い、親しみのある教えや制度にしがみつき、より古いものを心地よく感じる。石のように頑固で愚かな人の考えが、どのようにして神の計り知れない新しい働きと言葉を受け入れることができようか。…神は自身の働きを、古いものや死んだものではなく、常に新しく生き生きとしたものとしたいと考えている。人が拠りどころとすべきものとして神が与えたものは、時代や期間に合わせて分かれているもので、永遠に続くものや不変のものではない。彼は人を生かし新たにさせる神であり、人を死に至らせ古くする悪魔ではないからである。あなたがたはまだこれが分からないか。あなたは心を閉ざしているので、神について持っている観念を手放すことができない。神の働きが理不尽だからでも、非人道的だからでもなく、無論神がいつも「自分の義務に怠慢」だからなどでもない。『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知る人々のみ神に仕えることができる」より]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-11T12:12:32+00:00</published><updated>2020-01-11T12:12:33+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><a href="https://jp.easternlightning.org/books.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の御言葉</b></a>による答え:</p><p>人にとって、神の磔刑は神の受肉の働きを終結させ、全人類を罪から贖い、神がハデスへの鍵を握るようにした。誰もが神の働きは完全に成し遂げられたと考えている。実際は、神にとっては、働きのほんの一部が成し遂げられたにすぎない。神は人類の罪を贖っただけである。人類を征服しておらず、ましてや人の中のサタンの醜さを変えていない。そのため神は「人となったわたしの肉体は死の苦しみを経験したが、それは受肉の目標のすべてではなかった。イエスはわたしの愛する子で、わたしのために十字架にくぎで打ちつけられたが、イエスはわたしの働きを完全には終了しなかった。その一部を行ったに過ぎない」と言う。したがって、神は受肉の働きを続行する計画の第二回目を開始した。神の最終的意図は、サタンの手から救われたすべての人を完全なものにし、神のものとすることであり、そのため、神は人の姿となるという危険を再び冒す準備をした。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(6)」より</p><p>…恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質がどのように取り除かれるかという働きは人の中ではなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い性質は取り去られず残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、人がもはや罪を犯さず、罪深い本性が完全に取り去られ変えられるにはどうしたらよいかという問題を人は解決することができなかった。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、よれにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる<a href="https://jp.easternlightning.org/judgment-categories/salvation-and-full-salvation.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救い</b></a>を受けることができる。…だから、その段階が終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きがある。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い性質が捨てられることもないだろうし、人は罪の赦しにだけ執着するだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができる。神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践するよう求めるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より</p><p>宗教的な教会における実践が旧態化していると言われているのは、何故だろうか。それは、そうした教会で実践されている物事が現在の業と断絶されているからである。恵みの時代においては、教会で実践していた事は正しかったが、その時代が過ぎ去り、神の業は変化し、教会の実践は次第に旧態化していった。そうした実践は、新たな業と光に置き去りにされている。<a href="https://jp.easternlightning.org/faith-qa-categories/work-of-the-Holy-Spirit-and-of-evil-spirits.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>聖霊</b></a>の業は、元来の基礎の上で、何段階か深化している。しかし、そうした教会の人々は神の業の、元来の段階のまま滞り、旧来の実践と光を未だに固守している。神の業は3年ないし5年で大きな変化を遂げることがある。それならば、2000年の間にそれ以上の変化が起こるのではないだろうか。人間に新たな光も実践も無いならば、それは人間が聖霊の業から遅れていることを意味する。これは人間の失敗である。神の新たな業の存在は否定出来ない。なぜなら、現在において、聖霊の元来の業のある者は、旧来の実践を遵守しているからである。聖霊の業は常に進行しており、聖霊の流れの中に居る者もまた一層深化し、漸進的に変化する必要がある。人間は、ある段階で停滞すべきではない。神の元来の業に留まり、聖霊の新たな業を受け容れないのは、聖霊の業を知らない者のみである。聖霊の業を得ることが出来ないのは、不従順な者だけである。人間の実践が聖霊の新たな業に遅れたならば、人間の実践もまた、現在の業から分離していること、そして現在の業と相容れないことは確実である。そうした旧態化した人々は、明らかに神の心を実現出来ず、いわんや神の<a href="https://jp.easternlightning.org/testimonies-categories/overcomers.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>証し</b></a>に立つ最後の者となることなど出来ないであろう。さらに、経営の業全体は、そうした人々の中では完結できない。嘗てヤーウェの律法を遵守していた者と、十字架のために苦難を受けた者にとって、終わりの日の業の段階を受け容れられなければ、そうした者が行った物事は全て無に帰し、無駄になるであろう。…</p><p>……</p><p>…各期間において、神は新たな業を開始し、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」ないし「イエスはキリストである」といった、ある１つの時代のみに該当する真理のみに従うのであれば、人間は聖霊の業と足並みを揃えることは決して出来ず、聖霊の業を得ることは永遠に出来ないであろう。…多くの者は、旧来の律法を拒否して新たな業を受け容れた者は、良心が無いとさえ信じている。良心に関して話をするだけで聖霊の業を知らない者は、究極的には自らの良心のために見通しを中断される。神の業は教義に準拠しておらず、またそれは神自身の業であるが、神はそれに固執しない。否定されるべき物事が否定され、排除されるべき物事が排除される。しかし、人間は神の経営の業のうち、ほんの一部に固執し、よって自ら神と対立している。それは人間の不合理ではなかろうか。それは人間の無知ではなかろうか。人間が神の祝福を得られないことを畏れて臆病になり、用心し過ぎればし過ぎるほど、より大きな祝福と、最後の祝福を得ることが一層不可能となる。盲目的に律法を遵守している人々は皆、律法に対して最高の忠義を示し、そうした者が律法に対して最高の忠義を示せば示すほど、そうした者は一層神に反抗する反逆者である。現在は律法の時代ではなく神の国の時代であり、現在の業を従来の業と比較することはできず、過去の業を現在の業と比較することは出来ない。神の業は既に変化しているので、人間の実践もまた変化した。現在の実践は、律法を守ることでも、十字架を負うことでも無い。したがって、律法や十字架に対する人間の忠義は、神の承認を得ないであろう。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より</p><p>神の働きにはいつも新しい進展があるので、新しい働きもあり、当然すたれた古い働きも出てくる。この古い働きと新しい働きは矛盾するものではなく、補い合うもので、そのひとつひとつが過去から続いている。新しい働きがあるから、もちろん、古い働きは取り除かれなければならない。…神の働きはいつも新しく古いものは何ひとつなく、規定を形成することも一切なく、むしろ、継続的により大きい範囲で変化したり小さい範囲で変化したりして、新しくなっている。この働きは神自身の本来の性質の表れである。それはまた神の働きの本来の原則でもあり、神が自身の経営を成し遂げる手段の一つである。もし神がこの方法で働かないとしたら、人は変わらず、神を知ることもできず、サタンに打ち勝つこともないだろう。よって、神の働きのうちに一貫性のないように見える変化は継続して起きるが、それは実は周期的なものである。しかしながら、人が神を信じる方法は全く異なり、古い、親しみのある教えや制度にしがみつき、より古いものを心地よく感じる。石のように頑固で愚かな人の考えが、どのようにして神の計り知れない新しい働きと言葉を受け入れることができようか。…神は自身の働きを、古いものや死んだものではなく、常に新しく生き生きとしたものとしたいと考えている。人が拠りどころとすべきものとして神が与えたものは、時代や期間に合わせて分かれているもので、永遠に続くものや不変のものではない。彼は人を生かし新たにさせる神であり、人を死に至らせ古くする悪魔ではないからである。あなたがたはまだこれが分からないか。あなたは心を閉ざしているので、神について持っている観念を手放すことができない。神の働きが理不尽だからでも、非人道的だからでもなく、無論神がいつも「自分の義務に怠慢」だからなどでもない。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知る人々のみ神に仕えることができる」より</p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く (後半)]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7572526/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7572526</id><summary><![CDATA[一旦サタンが打ち負かされると、すなわち、一旦人が完全に征服されると、人はこのすべての働きは救いのためであり、この救いの方法はサタンの手から人を取り戻すためにあることを理解するだろう。神の経営の六千年の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代と3段階に分かれている。これら3段階の働きはすべて人の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落していた人類の救いのためである。しかし、それと同時に、神がサタンと戦うためでもある。そのため、救いの働きだけでも、3段階に分かれており、サタンとの戦いも3段階に分かれ、神の働きの2つの側面は同時に行われることになる。サタンとの戦いは実際人類の救いのためであり、そして人類の救いの働きは一つの段階で完了できるものではないから、サタンとの戦いは段階と期間に分けられている。そして戦いは人の必要性とサタンの人への堕落の大きさに一致してサタンに対して遂行される。おそらく人は、2つの軍が戦い合うように、神がサタンに向かって武器を取って戦うのだろうと考えている。人の知恵はこれくらいしか想像することができない。それはこの上なくあいまいで、非現実的な考えであるが、それが人の信じることである。そして、人の救いの方法はサタンとの戦いを通してなされるとわたしがこうして言うので、人はこれこそ戦いが行なわれる方法だと想像する。人の救いの働きは3段階で実行される。すなわちサタンとの戦いはサタンが完全に滅びる前に3段階に分割されるということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きの内なる真実は、人に恵みを施し、人の罪のいけにえとなり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器で立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神の証し人となることである。サタンはこのようにして滅びるのである。人の堕落した性質を変えることを通してサタンは打ち負かされる。サタンが敗北する、つまり人が完全に救われると、それから辱めを受けたサタンは完全に縛られる。こうして人は完全に救われる。そして、人の救いの実体はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いの反映である。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、またサタンの領域からの人の完全なる救いの働きでもある。人の征服の内なる意味はサタンの化身の帰還、つまりサタンに堕落させられた人が征服に引き続いて造り主に戻ることで、これにより人はサタンを見捨て、完全に神に戻る。このようにして、人は完全に救われるだろう。このように、征服の働きはサタンとの戦いにおいて最後の働きで、サタン敗北のための神の経営における最終段階である。この働きがなくては、人の完璧な救いは究極的には不可能で、サタンの完全敗北もまた不可能であろう。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることはできず、サタンの影響から自由になることもできないだろう。従って、人の救いの働きはサタンとの戦いが終結する前に終えることはできない。というのは神の経営の働きの核心は人の救いであるからである。最初の人類は神の手にあったが、サタンの誘惑と堕落から、人はサタンに縛られ、悪の手に落ちてしまった。そうしてサタンは、神の経営の働きの中で打ち負かす対象となった。サタンは人を自分の所有物とし、人は神の全経営物なので、人が救われるにはサタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、サタンの捕虜となった人が連れ戻されなければならないのである。サタンは人の古い性質が変えられ、本来の理知を回復することで打ち負かされ、この様にして、捕虜となっていた人はサタンの手から取り戻される。もし人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンの面目がつぶされ、人は最終的には連れ戻され、サタンは敗北する。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、人類の救いのすべての働きが完了した後、人はこのすべての戦いの戦利品となり、サタンはこの戦いが終わると懲罰の対象となる。神は被造物に対して悪意はなく、サタンを負かすことだけを願っている。神の働きのすべては――それが刑罰であろうと裁きであろうと――サタンに向けられている。それは人類の救いのために実行され、すべてサタンを負かすためであり、目的はひとつである。それはサタンと最後まで戦うことである。そして神はサタンに勝利するまで、決して休むことはない。神はサタンを負かして初めて休息する。神によってなされるすべての働きはサタンに向けられており、サタンに堕落させられた人たちはすべてサタンの領域で管理され、すべてサタンの領域で生きているため、もし神がサタンと戦うか、もしくはサタンを断ち切らなければ、サタンはその人たちの掌握をゆるめないだろうし、彼らは神のものとされないだろう。もし彼らが、神のものとされなかったら、それはサタンは打ち負かされておらず、征服されていないとことを証明する。そして、神の六千年の経営計画の最初の段階で、神は律法の働きをし、第2段階で恵みの時代の働き、すなわち、十字架の働きをし、第3段階で、神は人類征服の働きをした。このすべての働きはサタンが人類を堕落させた程度に仕向けられており、それはすべてサタンを負かすためであり、サタンを負かすためではない段階は一つもない。神の経営の六千年の働きは実質大きい赤い竜に対する戦いであり、人類を救う働きもまたサタンを負かす働きであり、サタンと戦いをする働きである。神は六千年も戦い、この様にして、人を最終的に新しい領域に連れて行くため六千年も働いてきた。サタンが打ち負かされると、人は完全に自由になる。これこそ今日の神の働きの方向ではないだろうか。これこそ正に今日の働きの方向である。つまり人を完全に自由にし、解放することである。その結果、人はどんな規則の下にもなく、どんな束縛や抑制もなくなる。この働きのすべてはあなたがたの背丈とあなたがたの必要性に即してなされる。つまり、あなたがたが達成できる物が提供される。それは「アヒルを追いやって止まり木に止まらせる」というような、能力以上のことを強制するものではない。そうではなく、このすべての働きはあなたがたの実際の必要性と一致して実行されるのである。それぞれの段階は人の実際の必要性や必要と一致しており、サタンを打ち負かすためである。実際、初めは造り主と創造物との間に壁はなかった。それらはすべてサタンが引き起こしたのである。人はサタンの妨害と堕落の故に何も見えず、触ることもできなくなった。人は犠牲者で、欺かれた者である。サタンが敗北すると、被造物は造り主を見上げ、造り主は被造物に目を注ぎ、彼らを一人一人導くことができる。人が地上で送るべき生活はこれだけである。そして、神の主な働きはサタンを負かすことで、サタンが敗北すると、すべてが解決される。今日、あなたは、神が人々の間に来たことが特別なことであることを知っただろう。神はあなたがたの欠点を毎日見つけるために来たのでもなく、自らの容貌、話し方、生き方を見せるために来たのでもない。神が肉となったのは、単にあなたがたが神を見上げるようになるためでも、あなたがたの目を開くためでも、自らが語る奥義や自らが開いた七つの封印に関して聞くことができるようになるためでもない。むしろ、神はサタンを負かすために肉となったのである。神は人を救うために、またサタンと戦うために、肉体を持ち自ら人の所に来た。そしてこれこそ受肉の意義である。もしそれがサタンを負かすためでなかったなら、神は自らこのような働きをしないだろう。神は人々の間で自らの働きをするため、人に自らを顕すため、そして人が神を見上げることができるようになるため、地上に来た。これはささいなことだろうか。これは実に素晴らしいことだ。神が来たのは人が想像するのとは違い、人が神を見上げ、神は漠然としてあいまいな存在ではなく本物で、高尚だけれどへりくだっていることを人が理解するために来たのではない。それほど単純なことだろうか。正確には、サタンが人の肉体を堕落させ、神が救おうとしているのは正に人間なので、神は肉となってサタンと戦い、自ら人を牧養しなければならない。これは神の働きにのみ有益である。二度肉となった神はサタンを打ち負かすために存在し、より良く人を救うために存在した。それが神の霊であっても、人となった神であっても、サタンと戦っている者は神でしかあり得ないからである。要するに、サタンと戦っている者は天使のはずはなく、ましてやサタンに堕落させられた人間であるはずはない。天使にそのような力はなく、人間はもっと無能である。そのように、もし神が人のいのちに働くことを望むなら、もし神は人に働くために自ら地上に来ることを望むなら、神は自ら肉体を取り、つまり、神は自ら人となり、神の本来の身分と神がしなければならない働きをもって、人を救うために自ら人の中に来ることである。もしそうでなければ、もしこの働きをしたのが神の霊か、人間であったなら、この戦いは永遠にその効果を成し遂げることはないだろうし、決して終わることもないだろう。神が肉となり、人の間で自らサタンに戦いを挑むことでのみ、人に救いのチャンスがあるのである。さらに、その時初めてサタンは辱められ、付け込む機会も、実行する計画も何もないまま取り残されるだろう。人となった神によってなされた働きは、神の霊によって成し遂げることは不可能であり、神の代わりに肉体を持った人によって成し遂げることはもっと不可能である。というのは、神がする働きは人のいのちのためであり、人の堕落した性質を変えるためであるからだ。人がこの戦いに加わるとしたら、痛ましい混乱からただ逃げるだけで、人の堕落した性質を変えることは単純に不可能であろう。人が十字架から人を救ったり、反抗的な人間すべてを征服したりするのは不可能で、原理に沿って古い働きを少しするか、サタンの敗北とは関係のない他の働きをすることが可能なだけである。それならなぜ敢えてそのようなことを考えるのか。人間を神のものとすることができず、ましてやサタンを敗北させることのできない働きの意味は何か。サタンとの戦いは神自らによってのみ実施され、人がするのは単に不可能である。人の本分は服従して従うことである。人は新しい時代を開く働きもできなければ、サタンと戦う働きをすることもできないからだ。人はただ神自らの指導の下で、造り主を満足させることができるだけで、それを通して、サタンは打ち負かされるのである。これは人ができる唯一のことである。そして、新しい戦いが始まるたびに、すなわち、新しい時代の働きが始まるたびに、この働きは神自らによってなされ、それを通して、神は時代全体を導き、全人類に新しい道を開く。新しい時代の夜明けはサタンとの戦いの新しい始まりで、それを通して、人は神自らが導くもっと新しく、もっと美しい領域と新しい時代に入る。人はすべての物の支配者だが、神のものとされた人たちはサタンとの戦いの実となるであろう。サタンはすべての物の破壊者で、すべての戦いの終わりの敗北者で、またこれらの戦いに続いて懲罰される者である。神、人、サタンの中で、サタンだけが忌み嫌われ拒絶される者である。その一方で、サタンのものにされ、神に取り戻されない人たちは、サタンに代わって懲罰を受ける者たちである。これら三者の中で、神だけがすべての物に礼拝されるべきである。一方サタンに堕落させられたが、神によって連れ戻され、神の道に従う人たちは、神の約束を受け、神にとって邪悪な者たちを裁く者たちになる。神は確かに勝利し、サタンは確かに敗北するが、人々の中には、勝利する者と敗北する者がいる。勝利する者たちは「勝利者」に属し、敗北する者たちは敗北者に属する。これは種類によるそれぞれの分類で、神のすべての働きの最終結果であり、神の働きの目的でもあり、そしてそれは決して変わることはない。神の経営計画の主な働きの核心は、人の救いに焦点が置かれている。そして、この核心のために、この働きのために、そしてサタンを打ち負かすために、神は肉となった。はじめて神が肉となったのも、サタンを打ち負かすためであった。神は最初の戦いの働きを完成させるために、自ら、肉となり、自ら十字架に釘づけにされたが、それは人類の贖いの働きであった。同じように、この段階の働きも神が自ら肉となり、人の間で働き、自ら言葉を語り、人が神に会うことを許した。もちろん、その働きの途中で他の働きもすることは避けられないが、神が自らその働きを実践する主な理由はサタンを打ち負かすことであり、全人類を征服することであり、これらの人たちを自らのものとすることである。だから、神の肉による働きは、真に重要である。もし神の目的が、神はへりくだって隠しており、神が実在することを人に示すだけであったら、もしそれだけのためであったら、神が肉となる必要はなかっただろう。たとえ神は肉とならなかったとしても、神は自らがへりくだり、隠していること、そして自らの偉大さと聖さを人間に直接顕かにすることができただろう。しかしそのようなものは人類を経営する働きとは何の関係もない。それらによって人を救ったり、人を完全にしたりすることは不可能で、ましてやサタンを打ち負かすことなどできない。もしサタンの敗北が霊と霊との戦いだけを含むなら、そのような働きは実際の価値はさらに少ないだろう。人を神のものとすることは不可能で、人の宿命や将来性を駄目にするだろう。そのように、今日の神の働きには深い意義がある。それは人が神を見ることができたり、人の目が開かれたり、人にもう少し感動と励ましを与えたりするためではない。そのような働きは意味がない。もしあなたがこの種の認識を語ることしかできないなら、それはあなたが神の受肉の真の意義を分かっていないことの証明である。神の経営計画の働き全ては神自身が自らする。第1段階、世界の創造は神自身が自ら行った。そして、もしそれがなされなかったなら、誰も人類を創造することはできなかっただろう。第2段階は、全人類の贖いであり、それもまた神自身が自ら行った。第3段階は言うまでもない。神のすべての働きの終結のために、神が自ら、更に働かなくてはならない。すべての人間を贖い、征服し、神のものとし、完全にする働きはすべて神自身が自ら実行する。もし神がこの働きを自ら行わないなら、神の身分は人によって表されることはできないし、神の働きも人によってなされることはない。サタンを打ち負かすために、人類を神のものとするために、そして、地上で普通の生活を人に与えるために、神は自ら人を導き、人の間で働く。神の経営計画のために、そして、すべての働きのために、神は自らこの仕事をしなければならない。もし人が、神が来たのは人が神を見るためで、人を幸福にするためであるとしか信じていないなら、そのような信念は価値がなく、何の意味もないだろう。人の認識はあまりにもうわべだけである。神自らによって実行されて初めて、この働きは完璧に完了されるのである。人は神の代わりにそれをすることはできない。人は神の身分も本質も持っていないので、神の働きをすることは不可能である。たとえ人がしたとしても、何ら効果はないだろう。初め神が肉となったのは贖いのためであった。すべての人間の罪を贖い、清められ、罪が赦されることを可能にするためであった。征服の働きも神が人の中で自らする。もし、この段階で、神が預言しか語らないのであれば、預言者か、誰か賜物のある人を見つけて、神の代わりをしてもらうこともできよう。もし、預言しか語らないなら、人は神の代役を務めることもできよう。しかし、もし人が神自身の働きを自ら務め、人のいのちに働くということになれば、この働きをするのは不可能であろう。それは神自らによって直接されなければならない。神はこの働きをするために自ら人とならなければならない。言葉の時代に、もし預言しか語られないなら、この働きのために預言者イザヤかエリヤを見つけてくればよいし、神自身が自らそれをする必要はないだろう。この段階でなされる働きはただ預言を語るだけではなく、更に重要な、人を征服し、サタンを打ち負かすために用いられる言葉の働きなので、この働きは人ではなく、神自身によって自らなされなければならない。律法の時代にヤーウェは神の働きの一部を行い、その後、預言者を通して神が言葉を語り、ある働きをした。これは人がヤーウェの働きの代役を務めることができ、預言者は物事を予言し、神に代わって夢を解き明かすことができるからである。初めになされた働きは人の性質を直接変える働きではなく、人の罪とも関係なく、人は律法を守ることだけを要求されていた。だから、ヤーウェは肉となって自らを人に顕すことをしなかった。そして、ヤーウェはモーセや他の人たちに直接語り、ヤーウェの代わりに彼らに語らせ、働かせ、人々の間で彼らが直接働くようにしたのである。神の働きの第1段階は人を指導することであった。それがサタンとの戦いの始まりだったが、この戦いはまだ正式には始まっていなかった。サタンとの正式な戦いは神の最初の受肉とともに始まり、そして、それは今日に至るまでずっと続いてきた。この戦いの最初の出来事は、人となった神が十字架に釘づけされた事である。人となった神の十字架はサタンを打ち負かし、それが戦いの最初の成功段階であった。人となった神が人のいのちに直接働き始めるとき、これこそ人を再び神のものとする働きの正式な始まりで、これは人の古い性質を変える働きなので、サタンとの戦いをする働きである。ヤーウェによってなされる最初の段階の働きは、地上の人の生活の指導だけだった。それは神の働きの始まりで、まだいかなる戦いもいかなる大きな働きも関与していなかったが、これから来る戦いの働きの基盤を築いた。その後、恵みの時代の働きの第2段階には、人の古い性質を変えることが含まれるが、それは神自らが人のいのちに働いたことを意味している。これは神自らが行わなければならなかった。それは神が自ら肉となることを必要とし、もし神が肉とならなかったなら、誰ひとりこの段階の働きで神に代わることはできなかった。というのは、それはサタンと直接戦う働きを表していたからである。もし、人が神に代わってこの働きをしたとしたら、人がサタンの前に立った時、サタンは服従することはなかっただろうし、サタンを打ち負かすことは不可能だったろう。サタンを打ち倒すのは、受肉した神でなければならなかった。受肉した神の本質は依然として神であり、依然として人のいのちであり、依然として造り主であるからである。何が起ころうとも、神の身分と本質は変わらないのである。そして、神は肉体を取り、サタンに完全服従させるために働きをした。終わりの日の働きの段階で、人がこの働きをし、言葉を直接語ることを強いられるなら、人はそれらを直接語ることはできないだろう。そして、もし預言が語られるなら、人を征服することは不可能であろう。神は肉体を取り、サタンを打ち負かし、完全服従させるために来る。神は完全にサタンを敗北させ、完全に人を征服し、完全に人を神のものとすると、この段階の働きが完了し、働きが成功する。神の経営において、人は神の代役を務めることはできない。特に、時代を導き、新しい働きを始めることは、神自身が自らする必要がある。人に啓示を与えたり、預言を与えたりすることは人によってなされることも可能だが、もしそれが、神自らがしなければならない働きで、神自らとサタンとの戦いの働きなら、これは人によってなされることはできない。働きの第1段階で、サタンとの戦いがないときは、ヤーウェは預言者たちによって語られた預言を用いて自らイスラエルの民を導いていった。その後、第2段階はサタンとの戦いであり、この働きをするために、神自らは肉体を取り、自ら人となった。サタンとの戦いが関与することもまた、すべて神の受肉が関与する。この戦いは人が行うことはできないのである。もし人が戦うことになれば、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。人はサタンの支配下にありながら、どのように戦うための力を持つことなどできようか。人は真ん中にいる。もしあなたがサタンの方に傾くなら、あなたはサタンに属し、あなたが神を満足させるなら、あなたは神に属す。この戦いの働きを神に代わって人が務めるとなったら、人はそれを成し遂げることができるだろうか。もしそれをしていたら、人はとうの昔に滅びてはいなかったろうか。人は黄泉の国にとうの昔に入ってはいなかったろうか。このように、人は神に代わってその働きをすることはできない。すなわち、人は神の本質を所有しておらず、もし人がサタンと戦うなら、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。人ができることはそれほど多くない。ある人たちを説得して引き入れることはできるが、神自らの働きにおいて神の代役を務めることはできない。人はどうしてサタンと戦うことなどできようか。サタンはあなたが戦い始める前に、あなたを捕虜にするだろう。神自らのみがサタンと戦うことができ、これに基づいて、人は神に従い服従することができる。この方法でのみ、人は神のものとされ、サタンの束縛から逃れることができる。人が自分自身の知恵、権威、能力で達成できることは、あまりにも限られている。人間には人を完全にし、導き、さらにサタンを打ち負かすことなど不可能である。人の知能と知恵はサタンの計画を妨害することはできない。それなら、人がサタンとなど戦うことができようか。進んで完全にされたいと思う人たちなら誰でも、完全にされる機会がある。だから皆リラックスしていなければならない。将来、あなたがたはみな終着点に入るだろう。しかし、もしあなたが進んで完全にされようとせず、素晴らしい領域に入ることを願わないなら、それはあなた自身の問題である。喜んで完全にされようとし、神に忠実である人たちすべて、服従する人たちすべて、そして自分の役目を忠実に成し遂げる人たちのすべて――そのような人たちはすべて完全にされることができる。今日、自分の本分を忠実に果たさない人たちすべて、神に忠実でない人たちすべて、神に服従しない人たちのすべて、とりわけ聖霊の啓示と光を受けたが、それを実践しなかった人たち――そのような人たちは完全にされることはできない。神に喜んで忠実に従う人たちは誰でも、たとえ彼らが多少無知であっても、完全にされることができる。喜んで求めている人たちはすべて完全にされることができる。これを心配する必要はない。あなたがこの方向で進んで追求している限り、あなたは完全にされることができる。わたしはあなたがたの中でこの様な人たちのひとりでも進んで見捨てたり、排除したりすることは願わないが、もし人が一生懸命努力しないなら、あなたは自分自身を破滅させているだけである。あなたを排除するのはわたしではなく、あなた自身である。もしあなた自身が一生懸命努力しないなら――もしあなたが怠慢で、自分たちの本分を果たさなかったり、忠実でなかったり、真理を追求しなかったり、お金を使ったり性的密事にふけったりして好きなようにいつもふるまっているなら、あなたは自分自身を罪に定めており、誰の同情も得る価値はない。わたしの目的は、あなたがたがみな完全にされることで、少なくても征服され、この働きの段階は成功をもって終えることである。神の願いは一人ひとりがみな完全にされ、最終的に神のものとされ、神によって完全に清められ、神に愛される者となることである。あなたがたは進歩がおそく、才幹に劣ってるとわたしが言おうと問題はない――これはすべて事実である。わたしが言っていることは、わたしがあなたを見捨てるつもりであり、あなたがたに望みを失い、ましてやあなたがたを救いたいとは思っていないことの証明などではない。今日、わたしはあなたがたの救いの働きのために来ており、すなわち、わたしがする働きは、救いの働きの続きである。すべての人は完全にされる機会が与えられている。あなたが喜んで受け入れるなら、あなたが求めるなら、最後には、その効果を達成でき、誰一人見捨てられることはないだろう。もしあなたの力量が乏しければ、わたしはその力量にあったことをあなたに要求する。もしあなたの力量が豊かならば、わたしはその豊かな力量に合ったことをあなたに要求する。もしあなたが無知で無学なら、わたしはあなたの無学に合ったことを要求する。もしあなたに教養があるなら、わたしはあなたの教養に合ったことを要求する。もしあなたが高齢なら、わたしはあなたの年齢に合ったことを要求する。もしあなたが人をもてなすことができるなら、わたしはそれに合ったことを要求する。もしあなたが人をもてなすことはできず、特定の役割しか果たせないと言うのなら、それが福音を伝えることであれ、教会の手入れであれ、そのほか一般的なことであれ、あなたがするそれらの事を通して、わたしはあなたを完全にする働きをする。忠実であること、最後まで従うこと、神への崇高な愛を求めること――これこそあなたが達成しなければならないことで、この3つよりすぐれたものは何もない。究極的には、人はこれら3つの事を成し遂げることを要求されている。そして、もし人がそれらを達成できるなら、その人は完全にされるだろう。しかしまず、あなたは真剣に追い求め、消極的になるのではなく、積極的に前に進み続けなければならない。あらゆる人は完全にされる機会があり、完全にされることが出来るとわたしは既に言った。これは重要だが、あなたは一生懸命追求していない。もしあなたがこれら3つの基準を満たすことができないなら、あなたは最後には排除されなければならない。わたしはすべての人が追い付いて、すべての人が聖霊の働きと導きおよび示しを得、最後まで従うことができることを望んでいる。なぜなら、これはあなたがた一人ひとりがなすべき本分であるからだ。あなたがたが本分を全て果たし終えたとき、あなたがたはみな完全にされ、また素晴らしい証しを持つことだろう。証しを持つすべての人たちはサタンに勝利し、神の約束を手に入れた人たちで、そして彼らは素晴らしい終着点で生き残る人たちである。]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-10T12:31:58+00:00</published><updated>2020-01-10T12:31:59+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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		<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/recital-kingdom-selection-076-2.html">
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			<small><b>人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く   (後半) | 神の国降臨の福音</b></small>
			<br>
			<small>一旦サタンが打ち負かされると、すなわち、一旦人が完全に征服されると、人はこのすべての働きは救いのためであり、この救いの方法はサタンの手から人を取り戻すためにあることを理解するだろう。神の経営の六千年の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代と3段階に分かれている。これら3段階の働きはすべて人の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落していた人類の救いのためである。しかし、それと同時に、神がサタンと戦うためでもある。そのため、救いの働きだけでも、3段階に分かれており、サタンとの戦いも3段階に分かれ、神の働きの2つの側面は同時に行われることになる。サタンとの戦いは実際人類の救いのためであり、そして人類の救いの働きは一つの段階で完了できるものではないから、サタンとの戦いは段階と期間に分けられている。そして戦いは人の必要性とサタンの人への堕落の大きさに一致してサタンに対して遂行される。おそらく人は、2つの軍が戦い合うように、神がサタンに向かって武器を取って戦うのだろうと考えている。人の知恵はこれくらいしか想像することができない。それはこの上なくあいまいで、非現実的な考えであるが、それが人の信じることである。そして、人の救いの方法はサタンとの戦いを通してなされるとわたしがこうして言うので、人はこれこそ戦いが行なわれる方法だと想像する。人の救いの働きは3段階で実行される。すなわちサタンとの戦いはサタンが完全に滅びる前に3段階に分割されるということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きの内なる真実は、人に恵みを施し、人の罪のいけにえとなり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器で立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神の証し人となることである。サタンはこのようにして滅びるのである。人の堕落した性質を変えることを通してサタンは打ち負かされる。サタンが敗北する、つまり人が完全に救われると、それから辱めを受けたサタンは完全に縛られる。こうして人は完全に救われる。そして、人の救いの実体はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いの反映である。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階で</small>
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			<p>一旦サタンが打ち負かされると、すなわち、一旦人が完全に征服されると、人はこのすべての働きは救いのためであり、この救いの方法はサタンの手から人を取り戻すためにあることを理解するだろう。神の経営の六千年の働きは、律法の時代、恵みの時代、<a href="https://jp.kingdomsalvation.org" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の国</b></a>の時代と3段階に分かれている。これら3段階の働きはすべて人の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落していた人類の救いのためである。しかし、それと同時に、神がサタンと戦うためでもある。そのため、救いの働きだけでも、3段階に分かれており、サタンとの戦いも3段階に分かれ、神の働きの2つの側面は同時に行われることになる。サタンとの戦いは実際人類の救いのためであり、そして人類の救いの働きは一つの段階で完了できるものではないから、サタンとの戦いは段階と期間に分けられている。そして戦いは人の必要性とサタンの人への堕落の大きさに一致してサタンに対して遂行される。おそらく人は、2つの軍が戦い合うように、神がサタンに向かって武器を取って戦うのだろうと考えている。人の知恵はこれくらいしか想像することができない。それはこの上なくあいまいで、非現実的な考えであるが、それが人の信じることである。そして、人の救いの方法はサタンとの戦いを通してなされるとわたしがこうして言うので、人はこれこそ戦いが行なわれる方法だと想像する。人の救いの働きは3段階で実行される。すなわちサタンとの戦いはサタンが完全に滅びる前に3段階に分割されるということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きの内なる真実は、人に恵みを施し、人の罪のいけにえとなり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器で立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神の<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/testimonies.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>証し</b></a>人となることである。サタンはこのようにして滅びるのである。人の堕落した性質を変えることを通してサタンは打ち負かされる。サタンが敗北する、つまり人が完全に救われると、それから辱めを受けたサタンは完全に縛られる。こうして人は完全に救われる。そして、人の救いの実体はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いの反映である。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、またサタンの領域からの人の完全なる救いの働きでもある。人の征服の内なる意味はサタンの化身の帰還、つまりサタンに堕落させられた人が征服に引き続いて造り主に戻ることで、これにより人はサタンを見捨て、完全に神に戻る。このようにして、人は完全に救われるだろう。このように、征服の働きはサタンとの戦いにおいて最後の働きで、サタン敗北のための神の経営における最終段階である。この働きがなくては、人の完璧な救いは究極的には不可能で、サタンの完全敗北もまた不可能であろう。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることはできず、サタンの影響から自由になることもできないだろう。従って、人の救いの働きはサタンとの戦いが終結する前に終えることはできない。というのは神の経営の働きの核心は人の救いであるからである。最初の人類は神の手にあったが、サタンの誘惑と堕落から、人はサタンに縛られ、悪の手に落ちてしまった。そうしてサタンは、神の経営の働きの中で打ち負かす対象となった。サタンは人を自分の所有物とし、人は神の全経営物なので、人が救われるにはサタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、サタンの捕虜となった人が連れ戻されなければならないのである。サタンは人の古い性質が変えられ、本来の理知を回復することで打ち負かされ、この様にして、捕虜となっていた人はサタンの手から取り戻される。もし人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンの面目がつぶされ、人は最終的には連れ戻され、サタンは敗北する。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、人類の救いのすべての働きが完了した後、人はこのすべての戦いの戦利品となり、サタンはこの戦いが終わると懲罰の対象となる。</p><p>神は<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/god-is-the-lord-of-all-creation-selections.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>被造物</b></a>に対して悪意はなく、サタンを負かすことだけを願っている。神の働きのすべては――それが刑罰であろうと裁きであろうと――サタンに向けられている。それは人類の救いのために実行され、すべてサタンを負かすためであり、目的はひとつである。それはサタンと最後まで戦うことである。そして神はサタンに勝利するまで、決して休むことはない。神はサタンを負かして初めて休息する。神によってなされるすべての働きはサタンに向けられており、サタンに堕落させられた人たちはすべてサタンの領域で管理され、すべてサタンの領域で生きているため、もし神がサタンと戦うか、もしくはサタンを断ち切らなければ、サタンはその人たちの掌握をゆるめないだろうし、彼らは神のものとされないだろう。もし彼らが、神のものとされなかったら、それはサタンは打ち負かされておらず、征服されていないとことを証明する。そして、神の六千年の経営計画の最初の段階で、神は律法の働きをし、第2段階で恵みの時代の働き、すなわち、十字架の働きをし、第3段階で、神は人類征服の働きをした。このすべての働きはサタンが人類を堕落させた程度に仕向けられており、それはすべてサタンを負かすためであり、サタンを負かすためではない段階は一つもない。神の経営の六千年の働きは実質大きい赤い竜に対する戦いであり、人類を<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/special-topic/three-stages-of-work/index.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救う</b></a>働きもまたサタンを負かす働きであり、サタンと戦いをする働きである。神は六千年も戦い、この様にして、人を最終的に新しい領域に連れて行くため六千年も働いてきた。サタンが打ち負かされると、人は完全に自由になる。これこそ今日の神の働きの方向ではないだろうか。これこそ正に今日の働きの方向である。つまり人を完全に自由にし、解放することである。その結果、人はどんな規則の下にもなく、どんな束縛や抑制もなくなる。この働きのすべてはあなたがたの背丈とあなたがたの必要性に即してなされる。つまり、あなたがたが達成できる物が提供される。それは「アヒルを追いやって止まり木に止まらせる」というような、能力以上のことを強制するものではない。そうではなく、このすべての働きはあなたがたの実際の必要性と一致して実行されるのである。それぞれの段階は人の実際の必要性や必要と一致しており、サタンを打ち負かすためである。実際、初めは造り主と創造物との間に壁はなかった。それらはすべてサタンが引き起こしたのである。人はサタンの妨害と堕落の故に何も見えず、触ることもできなくなった。人は犠牲者で、欺かれた者である。サタンが敗北すると、被造物は造り主を見上げ、造り主は被造物に目を注ぎ、彼らを一人一人導くことができる。人が地上で送るべき生活はこれだけである。そして、神の主な働きはサタンを負かすことで、サタンが敗北すると、すべてが解決される。今日、あなたは、神が人々の間に来たことが特別なことであることを知っただろう。神はあなたがたの欠点を毎日見つけるために来たのでもなく、自らの容貌、話し方、生き方を見せるために来たのでもない。神が肉となったのは、単にあなたがたが神を見上げるようになるためでも、あなたがたの目を開くためでも、自らが語る奥義や自らが開いた七つの封印に関して聞くことができるようになるためでもない。むしろ、神はサタンを負かすために肉となったのである。神は人を救うために、またサタンと戦うために、肉体を持ち自ら人の所に来た。そしてこれこそ受肉の意義である。もしそれがサタンを負かすためでなかったなら、神は自らこのような働きをしないだろう。神は人々の間で自らの働きをするため、人に自らを顕すため、そして人が神を見上げることができるようになるため、地上に来た。これはささいなことだろうか。これは実に素晴らしいことだ。神が来たのは人が想像するのとは違い、人が神を見上げ、神は漠然としてあいまいな存在ではなく本物で、高尚だけれどへりくだっていることを人が理解するために来たのではない。それほど単純なことだろうか。正確には、サタンが人の肉体を堕落させ、神が救おうとしているのは正に人間なので、神は肉となってサタンと戦い、自ら人を牧養しなければならない。これは神の働きにのみ有益である。二度肉となった神はサタンを打ち負かすために存在し、より良く人を救うために存在した。それが神の霊であっても、人となった神であっても、サタンと戦っている者は神でしかあり得ないからである。要するに、サタンと戦っている者は天使のはずはなく、ましてやサタンに堕落させられた人間であるはずはない。天使にそのような力はなく、人間はもっと無能である。そのように、もし神が人のいのちに働くことを望むなら、もし神は人に働くために自ら地上に来ることを望むなら、神は自ら肉体を取り、つまり、神は自ら人となり、神の本来の身分と神がしなければならない働きをもって、人を救うために自ら人の中に来ることである。もしそうでなければ、もしこの働きをしたのが神の霊か、人間であったなら、この戦いは永遠にその効果を成し遂げることはないだろうし、決して終わることもないだろう。神が肉となり、人の間で自らサタンに戦いを挑むことでのみ、人に救いのチャンスがあるのである。さらに、その時初めてサタンは辱められ、付け込む機会も、実行する計画も何もないまま取り残されるだろう。人となった神によってなされた働きは、神の霊によって成し遂げることは不可能であり、神の代わりに肉体を持った人によって成し遂げることはもっと不可能である。というのは、神がする働きは人のいのちのためであり、人の堕落した性質を変えるためであるからだ。人がこの戦いに加わるとしたら、痛ましい混乱からただ逃げるだけで、人の堕落した性質を変えることは単純に不可能であろう。人が十字架から人を救ったり、反抗的な人間すべてを征服したりするのは不可能で、原理に沿って古い働きを少しするか、サタンの敗北とは関係のない他の働きをすることが可能なだけである。それならなぜ敢えてそのようなことを考えるのか。人間を神のものとすることができず、ましてやサタンを敗北させることのできない働きの意味は何か。サタンとの戦いは神自らによってのみ実施され、人がするのは単に不可能である。人の本分は服従して従うことである。人は新しい時代を開く働きもできなければ、サタンと戦う働きをすることもできないからだ。人はただ神自らの指導の下で、造り主を満足させることができるだけで、それを通して、サタンは打ち負かされるのである。これは人ができる唯一のことである。そして、新しい戦いが始まるたびに、すなわち、新しい時代の働きが始まるたびに、この働きは神自らによってなされ、それを通して、神は時代全体を導き、全人類に新しい道を開く。新しい時代の夜明けはサタンとの戦いの新しい始まりで、それを通して、人は神自らが導くもっと新しく、もっと美しい領域と新しい時代に入る。人はすべての物の支配者だが、神のものとされた人たちはサタンとの戦いの実となるであろう。サタンはすべての物の破壊者で、すべての戦いの終わりの敗北者で、またこれらの戦いに続いて懲罰される者である。神、人、サタンの中で、サタンだけが忌み嫌われ拒絶される者である。その一方で、サタンのものにされ、神に取り戻されない人たちは、サタンに代わって懲罰を受ける者たちである。これら三者の中で、神だけがすべての物に礼拝されるべきである。一方サタンに堕落させられたが、神によって連れ戻され、神の道に従う人たちは、神の約束を受け、神にとって邪悪な者たちを裁く者たちになる。神は確かに勝利し、サタンは確かに敗北するが、人々の中には、勝利する者と敗北する者がいる。勝利する者たちは「勝利者」に属し、敗北する者たちは敗北者に属する。これは種類によるそれぞれの分類で、神のすべての働きの最終結果であり、神の働きの目的でもあり、そしてそれは決して変わることはない。神の経営計画の主な働きの核心は、人の救いに焦点が置かれている。そして、この核心のために、この働きのために、そしてサタンを打ち負かすために、神は肉となった。はじめて神が肉となったのも、サタンを打ち負かすためであった。神は最初の戦いの働きを完成させるために、自ら、肉となり、自ら十字架に釘づけにされたが、それは人類の贖いの働きであった。同じように、この段階の働きも神が自ら肉となり、人の間で働き、自ら言葉を語り、人が神に会うことを許した。もちろん、その働きの途中で他の働きもすることは避けられないが、神が自らその働きを実践する主な理由はサタンを打ち負かすことであり、全人類を征服することであり、これらの人たちを自らのものとすることである。だから、神の肉による働きは、真に重要である。もし神の目的が、神はへりくだって隠しており、神が実在することを人に示すだけであったら、もしそれだけのためであったら、神が肉となる必要はなかっただろう。たとえ神は肉とならなかったとしても、神は自らがへりくだり、隠していること、そして自らの偉大さと聖さを人間に直接顕かにすることができただろう。しかしそのようなものは人類を経営する働きとは何の関係もない。それらによって人を救ったり、人を完全にしたりすることは不可能で、ましてやサタンを打ち負かすことなどできない。もしサタンの敗北が霊と霊との戦いだけを含むなら、そのような働きは実際の価値はさらに少ないだろう。人を神のものとすることは不可能で、人の宿命や将来性を駄目にするだろう。そのように、今日の神の働きには深い意義がある。それは人が神を見ることができたり、人の目が開かれたり、人にもう少し感動と励ましを与えたりするためではない。そのような働きは意味がない。もしあなたがこの種の認識を語ることしかできないなら、それはあなたが神の受肉の真の意義を分かっていないことの証明である。</p><p>神の経営計画の働き全ては神自身が自らする。第1段階、世界の創造は神自身が自ら行った。そして、もしそれがなされなかったなら、誰も人類を創造することはできなかっただろう。第2段階は、全人類の贖いであり、それもまた神自身が自ら行った。第3段階は言うまでもない。神のすべての働きの終結のために、神が自ら、更に働かなくてはならない。すべての人間を贖い、征服し、神のものとし、完全にする働きはすべて神自身が自ら実行する。もし神がこの働きを自ら行わないなら、神の身分は人によって表されることはできないし、神の働きも人によってなされることはない。サタンを打ち負かすために、人類を神のものとするために、そして、地上で普通の生活を人に与えるために、神は自ら人を導き、人の間で働く。神の経営計画のために、そして、すべての働きのために、神は自らこの仕事をしなければならない。もし人が、神が来たのは人が神を見るためで、人を幸福にするためであるとしか信じていないなら、そのような信念は価値がなく、何の意味もないだろう。人の認識はあまりにもうわべだけである。神自らによって実行されて初めて、この働きは完璧に完了されるのである。人は神の代わりにそれをすることはできない。人は神の身分も本質も持っていないので、神の働きをすることは不可能である。たとえ人がしたとしても、何ら効果はないだろう。初め神が肉となったのは贖いのためであった。すべての人間の罪を贖い、清められ、罪が赦されることを可能にするためであった。征服の働きも神が人の中で自らする。もし、この段階で、神が預言しか語らないのであれば、預言者か、誰か賜物のある人を見つけて、神の代わりをしてもらうこともできよう。もし、預言しか語らないなら、人は神の代役を務めることもできよう。しかし、もし人が神自身の働きを自ら務め、人のいのちに働くということになれば、この働きをするのは不可能であろう。それは神自らによって直接されなければならない。神はこの働きをするために自ら人とならなければならない。言葉の時代に、もし預言しか語られないなら、この働きのために預言者イザヤかエリヤを見つけてくればよいし、神自身が自らそれをする必要はないだろう。この段階でなされる働きはただ預言を語るだけではなく、更に重要な、人を征服し、サタンを打ち負かすために用いられる言葉の働きなので、この働きは人ではなく、神自身によって自らなされなければならない。律法の時代にヤーウェは神の働きの一部を行い、その後、預言者を通して神が言葉を語り、ある働きをした。これは人がヤーウェの働きの代役を務めることができ、預言者は物事を予言し、神に代わって夢を解き明かすことができるからである。初めになされた働きは人の性質を直接変える働きではなく、人の罪とも関係なく、人は律法を守ることだけを要求されていた。だから、ヤーウェは肉となって自らを人に顕すことをしなかった。そして、ヤーウェはモーセや他の人たちに直接語り、ヤーウェの代わりに彼らに語らせ、働かせ、人々の間で彼らが直接働くようにしたのである。神の働きの第1段階は人を指導することであった。それがサタンとの戦いの始まりだったが、この戦いはまだ正式には始まっていなかった。サタンとの正式な戦いは神の最初の受肉とともに始まり、そして、それは今日に至るまでずっと続いてきた。この戦いの最初の出来事は、人となった神が十字架に釘づけされた事である。人となった神の十字架はサタンを打ち負かし、それが戦いの最初の成功段階であった。人となった神が人のいのちに直接働き始めるとき、これこそ人を再び神のものとする働きの正式な始まりで、これは人の古い性質を変える働きなので、サタンとの戦いをする働きである。ヤーウェによってなされる最初の段階の働きは、地上の人の生活の指導だけだった。それは神の働きの始まりで、まだいかなる戦いもいかなる大きな働きも関与していなかったが、これから来る戦いの働きの基盤を築いた。その後、恵みの時代の働きの第2段階には、人の古い性質を変えることが含まれるが、それは神自らが人のいのちに働いたことを意味している。これは神自らが行わなければならなかった。それは神が自ら肉となることを必要とし、もし神が肉とならなかったなら、誰ひとりこの段階の働きで神に代わることはできなかった。というのは、それはサタンと直接戦う働きを表していたからである。もし、人が神に代わってこの働きをしたとしたら、人がサタンの前に立った時、サタンは服従することはなかっただろうし、サタンを打ち負かすことは不可能だったろう。サタンを打ち倒すのは、受肉した神でなければならなかった。受肉した神の本質は依然として神であり、依然として人のいのちであり、依然として造り主であるからである。何が起ころうとも、神の身分と本質は変わらないのである。そして、神は肉体を取り、サタンに完全服従させるために働きをした。<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/only-christ-of-the-last-days-can-give-man-the-way-of-eternal-life-selections.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>終わりの日</b></a>の働きの段階で、人がこの働きをし、言葉を直接語ることを強いられるなら、人はそれらを直接語ることはできないだろう。そして、もし預言が語られるなら、人を征服することは不可能であろう。神は肉体を取り、サタンを打ち負かし、完全服従させるために来る。神は完全にサタンを敗北させ、完全に人を征服し、完全に人を神のものとすると、この段階の働きが完了し、働きが成功する。神の経営において、人は神の代役を務めることはできない。特に、時代を導き、新しい働きを始めることは、神自身が自らする必要がある。人に啓示を与えたり、預言を与えたりすることは人によってなされることも可能だが、もしそれが、神自らがしなければならない働きで、神自らとサタンとの戦いの働きなら、これは人によってなされることはできない。働きの第1段階で、サタンとの戦いがないときは、ヤーウェは預言者たちによって語られた預言を用いて自らイスラエルの民を導いていった。その後、第2段階はサタンとの戦いであり、この働きをするために、神自らは肉体を取り、自ら人となった。サタンとの戦いが関与することもまた、すべて神の受肉が関与する。この戦いは人が行うことはできないのである。もし人が戦うことになれば、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。人はサタンの支配下にありながら、どのように戦うための力を持つことなどできようか。人は真ん中にいる。もしあなたがサタンの方に傾くなら、あなたはサタンに属し、あなたが神を満足させるなら、あなたは神に属す。この戦いの働きを神に代わって人が務めるとなったら、人はそれを成し遂げることができるだろうか。もしそれをしていたら、人はとうの昔に滅びてはいなかったろうか。人は黄泉の国にとうの昔に入ってはいなかったろうか。このように、人は神に代わってその働きをすることはできない。すなわち、人は神の本質を所有しておらず、もし人がサタンと戦うなら、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。人ができることはそれほど多くない。ある人たちを説得して引き入れることはできるが、神自らの働きにおいて神の代役を務めることはできない。人はどうしてサタンと戦うことなどできようか。サタンはあなたが戦い始める前に、あなたを捕虜にするだろう。神自らのみがサタンと戦うことができ、これに基づいて、人は神に従い服従することができる。この方法でのみ、人は神のものとされ、サタンの束縛から逃れることができる。人が自分自身の知恵、権威、能力で達成できることは、あまりにも限られている。人間には人を完全にし、導き、さらにサタンを打ち負かすことなど不可能である。人の知能と知恵はサタンの計画を妨害することはできない。それなら、人がサタンとなど戦うことができようか。</p><p><p></p></p><p>進んで完全にされたいと思う人たちなら誰でも、完全にされる機会がある。だから皆リラックスしていなければならない。将来、あなたがたはみな終着点に入るだろう。しかし、もしあなたが進んで完全にされようとせず、素晴らしい領域に入ることを願わないなら、それはあなた自身の問題である。喜んで完全にされようとし、神に忠実である人たちすべて、服従する人たちすべて、そして自分の役目を忠実に成し遂げる人たちのすべて――そのような人たちはすべて完全にされることができる。今日、自分の本分を忠実に果たさない人たちすべて、神に忠実でない人たちすべて、神に服従しない人たちのすべて、とりわけ聖霊の啓示と光を受けたが、それを実践しなかった人たち――そのような人たちは完全にされることはできない。神に喜んで忠実に従う人たちは誰でも、たとえ彼らが多少無知であっても、完全にされることができる。喜んで求めている人たちはすべて完全にされることができる。これを心配する必要はない。あなたがこの方向で進んで追求している限り、あなたは完全にされることができる。わたしはあなたがたの中でこの様な人たちのひとりでも進んで見捨てたり、排除したりすることは願わないが、もし人が一生懸命努力しないなら、あなたは自分自身を破滅させているだけである。あなたを排除するのはわたしではなく、あなた自身である。もしあなた自身が一生懸命努力しないなら――もしあなたが怠慢で、自分たちの本分を果たさなかったり、忠実でなかったり、真理を追求しなかったり、お金を使ったり性的密事にふけったりして好きなようにいつもふるまっているなら、あなたは自分自身を罪に定めており、誰の同情も得る価値はない。わたしの目的は、あなたがたがみな完全にされることで、少なくても征服され、この働きの段階は成功をもって終えることである。神の願いは一人ひとりがみな完全にされ、最終的に神のものとされ、神によって完全に清められ、神に愛される者となることである。あなたがたは進歩がおそく、才幹に劣ってるとわたしが言おうと問題はない――これはすべて事実である。わたしが言っていることは、わたしがあなたを見捨てるつもりであり、あなたがたに望みを失い、ましてやあなたがたを救いたいとは思っていないことの証明などではない。今日、わたしはあなたがたの救いの働きのために来ており、すなわち、わたしがする働きは、救いの働きの続きである。すべての人は完全にされる機会が与えられている。あなたが喜んで受け入れるなら、あなたが求めるなら、最後には、その効果を達成でき、誰一人見捨てられることはないだろう。もしあなたの力量が乏しければ、わたしはその力量にあったことをあなたに要求する。もしあなたの力量が豊かならば、わたしはその豊かな力量に合ったことをあなたに要求する。もしあなたが無知で無学なら、わたしはあなたの無学に合ったことを要求する。もしあなたに教養があるなら、わたしはあなたの教養に合ったことを要求する。もしあなたが高齢なら、わたしはあなたの年齢に合ったことを要求する。もしあなたが人をもてなすことができるなら、わたしはそれに合ったことを要求する。もしあなたが人をもてなすことはできず、特定の役割しか果たせないと言うのなら、それが福音を伝えることであれ、教会の手入れであれ、そのほか一般的なことであれ、あなたがするそれらの事を通して、わたしはあなたを完全にする働きをする。忠実であること、最後まで従うこと、神への崇高な愛を求めること――これこそあなたが達成しなければならないことで、この3つよりすぐれたものは何もない。究極的には、人はこれら3つの事を成し遂げることを要求されている。そして、もし人がそれらを達成できるなら、その人は完全にされるだろう。しかしまず、あなたは真剣に追い求め、消極的になるのではなく、積極的に前に進み続けなければならない。あらゆる人は完全にされる機会があり、完全にされることが出来るとわたしは既に言った。これは重要だが、あなたは一生懸命追求していない。もしあなたがこれら3つの基準を満たすことができないなら、あなたは最後には排除されなければならない。わたしはすべての人が追い付いて、すべての人が聖霊の働きと導きおよび示しを得、最後まで従うことができることを望んでいる。なぜなら、これはあなたがた一人ひとりがなすべき本分であるからだ。あなたがたが本分を全て果たし終えたとき、あなたがたはみな完全にされ、また素晴らしい証しを持つことだろう。証しを持つすべての人たちはサタンに勝利し、神の約束を手に入れた人たちで、そして彼らは素晴らしい終着点で生き残る人たちである。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「愛の使命」から、その三「清められ、救われる道」]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7567585/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7567585</id><summary><![CDATA[🌸あらすじ主イエスは十字架につけられて、すでに私たちを罪の中から贖ってくださいました。 なぜ神様が世の終わりにもう一段階の裁きの仕事をなさってこそ、 人が清められ、救われるのでしょうか。 ここであなたはきっと答えを見つけるはずです。🌸もっと見る『「網」を突き破る』から、その六『神様の裁きの仕事を証しする』聖書に関する映画「戸をたたく」抜粋シーン（５）主があなたの扉を叩いています。主の声がわかりますか（２）]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-09T12:35:54+00:00</published><updated>2020-01-09T12:35:54+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p>URL: <a href="https://youtu.be/E8AIHA2e-Ww">youtu.be
					<img src="https://i.ytimg.com/vi/E8AIHA2e-Ww/hqdefault.jpg" width="100%">
				</a>
			</p>
		</div>
		<div>
			<p>🌸あらすじ</p><p>主イエスは十字架につけられて、すでに私たちを罪の中から贖ってくださいました。 なぜ神様が世の終わりにもう一段階の裁きの仕事をなさってこそ、 人が清められ、<a href="https://jp.godfootsteps.org/salvation-1.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救われる</b></a>のでしょうか。 ここであなたはきっと答えを見つけるはずです。</p><p><br></p><p>🌸もっと見る</p><p><a href="https://jp.godfootsteps.org/videos/testimony-of-gods-judgment-work.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">『「網」を突き破る』から、その六『神様の裁きの仕事を証しする』</a><a href="https://jp.godfootsteps.org/videos/Lord-is-knocking-at-the-door-2.html" class="u-lnk-clr"><br></a></p><p><a href="https://jp.godfootsteps.org/videos/Lord-is-knocking-at-the-door-2.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">聖書に関する映画「戸をたたく」抜粋シーン（５）主があなたの扉を叩いています。主の声がわかりますか（２）</a><br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[いのちの経験の讃美歌「私は神の麗しさを見てきた」【MV】]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7561413/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7561413</id><summary><![CDATA[🌸私は神の麗しさを見てきたⅠ私は時々、聞き慣れた声が私を呼んでいるのを聞く目覚めて、誰が話しているのかと見回す声は温和であるが厳しく、御姿は美しい打ちたたかれて苦しみ、大きな苦痛に耐え神の愛の御手で撫でられるそして、それは私が戦った相手は全能者であったことを知る自分がした事を考えて大いに後悔し、自分を憎む深く腐敗し、人間性が皆無であったが、今、真実を知った新たな始まりで真の人生を求め、自分の本分を尽くす地位のために神と競う私は下劣である神は依然として神であられ、人間は依然として人間であり私は極めて無知である私が過度に愚かで、誇り高ぶっていて、真の自分を知らない私は恥を知らず、辱められ、私の心は後悔で満たされる自分が何のために生きるべきか知らなかった自分を憎む長年にわたり悪魔が私を翻弄し、私は卑しむべき者となったその悪しき者に毒され、人間性を失った変化して生まれ変わらなければ、私に真の人生は無いⅡ腐敗した性情が私を煩わせ、私の務めは依然として無益である神を知らず、観念に満ちている私はどうして逆らわずに居られようか神は私の反逆と不義を裁かれる私は罰と裁きの真の愛を見てきた神は義であられると、完全に確信している私は神と直接向き合っている神の実際的な救いに助けられ 、私はここまで歩いてきた神の現実性と全能性は、人間に対して完全に明示されている私は光の中で生きて神を知り、その麗しさを見てきた私は本分を尽くすことを固く誓い神を満足させ、神を愛していく『小羊に従って新しい歌を歌おう』より🌸他のお気に入りゴスペル音楽「人はみな神の光の中で生きる」礼拝賛美 ハレルヤ（Hallelujah）「神の民は精一杯神を讃える」英語の賛美歌 歌詞付き]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-08T13:04:26+00:00</published><updated>2020-01-08T13:04:27+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>URL: <a href="https://youtu.be/oIHVrpjr_LY">youtu.be
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				</a>
			</p>
		</div>
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			<p>🌸私は神の麗しさを見てきた</p><p>Ⅰ</p><p>私は時々、聞き慣れた声が私を呼んでいるのを聞く</p><p>目覚めて、誰が話しているのかと見回す</p><p>声は温和であるが厳しく、御姿は美しい</p><p>打ちたたかれて苦しみ、大きな苦痛に耐え</p><p><a href="https://jp.easternlightning.org/tag/God-s-love" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の愛</b></a>の御手で撫でられる</p><p>そして、それは私が戦った相手は全能者であったことを知る</p><p>自分がした事を考えて大いに後悔し、自分を憎む</p><p>深く腐敗し、人間性が皆無であったが、今、真実を知った</p><p>新たな始まりで真の人生を求め、自分の本分を尽くす</p><p>地位のために神と競う私は下劣である</p><p>神は依然として神であられ、人間は依然として人間であり</p><p>私は極めて無知である</p><p>私が過度に愚かで、誇り高ぶっていて、真の自分を知らない</p><p>私は恥を知らず、辱められ、私の心は後悔で満たされる</p><p>自分が何のために生きるべきか知らなかった自分を憎む</p><p>長年にわたり悪魔が私を翻弄し、私は卑しむべき者となった</p><p>その悪しき者に毒され、人間性を失った</p><p>変化して生まれ変わらなければ、私に真の人生は無い</p><p>Ⅱ</p><p>腐敗した性情が私を煩わせ、私の務めは依然として無益である</p><p>神を知らず、観念に満ちている私は</p><p>どうして逆らわずに居られようか</p><p>神は私の反逆と不義を裁かれる</p><p>私は罰と裁きの真の愛を見てきた</p><p>神は義であられると、完全に確信している</p><p>私は神と直接向き合っている</p><p>神の実際的な<a href="https://jp.easternlightning.org/judgment-categories/salvation-and-full-salvation.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救い</b></a>に助けられ 、私はここまで歩いてきた</p><p>神の現実性と全能性は、人間に対して完全に明示されている</p><p>私は光の中で生きて神を知り、その麗しさを見てきた</p><p>私は本分を尽くすことを固く誓い</p><p>神を満足させ、神を愛していく</p><p>『小羊に従って新しい歌を歌おう』より</p><p><br></p><p>🌸他のお気に入り</p><p><a href="https://jp.easternlightning.org/videos/all-people-live-in-God-s-light-mv.html" class="u-lnk-clr">ゴスペル音楽「人はみな神の光の中で生きる」礼拝賛美 ハレルヤ（Hallelujah）</a><a href="https://jp.easternlightning.org/videos/praising-God-to-the-fullest-mv.html" class="u-lnk-clr"><br></a></p><p><a href="https://jp.easternlightning.org/videos/praising-God-to-the-fullest-mv.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">「神の民は精一杯神を讃える」英語の賛美歌 歌詞付き</a><br></p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く (前半)]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7556142/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7556142</id><summary><![CDATA[人は今日の働きも将来の働きも多少理解できるが、自らの終着点を理解していない。被造物として、人はその本分を果たすべきである。つまり、人は何をする場合にも神に従うべきで、わたしがあなたがたに示す方向がどのようであれ、その方向に進むべきである。あなたは自分のための取り計らいの方法を知らず、自分自身の管理すらできない。すべては神の憐れみに委ねられなければならない。すべてのことは神の手に支配される。もし神の働きがあらかじめ人に終わりや、素晴らしい終着点を与え、神がこれを用いて人を引きつけたり従わせたりするなら、つまり、もし神が人と取引をするなら、これは征服ではなく、人のいのちに働くことでもない。神が人を支配し、人の心を自らのものとするために終わりを用いるなら、神が人を完全にしているのでもなく、それにより人を自らのものとすることもできない。単に終着点を使って人を支配しようとしているだけである。人が問題とすることは、未来の最後がどうなるか、終着点がどこか、それに自分が何か良いことを望めるかだけである。もし征服の働きが行われる間、人に素晴らしい望みが与えられ、人の征服に先立って人が追い求める最善の終着点が与えられるとしたら、人の征服はその効果を達成しないばかりか、征服の働きは本来の効果を発揮しないだろう。つまり征服の働きは、人の運命や将来性を取り上げ、人の反抗的な性質を裁き、罰することによってその効果を果たす。それは、人に祝福や恵みを与えるなどの言わば取引により達成されるものではなく、人の自由を取り上げ、将来を絶つことにより、人の忠誠心を明らかにすることで達成される。これが征服の働きの本質である。もし人が最初から素晴らしい望みが与えられ、刑罰や裁きがそのあとでなされるなら、人は将来のことを基にしてこの刑罰や裁きを受けるだろう。そして、最終的にすべての被造物による造り主への無条件の服従と礼拝が達成されることはないままだろう。そこには盲目で無知な従順さしかないか、人が神に盲目的に何かを要求するだけで、人の心の完全な征服はあり得ない。その結果、そのような征服の働きが人を神のものとすることもなく、人が神の証人となることなどさらに不可能だ。そのような被造物は自分たちの本分を果たすことはできず、神と取引をするだけだ。これは征服ではなく、憐れみと祝福だ。人も最も大きな問題は、人が自分の運命と将来のことしか考えず、それらを偶像視していることである。人は自分の運命と将来のために神を求めるだけで、神への愛から礼拝していない。そのため、人を征服するにあたり、人の身勝手さや貪欲、神に対する礼拝の妨げとなるものは、すべて排除されなければならない。そうすることによって、人の征服の効果が達成されるだろう。その結果、人を征服するもっとも初期の段階で、まず人の野心や最も嘆かわしい弱点を一掃し、これを通して人の神への愛を現わし、人間の人生、神に対する見方、自身の存在の意味などに関する自分の知識を変える必要がある。このようにして人の神への愛は清められ、それにより人の心が征服される。しかし、征服することだけを目的に征服することが、神の被造物全てに対する姿勢ではない。神は自らの栄光のため、また人の本来の似姿である初めの状態に戻すため、人を自らのものとするために征服するのである。神が征服することだけを目的として征服するなら、征服の働きの意義はない。つまり、もし人を征服した後、神が人から手を洗い、人の生死に注意を払うこともないなら、これは人類に対する経営（救い）でも人の救いのための征服でもない。人が神により征服され、素晴らしい終着点へ到達して神のものとされることのみが救いの働きの中心であり、これによってのみ人の救いの目的は達成される。人は素晴らしい終着点に到着し、安息に入ることのみを被造物として思い描くべきで、造り主によってなされるべき働きも他にはない。もし人がこの働きをしようとするなら、あまりにも多くの制約がある。人はある時点までは行くことができても、永遠の終着点までは行くことができない。人が人の運命を決めることはできないし、人の将来や未来の終着点を確かにすることなど、尚更できない。しかし神による働きは異なる。神は人を創ったので、人を導く。神は人を救うので、完全に人を救い、完璧に人を自らのものにする。神は人を導くので、人を適切な終着点に連れて行く。神は人を創造し、統治するので、人の運命と将来に責任を持たなければならない。これこそ造り主によってなされる働きである。征服の働きは人の将来を絶つことでなされるが、人は最終的に神が用意した適切な終着点に連れて行かれなければならない。人が終着点を持ち、人の運命が確かにされるのは神が的確に人に働くからである。ここで言及されている適切な終着点とは、かつて清められた人の望みとか将来のことではない。この2つは異なったものである。人が望んだり追い求めたりするものは人のための終着点というより、肉の途方もない欲求への追求である。一方、神が人のために用意したものは、人が清くされた後に与えられる祝福と約束で、それは神が世界を創造した後、人に用意したもので、人の選択、観念、想像、あるいは肉などによる汚れはない。この終着点はある特定の人に用意されたものではなく、全人類の安息の地である。であれば、この終着点は人類に最適な終着点である。造り主はすべての被造物を指揮することを意図している。あなたは神がすることは何であれ、放棄したりそむいたりしてはならないし、神に反抗すべきではない。神がする働きは、最終的には神の目的を達成し、それによって神が栄光を受ける。今日あなたはなぜモアブの子孫だとか、赤い大きな竜の子であると言わないのか。なぜ選びの民について語らず、被造物についてのみ語るのか。被造物――これは人の本来の肩書きで、人が生まれながらに持つ本質である。働きの時代や期間が異なっている故に、名前が色々あるわけである。実際、人は普通の被造物である。すべての被造物は、最も堕落したものであれ、最も聖いものであれ、被造物としての本分を果たさなければならない。神が征服の働きを実行するとき、神はあなたの将来性や、運命や、終着点を用いて管理するわけではない。実際このように働く必要もない。征服の働きの目的は、人に被造物としての本分を果たさせ、造り主を礼拝させることである。その後初めて人は素晴らしい終着点に入ることができる。人の運命は神の手で管理されている。あなたは自分自身を管理することはできない。いつも自分自身のことで忙しくしているのにもかかわらず、人は自分自身を管理することができないままでいる。あなたがもし自分の将来を知ることができ、自分の運命を管理できるなら、あなたは被造物だろうか。端的に言うと、神がどのように働いたとしても、その働きはすべて人のためである。たとえば、天、地、そして神が人のために造ったすべてのもの――神が人のために造った月、太陽、星など、また動物や植物、春、夏、秋、冬など――すべては人の存在のために造られたのである。それだから、神がどのように人を罰し、裁くにしても、それはすべて人の救いのためである。神が人から肉的な望みを剥ぎ取ったとしても、それは人を清めるためであり、人の清めは人の存在のためである。人の終着点は造り主の手にあるのだから、人はどうして自分自身を管理できるだろうか。一旦、征服の働きが完成すると、人は美しい世界に連れて行かれる。もちろん、この生活はまだ地上にあるが、今日の人の生活とは全く似ていない。それは全人類が征服された後の生活で、地上の人間にとって新しい始まりであり、人類にとってそのような生活を送ることは、彼らが新しく美しい領域に入ったという証拠である。それは地上における人と神の生活の始まりである。そのような美しい生活の前提として、人は清められ征服され、造り主の前に服従しなければならない。そして、征服の働きは人が素晴らしい終着点に入る前の、神の働きの最終段階である。そのような生活は地上における人の未来の生活であり、地上で最も美しい生活で、人が待ち焦がれている生活で、世界史上人が決して達成したことのない生活である。それは六千年の経営の働きの最終的結果で、人類が最もあこがれる、神が人に約束したものでもある。しかし、この約束は直ちには実現されない。終わりの日の働きが完成され、人が完全に征服され、つまり、サタンが完全に敗北して初めて、人は未来の終着点に入るのである。人は練られた後、罪のない性質になる。なぜなら、神はサタンを打ち負かしたので、敵対する勢力の侵略はなく、敵対する勢力による人の肉への攻撃がなくなるからである。そして、人は自由になり、聖くなり――永遠へと入ったことになる。暗闇の敵対する勢力が縛られて初めて、人はどこに行っても自由で、反抗的行為や敵対する者たちもいなくなる。人が無事でいるために、サタンは縛られるより他ない。今日、サタンは地上のどこにおいても問題を引き起こしており、神の経営の働きはまだ全て終わってはいないので[a]人は無事ではない。一旦サタンが敗北すると、人が完全に解放される。人が神を得てサタンの領域から抜けると、義の太陽を見ることになる。普通の人の生活が取り戻される。普通の人が持つべきもの全て――善悪を見分ける能力、衣食の方法の理解、普通に生活する能力など――これらすべてが取り戻される。たとえエバが蛇に誘惑されなかったとしても、人は最初に創造された後、普通の生活を送ったはずである。人は食べ、服を着て、地上の普通の人の生活を送ったはずである。しかし人が堕落してから、このような生活は夢物語となり、今日でさえ、人はそのようなものを敢えて想像することすらしない。だが、人が憧れるこの美しい生活は不可欠である。もし人がそのような終着点を持っていないなら、彼の地上での堕落した生活は決して終わることがないだろう。もしそのような美しい生活がないなら、サタンの宿命やサタンが地上で支配する時代に結論は出ないだろう。人は暗闇の勢力によっては到達することができない領域に達しなければならない。そうするとき、サタンが敗北したことを証明するのである。このようにして、一旦サタンから邪魔が入らなくなると、神は自身で人間を管理し、人に命令を与えてその全人生を管理する。これによって初めてサタンが敗北したと見なされる。今日、人の一生は大方汚れの一生で、やはり苦しみと苦悩の一生である。これをサタンの敗北と呼ぶことはできない。人はまだ苦悩の海から逃げ出しておらず、人生の困難あるいはサタンの影響から抜け出しておらず、依然としてほんの少しの神の認識しか持っていない。人のすべての困難はサタンによって作られ、人の人生に苦しみをもたらしたのはサタンであり、サタンが縛られて初めて、人は苦難の海から完全に逃れることができるのである。しかし、サタンを束縛することは、人の心の征服や獲得を通して、そして人をサタンとの闘いの獲物にすることによって達成される。今日、人が勝利者になって、完全にされることを求めるのは、地上で普通の人の生活を送る以前に求めたことであり、サタンが束縛されること以前に人が求める目標である。人が勝利者になって完全にされ、大いに用いられることを求めるのは、実質的にサタンの影響から逃れることである。人が追求しているのは勝利者になることだが、最終結果はサタンの影響からの逃避である。サタンの影響から逃れることによって初めて人は地上で普通の人の生活、神を礼拝する生活を送ることができる。今日、人が勝利者になって完全になるのを求めることは地上での普通の人の生活を送る以前に求めることである。それらのことは、おもに清められ真理を実践に移すため、また造り主を礼拝するために求められる。もし人が地上で普通の人の生活、困難や苦悩のない生活を送っているなら、人は勝利者になるのを追い求めはしないだろう。「勝利者になること」と「完全にされること」とは神が人に追求するように与えたことで、これらの目的を通して、神は人が真理を実践し、意義深い人生を送るようにするのである。人を完全にさせ、神のものとすることが目的で、勝利者になって完全にされることへの追及はただの手段に過ぎない。もし将来、人が素晴らしい終着点に入ることになるなら、勝利者になって完全にされることについて言及されることはないだろう。被造物がそれぞれの本分を果たすだけである。今日、人の範囲を定義するために、ただこれらの事を求めさせているだけで、それによって人が追求するものの的が絞られ、実践的になるのである。これなしには、人が永遠のいのちに入ることを求めるのは漠然として抽象的であるだろうし、もしそうであれば、人はもっと哀れではないだろうか。目標や原則なしに、このように求めるのは――自己欺瞞ではないだろうか。究極的には、この追求は当然実を結ぶことはなく、最後には、人は依然としてサタンの領域の下に生きており、そこから脱出するのは不可能だろう。なぜ自分自身をそのように目的もなく追及する状態にするのか。人が永遠の終着点に入るとき、人は造り主を礼拝する。そして、人は救いを手にし、永遠に入れられるので、人は何の目的も追求しないし、その上、サタンによって捕えられるという心配もないだろう。この時、人は自分の立場を知り、本分を果たす。そして、彼らが罰せられたり裁かれたりしなくとも、人はそれぞれ自分たちの本分を果たすだろう。その時、人は身分においても、地位においても被造物である。高低の差別はもはやない。人はそれぞれの異なる役目を務めるだけである。しかし、人は依然として人類の規律ある適切な終着点において生きており、造り主を礼拝するために本分を果たす。そして、このような人間は永遠の人間となるであろう。その時、人は神に照らされた生活、つまり神の配慮と守りの下にある生活、そして神と共に生きる生活を獲得する。人類は地上で普通の生活を送り、人類全体は正しい軌道に入ることになる。六千年の経営計画は完全にサタンを敗北させるだろう。つまり、神は創造に従って人の本来の似姿を回復させ、そうして、神の本来の目的が成就されるという意味である。最初、サタンによって堕落させられる前は、人は地上で普通の生活を送っていた。その後、サタンに堕落させられた時、人はこの普通の生活を失った。それで、神の経営の働きと人の普通の生活を取り戻すためのサタンとの闘いが始まった。六千年にわたる神の経営の働きが終わって初めて、全人類の生活が地上で正式に始まり、そうして初めて人は素晴らしい生活をすることができ、そして神は最初に人を創造した目的と人の本来の似姿を回復するだろう。そのようなわけで、一旦地上で人類の普通の生活を始めると、人は勝利者になるとか完全にされるということを追求しなくなるだろう。というのは、人は聖くなるからである。人によって語られた勝利や完全さは、神とサタンとの戦いの間求めるために人に与えられた目的である。そしてそれらの目的は人が堕落したので存在しているだけである。あなたに目的を与え、この目的を追求させることによって、サタンを打ち負かすことができるのである。あなたが勝利者になったり、完全になったり、用いられるようになることを求めているのは、サタンが恥じ入るために証しとなることを求めているのである。最後には、人は地上で普通の人の生活を送り、人は聖くなるだろう。そしてこれが起こるとき、彼らはそれでも勝利者になることを求めるだろうか。彼らはみな被造物ではないのだろうか。勝利者になり、完全なものになることは、どちらもサタンと人の汚れに向けられている。この「勝利者」とはサタンや敵対する勢力に勝利することを意味しているのではないだろうか。あなたが自分は完全にされていると言うとき、あなたのどこが完全にされたのだろうか。あなたが神の崇高な愛を達成することができるよう、堕落したサタンの性質を自分たちから取り除いたということではないだろうか。そのようなことは人のうちの汚れたものと関連し、サタンと関係して語られる。神と関係して語られるのではない。今日、あなたが勝利者になり完全にされることを求めないなら、将来、人類が地上で普通の生活を送るとき、そのような追求の機会はないであろう。その時、あらゆる人の最後が明かにされるだろう。その時、あなたはどんなものか明らかにされ、もしあなたが勝利者になり、完全にされることを願っても、それは不可能であろう。明らかにされてから、反抗心ゆえに、人は懲罰されるだけである。その時、人間が追求するものは他の人達より高い地位ではない。勝利者となることを追求する人があれば、完全にされることを追求する人もあり、また神の長子となることを追求するものや神の子になることを追求する人もいる。彼らはこれらのことを追求しない。すべての人たちは神の被造物で、すべての人たちは地上で生活し、すべての人たちは神と地上で生活するだろう。今こそ、神とサタンとの戦いの時で、この戦いはまだ終わっておらず、人はまだ完全に神のものとされず、そして移り変わりの期間である。そして、人は勝利者になるか神の民の一人になるか追求することを要求される。今日、地位に区別があるが、時が来ればそのような区別はなくなるのである。勝利を得たすべての人たちの地位は同じで、彼らはすべて資格のある人間で、地上で平等に生きるであろう。つまり、彼らはすべて資格のある被造物で、彼らに与えられる物はすべて同じという意味である。神の働きの時代は異なり、神の働きの対象も違うので、もしこの働きがあなたがたになされるなら、あなたがたは完全にされ、勝利者になる資格を持つ。もしそれが国外でなされたとしたら、彼らは征服されるための最初のグループ、また完全にされるための最初のグループになる資格を持つ。今日、この働きは国外ではなされていない。だから、彼らは完全にされ、勝利者になる資格はなく、彼らが最初のグループになるのは不可能である。神の働きの対象は異なっているので、神の働きの時代は違い、その範囲も異なっている。だから、最初のグループがあり、つまり、勝利者たちがいて、完全にされる第2のグループもいるだろう。完全にされた最初のグループがあれば、見本とひな型があり、だから将来は完全にされた人達の第2第3のグループが存在するだろうが、永遠においてはみな同じで、地位の上でも分類はされないだろう。彼らは単に異なった時に完全にされたのであって、地位の違いは全くない。すべての人たちが完全にされ、全宇宙の働きの終わりが来ると、地位に区別はなく、すべて平等となる。今日、この働きがあなたがたの間でなされ、その結果、あなたがたは勝利者になるであろう。もしこれがイギリスでなされたら、イギリスがあなたがたと同じように最初のグループをもつであろう。わたしがあなたがたの中で今日の働きを実行しているのは、ひたすら、特別に恵み深くなっているのである。そして、もしわたしがこの働きをあなたがたの間でしなかったら、同じように、あなたがたは第2のグループか、第3、第4、第5のグループとなるだろう。これは単に働きの順番の違いによるものである。第1と第2のグループは、一方の地位が高く、もう一方の地位が低いことを意味しているのではない。それは単にこの人たちが完全にされる順番を意味しているだけである。今日、これらの言葉があなたがたに伝えられているが、あなたがたはなぜもっと早くに知らされなかったのだろうか。なぜなら、過程を踏まえなければ、人々は極端に走る傾向があるからである。たとえば、イエスは当時「わたしが去ったように、わたしは再び来る。」と言った。今日、多くの人たちはこの言葉に夢中になり、彼らは白い衣を着て天に上げられるのを待つことだけを望んでいる。それだから、早く伝えない方が良い言葉が沢山ある。必要以上に早く語ってしまうと、人は極端な方向に走るからである。人の背丈はあまりに低く、これらの言葉の真理を見通すことができない。人が地上で真の生活を達成すると、サタンの全勢力は縛られ、人は地上で楽に生きることになるだろう。物事は今日ほど複雑ではなくなるだろう。人間関係、社会関係、複雑な家族関係など…それらは厄介で、本当に苦しい。ここでの人の一生はとてもみじめである。人が一旦征服されると、彼の心と精神は変わるだろう。彼は神を畏れ敬う心を持ち、神を愛する心を持つだろう。全宇宙で神を愛することを求めるすべての人たちが征服され、つまりサタンが敗北し、サタン――暗闇の全勢力――が縛られると、地上での人の生活は困難でなくなり、地上で自由に生きることができるだろう。もし人の生活に肉的関係がなく、肉の複雑さがないなら、どれほど楽なことだろう。人の肉的関係はあまりにも複雑で、人にとってそのようなものを持つことは、彼がサタンの影響からまだ解放されていないことの証拠である。もしあなたが兄弟姉妹と同じ関係を持っていたら、もしあなたが家族と同じ関係を持っていたら、あなたは何の心配もしないだろうし、誰かを心配する必要もないだろう。これ以上のことはないだろうし、そうであれば人はその苦しみの半分から解放されるだろう。地上で普通の人間の生活をする人は、天使のようになる。依然として肉体を持っているけれども、人は天使のようになる。これは最後の約束で、人に与えられる最後の約束である。今日、人は刑罰や裁きを受けるが、あなたはそのような人の体験は無意味だと思うのか。刑罰や裁きの理由が全くなくなるだろうか。以前、人に刑罰を与え、裁くことは人を地獄に落とすことだと言われてきた。それは人の運命や将来を取り上げることを意味する。これは一つのこと、つまり人を清めるためである。神は人間から自身の手を洗ってから、人を故意に地獄に落すのではない。人の中にある反抗心に対処し、最終的に人の中にあるものが清められ、神に対して真の認識を持ち、人が聖人のようになるためである。もしこれがなされるなら、すべてが成就するだろう。実際、人の中にある対処されるはずのこれらのものが対処され、人が目覚ましい証しをするなら、サタンが打ち負かされ、たとえ人の中に本来あるものがまだ完全に清められず、少しは残っていても、一旦サタンが敗北すると、もはや困難をもたらすことはなく、その時人は完全に清められるであろう。人はそのような生活は体験したことがないが、サタンが打ち負かされると、すべてが解決し、人の中にある些細なことはすべて解決される。主な問題が解決されると、他の全ての問題も解決する。神が今回地上で人となり、神が人の間で自ら働きをする時、神がする全てのことはサタンを打ち負かすためである。そして、神は人を征服し、あなたがたを完全にすることで、サタンを敗北させるのである。あなたがたが目覚ましい証しをするとき、これもまた、サタンの敗北のしるしとなろう。サタンを打ち負かすために、人は最初に征服され、最終的に完全にされる。しかし、実質的にこれはサタンの敗北と同時に、全人類へのこのむなしい苦悩の海からの救いでもある。この働きが全世界で実行されるのか、中国で実行されるのかは別として、それはすべてサタンを負かすことであり、人が安息の地に入るよう全人類に救いをもたらすためである。神が普通の肉体を持ったことは正にサタンを負かすためだ。肉体の神の働きは神を愛する天の下にいる全ての人たちに救いをもたらすためであり、全人類を征服するためであり、さらには、サタンを負かすためである。神の経営の働きの中心は、全人類に救いをもたらすためのサタンの敗北と切り離せない。この働きの多くにおいて、あなたがたに証しをするように常に言うのはなぜだろうか。そしてその証しは誰に向けられるのか。サタンに向けられてはいないか。この証しは神のためになされ、神の働きがその効果を達成したことを証しするためのものである。証しをすることはサタンを負かす働きと関係している。もしサタンとの戦いがなかったら、人は証しをするよう要求されないだろう。サタンは敗北しなければならないので、人を救うと同時に、神はサタンの前で人が神に証しをするよう要求される。それは神が人を救い、サタンと戦いをするために用いられる。であるから、人は救いの対象でもあり、サタンを打ち負かすための道具でもある。そのため、人は神の経営全体の働きの核心におり、サタンは崩壊の対象、つまり敵にしかすぎない。あなたは自分は何もしていないと感じるかもしれないが、あなたの性質が変わることで、証しが生まれている。そしてこの証しは人に対してではなく、サタンに向けられている。人はそのような証しを楽しむのに適していない。神によってなされた働きを人はどのように理解することができるだろうか。神の戦いの対象はサタンであり、一方、人は救いの対象でしかない。人は堕落したサタンの性質を持っており、この働きを理解することはできない。これはサタンが堕落しているからである。それは人の中に生まれつきあるのではないが、サタンによって仕向けられる。今日、神の主な働きはサタンを負かすことである。つまり、それにより人を完全に征服し、その結果、人がサタンの前で、最終的な神の証しになるためである。このように、全てのことが成就されるだろう。多くの場合、あなたの肉眼では、何もなされなかったように見えるが、実際、働きはすでに完成されているのである。人はすべての仕事の完成が目に見えることを要求するが、それがあなたに見えなくても、わたしは働きを完成させたのである。というのはサタンが服従したということは、サタンが完全に敗北したということで、神の知恵、力、権威のすべてがサタンに勝利したという意味である。これこそまさに現れるべき証しであって、人に明白な表現はなく肉眼には見えなくても、サタンはすでに打ち負かされたのである。この働きのすべてがサタンに対抗しており、サタンとの戦いの故に実行される。そして、人は成功したと思わない多くの事があるが、神の目にはずいぶん前に成功しているのである。これはすべての神の働きの内なる真実の一つである。]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-07T13:13:36+00:00</published><updated>2020-01-07T13:13:36+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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		<figure>
			
		<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/recital-kingdom-selection-076-1.html">
			<img src="https://jp.kingdomsalvation.org/wp-content/uploads/thumb/home.jpg?n=0.11&t=191218" width="100%">
			<small><b>人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く   (半) | 神の国降臨の福音</b></small>
			<br>
			<small>人は今日の働きも将来の働きも多少理解できるが、自らの終着点を理解していない。被造物として、人はその本分を果たすべきである。つまり、人は何をする場合にも神に従うべきで、わたしがあなたがたに示す方向がどのようであれ、その方向に進むべきである。あなたは自分のための取り計らいの方法を知らず、自分自身の管理すらできない。すべては神の憐れみに委ねられなければならない。すべてのことは神の手に支配される。もし神の働きがあらかじめ人に終わりや、素晴らしい終着点を与え、神がこれを用いて人を引きつけたり従わせたりするなら、つまり、もし神が人と取引をするなら、これは征服ではなく、人のいのちに働くことでもない。神が人を支配し、人の心を自らのものとするために終わりを用いるなら、神が人を完全にしているのでもなく、それにより人を自らのものとすることもできない。単に終着点を使って人を支配しようとしているだけである。人が問題とすることは、未来の最後がどうなるか、終着点がどこか、それに自分が何か良いことを望めるかだけである。もし征服の働きが行われる間、人に素晴らしい望みが与えられ、人の征服に先立って人が追い求める最善の終着点が与えられるとしたら、人の征服はその効果を達成しないばかりか、征服の働きは本来の効果を発揮しないだろう。つまり征服の働きは、人の運命や将来性を取り上げ、人の反抗的な性質を裁き、罰することによってその効果を果たす。それは、人に祝福や恵みを与えるなどの言わば取引により達成されるものではなく、人の自由を取り上げ、将来を絶つことにより、人の忠誠心を明らかにすることで達成される。これが征服の働きの本質である。もし人が最初から素晴らしい望みが与えられ、刑罰や裁きがそのあとでなされるなら、人は将来のことを基にしてこの刑罰や裁きを受けるだろう。そして、最終的にすべての被造物による造り主への無条件の服従と礼拝が達成されることはないままだろう。そこには盲目で無知な従順さしかないか、人が神に盲目的に何かを要求するだけで、人の心の完全な征服はあり得ない。その結果、そのような征服の働きが人を神のものとすることもなく、人が神の証人となることなどさらに不可能だ。そのような被造物は自分たちの本分を果たすことはできず、神と取引をするだけだ。これは征服ではなく、憐れみと祝福だ。人も最も大きな問題は、人が自分の運命と将来</small>
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			<p>人は今日の働きも将来の働きも多少理解できるが、自らの終着点を理解していない。<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/god-is-the-lord-of-all-creation-selections.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>被造物</b></a>として、人はその本分を果たすべきである。つまり、人は何をする場合にも神に従うべきで、わたしがあなたがたに示す方向がどのようであれ、その方向に進むべきである。あなたは自分のための取り計らいの方法を知らず、自分自身の管理すらできない。すべては神の憐れみに委ねられなければならない。すべてのことは神の手に支配される。もし神の働きがあらかじめ人に終わりや、素晴らしい終着点を与え、神がこれを用いて人を引きつけたり従わせたりするなら、つまり、もし神が人と取引をするなら、これは征服ではなく、人のいのちに働くことでもない。神が人を支配し、人の心を自らのものとするために終わりを用いるなら、神が人を完全にしているのでもなく、それにより人を自らのものとすることもできない。単に終着点を使って人を支配しようとしているだけである。人が問題とすることは、未来の最後がどうなるか、終着点がどこか、それに自分が何か良いことを望めるかだけである。もし征服の働きが行われる間、人に素晴らしい望みが与えられ、人の征服に先立って人が追い求める最善の終着点が与えられるとしたら、人の征服はその効果を達成しないばかりか、征服の働きは本来の効果を発揮しないだろう。つまり征服の働きは、人の運命や将来性を取り上げ、人の反抗的な性質を裁き、罰することによってその効果を果たす。それは、人に祝福や恵みを与えるなどの言わば取引により達成されるものではなく、人の自由を取り上げ、将来を絶つことにより、人の忠誠心を明らかにすることで達成される。これが征服の働きの本質である。もし人が最初から素晴らしい望みが与えられ、刑罰や裁きがそのあとでなされるなら、人は将来のことを基にしてこの刑罰や裁きを受けるだろう。そして、最終的にすべての被造物による造り主への無条件の服従と礼拝が達成されることはないままだろう。そこには盲目で無知な従順さしかないか、人が神に盲目的に何かを要求するだけで、人の心の完全な征服はあり得ない。その結果、そのような征服の働きが人を神のものとすることもなく、人が神の証人となることなどさらに不可能だ。そのような被造物は自分たちの本分を果たすことはできず、神と取引をするだけだ。これは征服ではなく、憐れみと祝福だ。人も最も大きな問題は、人が自分の運命と将来のことしか考えず、それらを偶像視していることである。人は自分の運命と将来のために神を求めるだけで、神への愛から礼拝していない。そのため、人を征服するにあたり、人の身勝手さや貪欲、神に対する礼拝の妨げとなるものは、すべて排除されなければならない。そうすることによって、人の征服の効果が達成されるだろう。その結果、人を征服するもっとも初期の段階で、まず人の野心や最も嘆かわしい弱点を一掃し、これを通して人の神への愛を現わし、人間の人生、神に対する見方、自身の存在の意味などに関する自分の知識を変える必要がある。このようにして人の神への愛は清められ、それにより人の心が征服される。しかし、征服することだけを目的に征服することが、神の被造物全てに対する姿勢ではない。神は自らの栄光のため、また人の本来の似姿である初めの状態に戻すため、人を自らのものとするために征服するのである。神が征服することだけを目的として征服するなら、征服の働きの意義はない。つまり、もし人を征服した後、神が人から手を洗い、人の生死に注意を払うこともないなら、これは人類に対する経営（<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel/salvation-1.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">救い</a>）でも人の救いのための征服でもない。人が神により征服され、素晴らしい終着点へ到達して神のものとされることのみが救いの働きの中心であり、これによってのみ人の救いの目的は達成される。人は素晴らしい終着点に到着し、安息に入ることのみを被造物として思い描くべきで、造り主によってなされるべき働きも他にはない。もし人がこの働きをしようとするなら、あまりにも多くの制約がある。人はある時点までは行くことができても、永遠の終着点までは行くことができない。人が人の運命を決めることはできないし、人の将来や未来の終着点を確かにすることなど、尚更できない。しかし神による働きは異なる。神は人を創ったので、人を導く。神は人を<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/special-topic/three-stages-of-work/index.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救う</b></a>ので、完全に人を救い、完璧に人を自らのものにする。神は人を導くので、人を適切な終着点に連れて行く。神は人を創造し、統治するので、人の運命と将来に責任を持たなければならない。これこそ造り主によってなされる働きである。征服の働きは人の将来を絶つことでなされるが、人は最終的に神が用意した適切な終着点に連れて行かれなければならない。人が終着点を持ち、人の運命が確かにされるのは神が的確に人に働くからである。ここで言及されている適切な終着点とは、かつて清められた人の望みとか将来のことではない。この2つは異なったものである。人が望んだり追い求めたりするものは人のための終着点というより、肉の途方もない欲求への追求である。一方、神が人のために用意したものは、人が清くされた後に与えられる祝福と約束で、それは神が世界を創造した後、人に用意したもので、人の選択、観念、想像、あるいは肉などによる汚れはない。この終着点はある特定の人に用意されたものではなく、全人類の安息の地である。であれば、この終着点は人類に最適な終着点である。</p><p>造り主はすべての被造物を指揮することを意図している。あなたは神がすることは何であれ、放棄したりそむいたりしてはならないし、神に反抗すべきではない。神がする働きは、最終的には神の目的を達成し、それによって神が栄光を受ける。今日あなたはなぜモアブの子孫だとか、赤い大きな竜の子であると言わないのか。なぜ選びの民について語らず、被造物についてのみ語るのか。被造物――これは人の本来の肩書きで、人が生まれながらに持つ本質である。働きの時代や期間が異なっている故に、名前が色々あるわけである。実際、人は普通の被造物である。すべての被造物は、最も堕落したものであれ、最も聖いものであれ、被造物としての本分を果たさなければならない。神が征服の働きを実行するとき、神はあなたの将来性や、運命や、終着点を用いて管理するわけではない。実際このように働く必要もない。征服の働きの目的は、人に被造物としての本分を果たさせ、造り主を礼拝させることである。その後初めて人は素晴らしい終着点に入ることができる。人の運命は神の手で管理されている。あなたは自分自身を管理することはできない。いつも自分自身のことで忙しくしているのにもかかわらず、人は自分自身を管理することができないままでいる。あなたがもし自分の将来を知ることができ、自分の運命を管理できるなら、あなたは被造物だろうか。端的に言うと、神がどのように働いたとしても、その働きはすべて人のためである。たとえば、天、地、そして神が人のために造ったすべてのもの――神が人のために造った月、太陽、星など、また動物や植物、春、夏、秋、冬など――すべては人の存在のために造られたのである。それだから、神がどのように人を罰し、裁くにしても、それはすべて人の<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel/salvation-1.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救い</b></a>のためである。神が人から肉的な望みを剥ぎ取ったとしても、それは人を清めるためであり、人の清めは人の存在のためである。人の終着点は造り主の手にあるのだから、人はどうして自分自身を管理できるだろうか。</p><p>一旦、征服の働きが完成すると、人は美しい世界に連れて行かれる。もちろん、この生活はまだ地上にあるが、今日の人の生活とは全く似ていない。それは全人類が征服された後の生活で、地上の人間にとって新しい始まりであり、人類にとってそのような生活を送ることは、彼らが新しく美しい領域に入ったという証拠である。それは地上における人と神の生活の始まりである。そのような美しい生活の前提として、人は清められ征服され、造り主の前に服従しなければならない。そして、征服の働きは人が素晴らしい終着点に入る前の、神の働きの最終段階である。そのような生活は地上における人の未来の生活であり、地上で最も美しい生活で、人が待ち焦がれている生活で、世界史上人が決して達成したことのない生活である。それは六千年の経営の働きの最終的結果で、人類が最もあこがれる、神が人に約束したものでもある。しかし、この約束は直ちには実現されない。<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/only-christ-of-the-last-days-can-give-man-the-way-of-eternal-life-selections.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>終わりの日</b></a>の働きが完成され、人が完全に征服され、つまり、サタンが完全に敗北して初めて、人は未来の終着点に入るのである。人は練られた後、罪のない性質になる。なぜなら、神はサタンを打ち負かしたので、敵対する勢力の侵略はなく、敵対する勢力による人の肉への攻撃がなくなるからである。そして、人は自由になり、聖くなり――永遠へと入ったことになる。暗闇の敵対する勢力が縛られて初めて、人はどこに行っても自由で、反抗的行為や敵対する者たちもいなくなる。人が無事でいるために、サタンは縛られるより他ない。今日、サタンは地上のどこにおいても問題を引き起こしており、神の経営の働きはまだ全て終わってはいないので[a]人は無事ではない。一旦サタンが敗北すると、人が完全に解放される。人が神を得てサタンの領域から抜けると、義の太陽を見ることになる。普通の人の生活が取り戻される。普通の人が持つべきもの全て――善悪を見分ける能力、衣食の方法の理解、普通に生活する能力など――これらすべてが取り戻される。たとえエバが蛇に誘惑されなかったとしても、人は最初に創造された後、普通の生活を送ったはずである。人は食べ、服を着て、地上の普通の人の生活を送ったはずである。しかし人が堕落してから、このような生活は夢物語となり、今日でさえ、人はそのようなものを敢えて想像することすらしない。だが、人が憧れるこの美しい生活は不可欠である。もし人がそのような終着点を持っていないなら、彼の地上での堕落した生活は決して終わることがないだろう。もしそのような美しい生活がないなら、サタンの宿命やサタンが地上で支配する時代に結論は出ないだろう。人は暗闇の勢力によっては到達することができない領域に達しなければならない。そうするとき、サタンが敗北したことを証明するのである。このようにして、一旦サタンから邪魔が入らなくなると、神は自身で人間を管理し、人に命令を与えてその全人生を管理する。これによって初めてサタンが敗北したと見なされる。今日、人の一生は大方汚れの一生で、やはり苦しみと苦悩の一生である。これをサタンの敗北と呼ぶことはできない。人はまだ苦悩の海から逃げ出しておらず、人生の困難あるいはサタンの影響から抜け出しておらず、依然としてほんの少しの神の認識しか持っていない。人のすべての困難はサタンによって作られ、人の人生に苦しみをもたらしたのはサタンであり、サタンが縛られて初めて、人は苦難の海から完全に逃れることができるのである。しかし、サタンを束縛することは、人の心の征服や獲得を通して、そして人をサタンとの闘いの獲物にすることによって達成される。今日、人が勝利者になって、完全にされることを求めるのは、地上で普通の人の生活を送る以前に求めたことであり、サタンが束縛されること以前に人が求める目標である。人が勝利者になって完全にされ、大いに用いられることを求めるのは、実質的にサタンの影響から逃れることである。人が追求しているのは勝利者になることだが、最終結果はサタンの影響からの逃避である。サタンの影響から逃れることによって初めて人は地上で普通の人の生活、神を礼拝する生活を送ることができる。今日、人が勝利者になって完全になるのを求めることは地上での普通の人の生活を送る以前に求めることである。それらのことは、おもに清められ<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/reality-of-the-truth-1.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>真理</b></a>を実践に移すため、また造り主を礼拝するために求められる。もし人が地上で普通の人の生活、困難や苦悩のない生活を送っているなら、人は勝利者になるのを追い求めはしないだろう。「勝利者になること」と「完全にされること」とは神が人に追求するように与えたことで、これらの目的を通して、神は人が真理を実践し、意義深い人生を送るようにするのである。人を完全にさせ、神のものとすることが目的で、勝利者になって完全にされることへの追及はただの手段に過ぎない。もし将来、人が素晴らしい終着点に入ることになるなら、勝利者になって完全にされることについて言及されることはないだろう。被造物がそれぞれの本分を果たすだけである。今日、人の範囲を定義するために、ただこれらの事を求めさせているだけで、それによって人が追求するものの的が絞られ、実践的になるのである。これなしには、人が永遠のいのちに入ることを求めるのは漠然として抽象的であるだろうし、もしそうであれば、人はもっと哀れではないだろうか。目標や原則なしに、このように求めるのは――自己欺瞞ではないだろうか。究極的には、この追求は当然実を結ぶことはなく、最後には、人は依然としてサタンの領域の下に生きており、そこから脱出するのは不可能だろう。なぜ自分自身をそのように目的もなく追及する状態にするのか。人が永遠の終着点に入るとき、人は造り主を礼拝する。そして、人は救いを手にし、永遠に入れられるので、人は何の目的も追求しないし、その上、サタンによって捕えられるという心配もないだろう。この時、人は自分の立場を知り、本分を果たす。そして、彼らが罰せられたり裁かれたりしなくとも、人はそれぞれ自分たちの本分を果たすだろう。その時、人は身分においても、地位においても被造物である。高低の差別はもはやない。人はそれぞれの異なる役目を務めるだけである。しかし、人は依然として人類の規律ある適切な終着点において生きており、造り主を礼拝するために本分を果たす。そして、このような人間は永遠の人間となるであろう。その時、人は神に照らされた生活、つまり神の配慮と守りの下にある生活、そして神と共に生きる生活を獲得する。人類は地上で普通の生活を送り、人類全体は正しい軌道に入ることになる。六千年の経営計画は完全にサタンを敗北させるだろう。つまり、神は創造に従って人の本来の似姿を回復させ、そうして、神の本来の目的が成就されるという意味である。最初、サタンによって堕落させられる前は、人は地上で普通の生活を送っていた。その後、サタンに堕落させられた時、人はこの普通の生活を失った。それで、神の経営の働きと人の普通の生活を取り戻すためのサタンとの闘いが始まった。六千年にわたる神の経営の働きが終わって初めて、全人類の生活が地上で正式に始まり、そうして初めて人は素晴らしい生活をすることができ、そして神は最初に人を創造した目的と人の本来の似姿を回復するだろう。そのようなわけで、一旦地上で人類の普通の生活を始めると、人は勝利者になるとか完全にされるということを追求しなくなるだろう。というのは、人は聖くなるからである。人によって語られた勝利や完全さは、神とサタンとの戦いの間求めるために人に与えられた目的である。そしてそれらの目的は人が堕落したので存在しているだけである。あなたに目的を与え、この目的を追求させることによって、サタンを打ち負かすことができるのである。あなたが勝利者になったり、完全になったり、用いられるようになることを求めているのは、サタンが恥じ入るために証しとなることを求めているのである。最後には、人は地上で普通の人の生活を送り、人は聖くなるだろう。そしてこれが起こるとき、彼らはそれでも勝利者になることを求めるだろうか。彼らはみな被造物ではないのだろうか。勝利者になり、完全なものになることは、どちらもサタンと人の汚れに向けられている。この「勝利者」とはサタンや敵対する勢力に勝利することを意味しているのではないだろうか。あなたが自分は完全にされていると言うとき、あなたのどこが完全にされたのだろうか。あなたが神の崇高な愛を達成することができるよう、堕落したサタンの性質を自分たちから取り除いたということではないだろうか。そのようなことは人のうちの汚れたものと関連し、サタンと関係して語られる。神と関係して語られるのではない。</p><p>今日、あなたが勝利者になり完全にされることを求めないなら、将来、人類が地上で普通の生活を送るとき、そのような追求の機会はないであろう。その時、あらゆる人の最後が明かにされるだろう。その時、あなたはどんなものか明らかにされ、もしあなたが勝利者になり、完全にされることを願っても、それは不可能であろう。明らかにされてから、反抗心ゆえに、人は懲罰されるだけである。その時、人間が追求するものは他の人達より高い地位ではない。勝利者となることを追求する人があれば、完全にされることを追求する人もあり、また神の長子となることを追求するものや神の子になることを追求する人もいる。彼らはこれらのことを追求しない。すべての人たちは神の被造物で、すべての人たちは地上で生活し、すべての人たちは神と地上で生活するだろう。今こそ、神とサタンとの戦いの時で、この戦いはまだ終わっておらず、人はまだ完全に神のものとされず、そして移り変わりの期間である。そして、人は勝利者になるか神の民の一人になるか追求することを要求される。今日、地位に区別があるが、時が来ればそのような区別はなくなるのである。勝利を得たすべての人たちの地位は同じで、彼らはすべて資格のある人間で、地上で平等に生きるであろう。つまり、彼らはすべて資格のある被造物で、彼らに与えられる物はすべて同じという意味である。神の働きの時代は異なり、神の働きの対象も違うので、もしこの働きがあなたがたになされるなら、あなたがたは完全にされ、勝利者になる資格を持つ。もしそれが国外でなされたとしたら、彼らは征服されるための最初のグループ、また完全にされるための最初のグループになる資格を持つ。今日、この働きは国外ではなされていない。だから、彼らは完全にされ、勝利者になる資格はなく、彼らが最初のグループになるのは不可能である。神の働きの対象は異なっているので、神の働きの時代は違い、その範囲も異なっている。だから、最初のグループがあり、つまり、勝利者たちがいて、完全にされる第2のグループもいるだろう。完全にされた最初のグループがあれば、見本とひな型があり、だから将来は完全にされた人達の第2第3のグループが存在するだろうが、永遠においてはみな同じで、地位の上でも分類はされないだろう。彼らは単に異なった時に完全にされたのであって、地位の違いは全くない。すべての人たちが完全にされ、全宇宙の働きの終わりが来ると、地位に区別はなく、すべて平等となる。今日、この働きがあなたがたの間でなされ、その結果、あなたがたは勝利者になるであろう。もしこれがイギリスでなされたら、イギリスがあなたがたと同じように最初のグループをもつであろう。わたしがあなたがたの中で今日の働きを実行しているのは、ひたすら、特別に恵み深くなっているのである。そして、もしわたしがこの働きをあなたがたの間でしなかったら、同じように、あなたがたは第2のグループか、第3、第4、第5のグループとなるだろう。これは単に働きの順番の違いによるものである。第1と第2のグループは、一方の地位が高く、もう一方の地位が低いことを意味しているのではない。それは単にこの人たちが完全にされる順番を意味しているだけである。今日、これらの言葉があなたがたに伝えられているが、あなたがたはなぜもっと早くに知らされなかったのだろうか。なぜなら、過程を踏まえなければ、人々は極端に走る傾向があるからである。たとえば、イエスは当時「わたしが去ったように、わたしは再び来る。」と言った。今日、多くの人たちはこの言葉に夢中になり、彼らは白い衣を着て天に上げられるのを待つことだけを望んでいる。それだから、早く伝えない方が良い言葉が沢山ある。必要以上に早く語ってしまうと、人は極端な方向に走るからである。人の背丈はあまりに低く、これらの言葉の真理を見通すことができない。</p><p>人が地上で真の生活を達成すると、サタンの全勢力は縛られ、人は地上で楽に生きることになるだろう。物事は今日ほど複雑ではなくなるだろう。人間関係、社会関係、複雑な家族関係など…それらは厄介で、本当に苦しい。ここでの人の一生はとてもみじめである。人が一旦征服されると、彼の心と精神は変わるだろう。彼は神を畏れ敬う心を持ち、神を愛する心を持つだろう。全宇宙で神を愛することを求めるすべての人たちが征服され、つまりサタンが敗北し、サタン――暗闇の全勢力――が縛られると、地上での人の生活は困難でなくなり、地上で自由に生きることができるだろう。もし人の生活に肉的関係がなく、肉の複雑さがないなら、どれほど楽なことだろう。人の肉的関係はあまりにも複雑で、人にとってそのようなものを持つことは、彼がサタンの影響からまだ解放されていないことの証拠である。もしあなたが兄弟姉妹と同じ関係を持っていたら、もしあなたが家族と同じ関係を持っていたら、あなたは何の心配もしないだろうし、誰かを心配する必要もないだろう。これ以上のことはないだろうし、そうであれば人はその苦しみの半分から解放されるだろう。地上で普通の人間の生活をする人は、天使のようになる。依然として肉体を持っているけれども、人は天使のようになる。これは最後の約束で、人に与えられる最後の約束である。今日、人は刑罰や裁きを受けるが、あなたはそのような人の体験は無意味だと思うのか。刑罰や裁きの理由が全くなくなるだろうか。以前、人に刑罰を与え、裁くことは人を地獄に落とすことだと言われてきた。それは人の運命や将来を取り上げることを意味する。これは一つのこと、つまり人を清めるためである。神は人間から自身の手を洗ってから、人を故意に地獄に落すのではない。人の中にある反抗心に対処し、最終的に人の中にあるものが清められ、神に対して真の認識を持ち、人が聖人のようになるためである。もしこれがなされるなら、すべてが成就するだろう。実際、人の中にある対処されるはずのこれらのものが対処され、人が目覚ましい証しをするなら、サタンが打ち負かされ、たとえ人の中に本来あるものがまだ完全に清められず、少しは残っていても、一旦サタンが敗北すると、もはや困難をもたらすことはなく、その時人は完全に清められるであろう。人はそのような生活は体験したことがないが、サタンが打ち負かされると、すべてが解決し、人の中にある些細なことはすべて解決される。主な問題が解決されると、他の全ての問題も解決する。神が今回地上で人となり、神が人の間で自ら働きをする時、神がする全てのことはサタンを打ち負かすためである。そして、神は人を征服し、あなたがたを完全にすることで、サタンを敗北させるのである。あなたがたが目覚ましい証しをするとき、これもまた、サタンの敗北のしるしとなろう。サタンを打ち負かすために、人は最初に征服され、最終的に完全にされる。しかし、実質的にこれはサタンの敗北と同時に、全人類へのこのむなしい苦悩の海からの救いでもある。この働きが全世界で実行されるのか、中国で実行されるのかは別として、それはすべてサタンを負かすことであり、人が安息の地に入るよう全人類に救いをもたらすためである。神が普通の肉体を持ったことは正にサタンを負かすためだ。肉体の神の働きは神を愛する天の下にいる全ての人たちに救いをもたらすためであり、全人類を征服するためであり、さらには、サタンを負かすためである。神の経営の働きの中心は、全人類に救いをもたらすためのサタンの敗北と切り離せない。この働きの多くにおいて、あなたがたに証しをするように常に言うのはなぜだろうか。そしてその証しは誰に向けられるのか。サタンに向けられてはいないか。この証しは神のためになされ、神の働きがその効果を達成したことを証しするためのものである。証しをすることはサタンを負かす働きと関係している。もしサタンとの戦いがなかったら、人は証しをするよう要求されないだろう。サタンは敗北しなければならないので、人を救うと同時に、神はサタンの前で人が神に証しをするよう要求される。それは神が人を救い、サタンと戦いをするために用いられる。であるから、人は救いの対象でもあり、サタンを打ち負かすための道具でもある。そのため、人は神の経営全体の働きの核心におり、サタンは崩壊の対象、つまり敵にしかすぎない。あなたは自分は何もしていないと感じるかもしれないが、あなたの性質が変わることで、証しが生まれている。そしてこの証しは人に対してではなく、サタンに向けられている。人はそのような証しを楽しむのに適していない。神によってなされた働きを人はどのように理解することができるだろうか。神の戦いの対象はサタンであり、一方、人は救いの対象でしかない。人は堕落したサタンの性質を持っており、この働きを理解することはできない。これはサタンが堕落しているからである。それは人の中に生まれつきあるのではないが、サタンによって仕向けられる。今日、神の主な働きはサタンを負かすことである。つまり、それにより人を完全に征服し、その結果、人がサタンの前で、最終的な神の証しになるためである。このように、全てのことが成就されるだろう。多くの場合、あなたの肉眼では、何もなされなかったように見えるが、実際、働きはすでに完成されているのである。人はすべての仕事の完成が目に見えることを要求するが、それがあなたに見えなくても、わたしは働きを完成させたのである。というのはサタンが服従したということは、サタンが完全に敗北したということで、神の知恵、力、権威のすべてがサタンに勝利したという意味である。これこそまさに現れるべき証しであって、人に明白な表現はなく肉眼には見えなくても、サタンはすでに打ち負かされたのである。この働きのすべてがサタンに対抗しており、サタンとの戦いの故に実行される。そして、人は成功したと思わない多くの事があるが、神の目にはずいぶん前に成功しているのである。これはすべての神の働きの内なる真実の一つである。</p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[YouTubeからのお知らせのおかげで私は主と再会できたのです]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7548568/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7548568</id><summary><![CDATA[生きていると、偶然の出来事が予期せぬ結果につながることがあるものです。数か月前、私の身に思いもよらない、素晴らしいことが起こりました。Youtubeからのお知らせのおかげで、私は主と再会できたのです。六月のある朝、私は早く目が覚め、いつも枕元に置いてある聖書を静かにぱらぱらとめくっていました。そして主イエスがパリサイ人たちを叱責された時に言われた御言葉を読みました。「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」（マタイによる福音書 21:13）これを読んで私は不安を拭えませんでした。私の教会の状況が、律法の時代の末期の神殿の状況と全く同じになっていたからです。私の教会では牧師や長老が、信徒たちは互いに愛し合わなければならないとよく説いているのに、実際は彼ら自身が教会員のために祈った代償として彼らから現金の贈り物を受け取っていて、時には受け取った金額でその贈り主のために祈る時間を決めたりもしていたのです。教会は神を崇拝するための場所であるはずですが、ただ信徒が結婚式を挙げる所になってしまっていました。信者の数は日に日に少なくなり、牧師や長老は説教に力を注がなかったり、主の信徒たちを最も良く牧するよう努めなかったりして、替わりに結婚式を執り行うのを楽しんでばかりいました。私は、「牧師や長老は主の道から外れて、教会はもはや外の世界と何ら変わりがない。まさに律法の時代の末期の神殿みたいに強盗の巣となってしまった。それでも主は再臨される際に、こんな教会に現れてくださるだろうか」と考えずにはいられませんでした。「ビー、ビー、ビー」目覚ましのアラームが私の考え事を断ち切りました。携帯電話を手に取って音を止め、偶然目にとまったのがYouTubeからのお知らせでした。一見なじみがあるような「全能神教会」という語句が目を引きました。以前どこかで聞いたようだと思いましたが、その時はどこでだか思い出せませんでした。とても不思議で、「YouTubeで全能神教会の動画にチャンネル登録したことなんてないのに、なんでYouTubeはこの教会のお知らせを私に送ってきたのかしら」と思いました。そして急に、一か月ほど前、友人に連れられて全能神教会での説教を聴きに行ったことを思いだしたのです。彼らの説教は新鮮で光が照らすようで、聖書に沿ったものでした。私にはとても爽快に感じられました。その話をもっと吟味してみたいと思いましたが、友人が言うには、全能神教会は、主が受肉した全能神として既に再臨され、終わりの日の新しい段階の働きを行い、多くの真理を表しておられると宣言しているというのです。また友人は、全能神教会の信徒はみな聖書ではなく全能神が発せられた言葉を読むのだと言いました。だから私は思ったのです。「牧師や長老たちが集会でよく言うのは、神の御言葉はすべて聖書に書いてあり、聖書の他に神の御言葉なり働きなりがあろうはずがないということ。それに、信徒たちはみな時代を越えてずっと聖書をとおして主を信じてきて、主を信じることは聖書を信じることなのだから、聖書から離れた者がそれでも主を信じているなどということがありうるだろうか」その友人は全能神教会での説教を聴きにいこうと私を誘いましたが、私はそのたびに断っていました。携帯電話の例のお知らせを見るにつけ、不思議に思えてなりませんでした。「チャンネル登録してもいないのに、全能神教会に関連する知らせが来た。主がそのようにされたってことがありうるかしら」それでも、自分の観念にこだわった私は、リンクに飛んで全能神教会動画を見ませんでした。しかし驚いたことに、その後の数日間に何度もYouTubeから、全能神教会がアップロードした新しい映画や讃美歌の動画のおすすめが来たのです。「主が本当に私をお導きになっているのではないか。私が全能神の動画を観ることが神の御意志なのか」そこで私は主に祈りました。「愛する主よ。なぜ全能神教会からのお知らせを携帯で受け取っているのでしょうか。彼らは主が既に再臨されたと宣言していますが、それは事実なのですか。これらの動画を見るべきですか。ああ主よ、どうか私をお導きください」その後、私は主イエスの「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」（マタイによる福音書 5:3）という御言葉について考えました。私は思いました。「そうだ。主の再臨はとても重要。主が戻られたという知らせを聞いたからには、全能神が本当に再臨された主イエスなのかどうか、心を開いて求め、真剣に吟味し、慎重に見分けなければ。私が求めたり吟味したりせず、主が本当に再臨されていたのだったら、私は主と再会するチャンスを逃すことになるのではないか」そう考え、私は全能神教会の動画を観ることにしました。主よ、感謝します。動画を観なければ、私は決して知ることはなかったでしょう。動画を観て初めて、YouTubeの全能神教会チャンネルには願ってもないほどのものが何でも揃っていることがわかりました。しかもその数は膨大なのです。福音の動画、合唱団の演奏、ミュージックビデオ、讃美歌、などなどです。あらゆる歌や福音の動画はすぐに私の注意を引き、特に「私の愛する方よどうか待っていて下さい」という讃美歌のミュージックビデオに深い感動を覚えました。これを観た時、私は所属教会の荒廃のせいで聖霊の働きのある教会をあちこちで探していた過去数年間の経験を思い出していました。動画を観れば観るほど、他の動画もどんどん観たくなりました。私はとてつもなく力づけられ、また全能神教会のことをもっと理解したい、調べたいと願いました。ある日、私は福音映画「私の主は誰か」から抜粋された「聖書と主とは、どんな関係でしょう？」というタイトルの素晴らしい動画を観ました。この動画の中の全能神の御言葉の一節が、非常に深く印象に残りました。「彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で預言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、あくまで言葉に固執した人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。」（『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より）全能神の御言葉は聖書に対する私たちの姿勢を完璧に明らかにしていました。心の中で私も実際、聖書を他の何よりも上にあるものと見ていました。主の御言葉はすべて聖書の中にあり、したがって聖書は主を代表しており、主への信仰を持つことは聖書を信仰することで、聖書から離れることは、その人が主を信じているはずがないことを意味するのだと考えていたのです。しかし、理解できないこともありました。聖書は主の証しです。私たちの信仰の基盤を成すもので、私たちクリスチャンは二千年間、聖書に基づいて主を信じてきました。そして聖書を主への信仰から分離させた人は一人としていません。ならばなぜ、全能神の御言葉には、聖書を神と同一視することはできない、とあるのでしょうか。それはどういう意味なのでしょうか。私はその動画を観続けました。次に、全能神教会の兄弟が説教をしました。「主を信じるとはどういうことですか？聖書を信じるとは？聖書と主とは、どんな関係でしょう？聖書と主と、どちらが先だったでしょう？では誰が、救いの働きをするんでしょうか？では聖書が、主に代わってできますか？聖書は主を代弁できますか？聖書を盲信して崇めることは、神様を礼拝することになりますか？聖書にしがみついて、御言葉の実践や体験ができるんですか？聖書にこだわるのが、主の道に従うことでしょうか？聖書を何よりも上に置くことは、主に従順で敬虔で、主を崇拝することですか？…何千年も、人々はやみくもに聖書を崇め、主と同じ地位を与えてきました聖書を主とその働きの代わりにする人さえいますしかし、誰も本当の意味で主を知らず、従順でもないパリサイ人たちは聖書にこだわり、主イエスを十字架にかけましたどういうわけでしょう？聖書を知ることが神様を知ることでしょうか？聖書にこだわれば、主の道にかなうんでしょうか？パリサイ人は聖書の専門家でも神様を知らなかったそればかりか、真理を表し贖いをされた主イエスを磔にしました私たちはそれを忘れたんですか？神様を知るとはどういうことです？聖書を解釈し理解するのが、神様を知ることですか？もしそうなら聖書を解釈したパリサイ人が、なぜ主イエスを非難し、敵対したんでしょう？真に神様を知り従えるかどうかは受肉したキリストを、知っていて従えるかどうか、そこで決まるんです。」この兄弟の問いかけについて熟考しながら、心の中で答えました。「確かに主が最初にいらっしゃり、それから聖書が現れた。そして聖書には人類を救う働きはできない。聖書は聖書、主は主。私はずっと聖書が主を代表していると信じていた。では、私は聖書を主より上にあると見なしてきたことにならないか？」こう考えて突然はっと気づき、思いました。「主は主であり、聖書は聖書。ならば牧師や長老が言うことに従って、聖書を偶像化して全ての上にあると見なしてきたことで、私は主の御心に従って実践してきたことになるのだろうか？」そして次に思いました。「聖書から離れたら、どうして主への信仰を真に主への信仰と呼べるのか。主への信仰において聖書に執着していた私たちは、まさか間違っていたのか？」ちょうどその時、主イエスが話された御言葉が私の頭に浮かびました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」（ヨハネによる福音書 5:39–40）この御言葉について深く考えて気づいたのは、聖書は神の証しに過ぎないということ、そして主の承認を受けていのちを得たいと望むなら、主を求めなければならないということでした。「聖書が主を代表することは本当にできないようね」と私は思いました。「私たちのいのちのためにほどこして下さるのは主であり、聖書ではない。そして聖書を信じることが主を信じることや主に従うことではない。もし聖書に盲目的に執着して偶像化し続け、神様の新たな働きを求めることも、従うこともしなければ、最後はパリサイ人同然になって神様を再び十字架にかけてしまいそう。全能神の御言葉には真理があり、私の観念や困惑を解消してくれる。主の再臨を歓迎するチャンスを逃さないように、真剣に吟味し求めなければ」こう思った私は、全能神教会のことを知るために、教会に連れていってほしいと友人に頼むことにしました。友人と私が全能神教会に着くと、兄弟姉妹が暖かく歓迎してくれ、それから私たちと根気よく交わってくれました。私はお願いしました。「最近、こちらの教会のホームページの映画や動画からたくさん学ばせてもらっていて、全能神の御言葉には真理があり、私の問題や困惑を解いてくれて、真理を理解させてくれると思っています。でもまだ理解できないことがあるんです。牧師や長老が私たちによく言うのは、神の御言葉はすべて聖書の中にあり、聖書が神への私たちの信仰の基礎であり、主を信じる者は聖書から離れるわけにはいかない、ということです。それでも、こちらでは主イエスが全能神として既に再臨され、終わりの日の働きの新しい段階を行われ、新しい御言葉を発せられていると宣言していますよね。これは一体どういう意味なのですか。これに関して私に話していただけませんか」チュ（周）姉妹が、映画「私の主は誰か」から抜粋された「神の働きと言葉のすべてが聖書の中にありますか？」というタイトルの素晴らしい動画を見せながら、私の質問に応えてくれました。映画に出てくる説教師が、語っていました。「旧約と新約聖書とは神様の働きの２つの段階の記録に過ぎません律法の時代と恵みの時代の御言葉と働きについてもすべてが記されていると言い切れますか？律法の時代に預言者を通じて語られた御言葉すべてと、恵みの時代の主イエスの御言葉すべてが、記録されたと言えますか？皆さんも、お気づきのはずですが主の御言葉は、その多くが、聖書にも記されていません聖書に記された主イエスの御言葉は、氷山の一角に過ぎないんです律法の時代の預言者の書の多くも、聖書には含まれていませんこれはよく知られたことです御言葉と働きが、すべて聖書にあるとは、言えないんじゃありませんか？事実と明らかに、矛盾していませんか？そういう意味では、あなた方は嘘つきでは？主イエスは何度も再臨を預言されました再臨した主の御言葉が前もって聖書に記されることがありえますか？これだけは、はっきりさせておきましょう聖書は過去の、神様の働きの記録なんです旧約聖書が記されたずっと後に、主イエスが現れ、恵みの時代に罪の贖いをされた、そうでしたね？では聞きますが、主イエスの御言葉は、自動的に聖書に記されるんですか？神様の御言葉と働きは、人が編纂して、聖書にまとめられたんです終わりの日に、全能神は来られ、裁きの働きを神の家から始められ、人々を清め救うための真理を表されましたこれらの真理が、自動的に聖書に書かれますか？まさか、そんなバカな、そうです全能神教会は全能神によって表された真理を、神の国の時代の聖書に記録しますそれが、『言葉は肉において現れる』神の国の時代の聖書には、神様の御言葉だけ人の言葉はありません言い換えれば『言葉は肉において現れる』は、終わりの日に、神様が人に与える、永遠の命の道なんですですから、神様の御言葉が、聖書にすべて記され聖書以外に、御言葉や働きがないなど、そんなことは、間違いであり、愚かであり人間の思い込みと想像の産物です」この説教師の話を聴いた後、それは事実に即していると感じました。聖書は私たちの神への信仰において使う参考書とはなりうるけれども、主を代表することはできず、ましてや主の御言葉や働きを代表することなどできません。正しく聖書に取り組まなければならず、聖書と主を同列と見なしてはならないと、ましてや神の働きや御言葉を聖書の紙面に限定してはならないとわかりました。聖書は、以前の二段階の神の働きを記録したものに過ぎず、律法の時代と恵みの時代の神の働きを記録しているのです。しかし神はあまりに偉大であまりに豊かです。なのにどうして聖書という一冊の本に神についてのすべてが収められるでしょうか。ヨハネによる福音書にはこうあります。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」（ヨハネによる福音書 21：25）どうやら主イエスの働きと御言葉のすべてが聖書に記録されているわけではないようで、それなのに私は宗教界の牧師や長老による解釈に沿って歩んできて、聖書にある神の働きと御言葉以外には神の働きや御言葉はないと信じてきたのです。なんと盲目的なばか者だったのでしょう。人の観念や想像に固執していたなんて。このような見方は全く擁護できません。その動画を観続けていると、説教師が全能神の御言葉を何節か読み上げました。「聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。」（『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義（1）」より）「当時、イエスは恵みの時代において弟子たちに一連の説教しか語らなかった。たとえば実践のしかた、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方などである。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、弟子たちやイエスに従う人々がどのように実践すべきかについてしか釈義しなかった。恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何もしなかった。…各時代の神の働きには明確な境界がある。神は現在の時代の働きだけを行い、次の段階の働きを前もって行うことは決してない。このようにしてのみ、神の各時代の代表的な働きは前面に引き出される。イエスは終わりの日のしるし、いかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどのように進入すべきか、どのように追求すれば神の心を満足させるかについては語らなかった。したがって、終わりの日の神の働きを聖書の中に捜し求めるのは誤った考えに基づく行為ではないだろうか。手に聖書を携えているだけでなにを見分けることができるのか。聖書の解釈者であれ説教者であれ、誰が今日の働きを予知することができようか。」（『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」より）「律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たいのなら、旧約を読まなければいけない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約を読まなければいけない。しかし、終わりの日の働きについては、どうすればいいのか。今日の神の導きを受け入れ今日の働きに入らなければいけない。これが新たな働きであり、誰も予め聖書に記録していないからだ。今日、神は中国で肉となり、新たな民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、恵みの時代の働きから続いて、地の働きを続ける。今日の働きの道は人間がかつて歩んだことのないもので、誰も見たことのないものである。それはかつて誰もしたことのない働きであり、それは神が地上で行う最新の働きだ。…どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が載っているだろう。誰が今日の働きの細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することができただろう。あのカビ臭い古い本に、この、慣習を破る、より大きな賢い働きを、誰が記録できるだろう。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければいけない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。」（『言葉は肉において現れる』の「聖書について（1）」より）説教師が神の御言葉を読み上げた後、映画の中で兄弟の一人が説教をし、言いました。「全能神の御言葉は、事実に即していますね聖書に載っているのは、律法と恵みの時代の御言葉と働きだけなんです終わりの日の働きは、事前に聖書に記すことはできません聖書に御言葉と働きのすべてがあると以前は言ってたけどそれは神様の働きの事実に即しません」神の御言葉と兄弟の説教を聴いた後、私は賛同してうなずかずにはいられませんでした。私は思いました。「その通りだ。神様がまだなさっていない働きについて誰が聖書に書けるというの。今ようやく、ヨハネの黙示録の第５章第５節を理解したわ。『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』ここで言われているのは、七つの封印で閉じられた本は終わりの日に主が再臨されて初めて開くことができるということで、つまり、主には聖書には記録されていない、これから言われる御言葉とこれから行われる働きがあることを示しているのではないかしら」こう考えた私は、もっと早く全能神教会のことを調べなかったことを悔やみました。牧師と長老に盲目的に従ったり、自分の観念や想像を頼みにして神の働きを限定して考えたりするべきでは本当になかったのです。チュ姉妹が次に説教をし、言いました。「姉妹である蘭さん、この動画を観た今、聖書とは神の過去の働きの記録と神の働きの証しにすぎないと、そして終わりの日に人類を救うために働きをなさる神に聖書が取って代わることはできないと私たちは理解しています。神の働きは常に前進しています。そして今日、全能神は働きの新しい段階を実施されています。つまり、主イエスの贖いの働きの基盤の上に、神の国の時代において裁き、罰するために言葉を使うという働きです。これは聖書の預言を完全に成就します。『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。 』（ヨハネによる福音書 12：47-48）『さばきが神の家から始められる時がきた。』（ペテロの第一の手紙 4：7）終わりの日の全能神の御言葉と働きは、聖書を否定するものではなく、律法の時代と恵みの時代の神の御言葉と働きよりも高く深4いレベルにあるのです。そして全能神の働きは、現代の私たちが必要とするものに合っているのです。全能神の御言葉は、神の国の時代の聖書『言葉は肉において現れる』を成すものです。これらの言葉は終わりの日に神が人類に与える永遠のいのちの道であり、神の働きの三段階の奥義と神の受肉の奥義を明らかにし、神の性質、神が所有するものと神そのもの、神の全能性と知恵を表現するものなのです。またおもに神を称賛する道、神に証しし神に仕える道、真理の現実に入る道、そして完全なる救いを得、完璧にされる道を私たちに示してくれるのです。終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の働きに遅れずついていき、神の現在の御言葉から糧を得て初めて、私たちは聖霊の働きを得ることができるのです。もしずっと聖書にこだわり、終りの日の神の働きや発言を受け入れることや神の働きの足跡についていくことを拒否していたら、神がわたしたちに供給してくださる生きているいのちの水を得ることができず、ただ排除され捨てられるだけです。今、あらゆる宗教や教派がどんどん荒廃しています。終わりの日の神の働きに歩調を合わせず、神の現在の御言葉から糧を得ていないため、出口の見えない荒野で迷ってしまっているのです」全能神教会の兄弟姉妹による説教をとおして、私は、終りの日の全能神の働きは完全に聖書の預言に沿ったもので、聖書から全く逸れていないということを理解しました。それどころか、私たちが罪の枷をきっぱりと断ち、神により清められ救われるよう、そして神から真理といのちを得られるようにと、神が私たちの必要とするものに合わせてさらに新しく高い段階の働きを実施されているのです。私はまた、宗教界がなぜどんどん荒廃し劣化しているのか、なぜいつも霊がからからに乾いているように感じるのかを理解するようになりました。それは、私たちが傲慢でうぬぼれて自分の観念にこだわり、神の御言葉と働きを聖書の紙面に限定してとらえ、終わりの日の神の新しい働きを求めず受け入れず、子羊の足跡に遅れずについていっていないからです。その後、兄弟姉妹は私にあらゆる真理について話してくれ、神の御言葉が私の問題や混乱を一つずつ解決していったのです。全能神は再臨された主イエスだと、私は絶対の確信を得ました。そして私の心は主への感謝で満たされました。終りの日の神の働きを受け入れてから、私は教会生活に積極的に参加するようになり、神の御言葉によって潤い、糧を得て、兄弟姉妹と交わることにより、それまでずっと理解せずにいた多くの真理や奥義を理解するようになり、私の霊は満たされました。私はどんどん神に近づいているように感じ、私の心はどんどん光に満ちていき、毎日平安と喜びにあふれているのを感じました。時には、自分がいかに聖書に固執していたか、いかに神の御言葉と働きを聖書の紙面に限定して考え終わりの日の神の働きを求めたり吟味したりすることをいかに拒否していたかを思い出すと、とてつもない後悔を感じ、また神に対し多大な恩を感じるのでした。自分が本当にどれほど盲目で無知だったかがわかったのです。神がYouTubeにより私に全能神教会のお知らせを送り、私に神の御声を聞かせるという憐れみを見せて私をお救いくださらなかったら、私は今でも牧師や長老に盲目的に従っていたでしょう。そして終りの日の神の働きを求めたり吟味したりしてはいなかったでしょう。だとしたら、私は百年間聖書を読んでもいまだに主の再臨をお迎えできずにいたことでしょう。今日、終わりの日の神の救いを受けることができているのも、ひとえに神の統率とお導きによるものであり、神の驚くべき救いです。神に感謝します。韓国李蘭（イ・ラン）FacebookTwitterLine分享]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-06T07:38:56+00:00</published><updated>2020-01-06T07:38:56+00:00</updated><content 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			<p>生きていると、偶然の出来事が予期せぬ結果につながることがあるものです。数か月前、私の身に思いもよらない、素晴らしいことが起こりました。Youtubeからのお知らせのおかげで、私は主と再会できたのです。</p><p>六月のある朝、私は早く目が覚め、いつも枕元に置いてある<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel-categories/inside-story-of-the-bible.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>聖書</b></a>を静かにぱらぱらとめくっていました。そして<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/thesecondcomingofjesus.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>主イエス</b></a>がパリサイ人たちを叱責された時に言われた御言葉を読みました。「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」（マタイによる福音書 21:13）これを読んで私は不安を拭えませんでした。私の教会の状況が、律法の時代の末期の神殿の状況と全く同じになっていたからです。私の教会では牧師や長老が、信徒たちは互いに愛し合わなければならないとよく説いているのに、実際は彼ら自身が教会員のために祈った代償として彼らから現金の贈り物を受け取っていて、時には受け取った金額でその贈り主のために祈る時間を決めたりもしていたのです。教会は神を崇拝するための場所であるはずですが、ただ信徒が結婚式を挙げる所になってしまっていました。信者の数は日に日に少なくなり、牧師や長老は説教に力を注がなかったり、主の信徒たちを最も良く牧するよう努めなかったりして、替わりに結婚式を執り行うのを楽しんでばかりいました。私は、「牧師や長老は主の道から外れて、教会はもはや外の世界と何ら変わりがない。まさに律法の時代の末期の神殿みたいに強盗の巣となってしまった。それでも主は再臨される際に、こんな教会に現れてくださるだろうか」と考えずにはいられませんでした。</p><p>「ビー、ビー、ビー」目覚ましのアラームが私の考え事を断ち切りました。携帯電話を手に取って音を止め、偶然目にとまったのがYouTubeからのお知らせでした。一見なじみがあるような「<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/about-3.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>全能神教会</b></a>」という語句が目を引きました。以前どこかで聞いたようだと思いましたが、その時はどこでだか思い出せませんでした。とても不思議で、「YouTubeで全能神教会の動画にチャンネル登録したことなんてないのに、なんでYouTubeはこの教会のお知らせを私に送ってきたのかしら」と思いました。そして急に、一か月ほど前、友人に連れられて全能神教会での説教を聴きに行ったことを思いだしたのです。彼らの説教は新鮮で光が照らすようで、聖書に沿ったものでした。私にはとても爽快に感じられました。その話をもっと吟味してみたいと思いましたが、友人が言うには、全能神教会は、主が受肉した<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/about-us-questions-4.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>全能神</b></a>として既に再臨され、<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/only-christ-of-the-last-days-can-give-man-the-way-of-eternal-life-selections.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>終わりの日</b></a>の新しい段階の働きを行い、多くの真理を表しておられると宣言しているというのです。また友人は、全能神教会の信徒はみな聖書ではなく全能神が発せられた言葉を読むのだと言いました。だから私は思ったのです。「牧師や長老たちが集会でよく言うのは、神の御言葉はすべて聖書に書いてあり、聖書の他に神の御言葉なり働きなりがあろうはずがないということ。それに、信徒たちはみな時代を越えてずっと聖書をとおして主を信じてきて、主を信じることは聖書を信じることなのだから、聖書から離れた者がそれでも主を信じているなどということがありうるだろうか」その友人は全能神教会での説教を聴きにいこうと私を誘いましたが、私はそのたびに断っていました。携帯電話の例のお知らせを見るにつけ、不思議に思えてなりませんでした。「チャンネル登録してもいないのに、全能神教会に関連する知らせが来た。主がそのようにされたってことがありうるかしら」それでも、自分の観念にこだわった私は、リンクに飛んで全能神教会動画を見ませんでした。</p><p>しかし驚いたことに、その後の数日間に何度もYouTubeから、全能神教会がアップロードした新しい映画や讃美歌の動画のおすすめが来たのです。「主が本当に私をお導きになっているのではないか。私が全能神の動画を観ることが神の御意志なのか」そこで私は主に祈りました。「愛する主よ。なぜ全能神教会からのお知らせを携帯で受け取っているのでしょうか。彼らは主が既に再臨されたと宣言していますが、それは事実なのですか。これらの動画を見るべきですか。ああ主よ、どうか私をお導きください」その後、私は主イエスの「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」（マタイによる福音書 5:3）という御言葉について考えました。私は思いました。「そうだ。主の再臨はとても重要。主が戻られたという知らせを聞いたからには、全能神が本当に再臨された主イエスなのかどうか、心を開いて求め、真剣に吟味し、慎重に見分けなければ。私が求めたり吟味したりせず、主が本当に再臨されていたのだったら、私は主と再会するチャンスを逃すことになるのではないか」そう考え、私は全能神教会の動画を観ることにしました。主よ、感謝します。動画を観なければ、私は決して知ることはなかったでしょう。動画を観て初めて、YouTubeの全能神教会チャンネルには願ってもないほどのものが何でも揃っていることがわかりました。しかもその数は膨大なのです。福音の動画、合唱団の演奏、ミュージックビデオ、讃美歌、などなどです。あらゆる歌や福音の動画はすぐに私の注意を引き、特に「私の愛する方よどうか待っていて下さい」という讃美歌のミュージックビデオに深い感動を覚えました。これを観た時、私は所属教会の荒廃のせいで聖霊の働きのある教会をあちこちで探していた過去数年間の経験を思い出していました。動画を観れば観るほど、他の動画もどんどん観たくなりました。私はとてつもなく力づけられ、また全能神教会のことをもっと理解したい、調べたいと願いました。</p><p>ある日、私は福音映画「私の主は誰か」から抜粋された「聖書と主とは、どんな関係でしょう？」というタイトルの素晴らしい動画を観ました。この動画の中の全能神の御言葉の一節が、非常に深く印象に残りました。「彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で預言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、あくまで言葉に固執した人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。」（『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より）全能神の御言葉は聖書に対する私たちの姿勢を完璧に明らかにしていました。心の中で私も実際、聖書を他の何よりも上にあるものと見ていました。主の御言葉はすべて聖書の中にあり、したがって聖書は主を代表しており、主への信仰を持つことは聖書を信仰することで、聖書から離れることは、その人が主を信じているはずがないことを意味するのだと考えていたのです。しかし、理解できないこともありました。聖書は主の証しです。私たちの信仰の基盤を成すもので、私たちクリスチャンは二千年間、聖書に基づいて主を信じてきました。そして聖書を主への信仰から分離させた人は一人としていません。ならばなぜ、全能神の御言葉には、聖書を神と同一視することはできない、とあるのでしょうか。それはどういう意味なのでしょうか。</p><p>私はその動画を観続けました。次に、全能神教会の兄弟が説教をしました。「主を信じるとはどういうことですか？聖書を信じるとは？聖書と主とは、どんな関係でしょう？聖書と主と、どちらが先だったでしょう？では誰が、救いの働きをするんでしょうか？では聖書が、主に代わってできますか？聖書は主を代弁できますか？聖書を盲信して崇めることは、神様を礼拝することになりますか？聖書にしがみついて、御言葉の実践や体験ができるんですか？聖書にこだわるのが、主の道に従うことでしょうか？聖書を何よりも上に置くことは、主に従順で敬虔で、主を崇拝することですか？…何千年も、人々はやみくもに聖書を崇め、主と同じ地位を与えてきました聖書を主とその働きの代わりにする人さえいますしかし、誰も本当の意味で主を知らず、従順でもないパリサイ人たちは聖書にこだわり、主イエスを十字架にかけましたどういうわけでしょう？聖書を知ることが神様を知ることでしょうか？聖書にこだわれば、主の道にかなうんでしょうか？パリサイ人は聖書の専門家でも神様を知らなかったそればかりか、真理を表し贖いをされた主イエスを磔にしました私たちはそれを忘れたんですか？神様を知るとはどういうことです？聖書を解釈し理解するのが、神様を知ることですか？もしそうなら聖書を解釈したパリサイ人が、なぜ主イエスを非難し、敵対したんでしょう？真に神様を知り従えるかどうかは受肉したキリストを、知っていて従えるかどうか、そこで決まるんです。」</p><p>この兄弟の問いかけについて熟考しながら、心の中で答えました。「確かに主が最初にいらっしゃり、それから聖書が現れた。そして聖書には人類を救う働きはできない。聖書は聖書、主は主。私はずっと聖書が主を代表していると信じていた。では、私は聖書を主より上にあると見なしてきたことにならないか？」こう考えて突然はっと気づき、思いました。「主は主であり、聖書は聖書。ならば牧師や長老が言うことに従って、聖書を偶像化して全ての上にあると見なしてきたことで、私は主の御心に従って実践してきたことになるのだろうか？」そして次に思いました。「聖書から離れたら、どうして主への信仰を真に主への信仰と呼べるのか。主への信仰において聖書に執着していた私たちは、まさか間違っていたのか？」ちょうどその時、主イエスが話された御言葉が私の頭に浮かびました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」（ヨハネによる福音書 5:39–40）この御言葉について深く考えて気づいたのは、聖書は神の証しに過ぎないということ、そして主の承認を受けていのちを得たいと望むなら、主を求めなければならないということでした。「聖書が主を代表することは本当にできないようね」と私は思いました。「私たちのいのちのためにほどこして下さるのは主であり、聖書ではない。そして聖書を信じることが主を信じることや主に従うことではない。もし聖書に盲目的に執着して偶像化し続け、神様の新たな働きを求めることも、従うこともしなければ、最後はパリサイ人同然になって神様を再び十字架にかけてしまいそう。全能神の御言葉には真理があり、私の観念や困惑を解消してくれる。主の再臨を歓迎するチャンスを逃さないように、真剣に吟味し求めなければ」こう思った私は、全能神教会のことを知るために、教会に連れていってほしいと友人に頼むことにしました。</p><p>友人と私が全能神教会に着くと、兄弟姉妹が暖かく歓迎してくれ、それから私たちと根気よく交わってくれました。私はお願いしました。「最近、こちらの教会のホームページの映画や動画からたくさん学ばせてもらっていて、全能神の御言葉には真理があり、私の問題や困惑を解いてくれて、真理を理解させてくれると思っています。でもまだ理解できないことがあるんです。牧師や長老が私たちによく言うのは、神の御言葉はすべて聖書の中にあり、聖書が神への私たちの信仰の基礎であり、主を信じる者は聖書から離れるわけにはいかない、ということです。それでも、こちらでは主イエスが全能神として既に再臨され、終わりの日の働きの新しい段階を行われ、新しい御言葉を発せられていると宣言していますよね。これは一体どういう意味なのですか。これに関して私に話していただけませんか」</p><p>チュ（周）姉妹が、映画「私の主は誰か」から抜粋された「神の働きと言葉のすべてが聖書の中にありますか？」というタイトルの素晴らしい動画を見せながら、私の質問に応えてくれました。映画に出てくる説教師が、語っていました。「旧約と新約聖書とは神様の働きの２つの段階の記録に過ぎません律法の時代と恵みの時代の御言葉と働きについてもすべてが記されていると言い切れますか？律法の時代に預言者を通じて語られた御言葉すべてと、恵みの時代の主イエスの御言葉すべてが、記録されたと言えますか？皆さんも、お気づきのはずですが主の御言葉は、その多くが、聖書にも記されていません聖書に記された主イエスの御言葉は、氷山の一角に過ぎないんです律法の時代の預言者の書の多くも、聖書には含まれていませんこれはよく知られたことです御言葉と働きが、すべて聖書にあるとは、言えないんじゃありませんか？事実と明らかに、矛盾していませんか？そういう意味では、あなた方は嘘つきでは？主イエスは何度も再臨を預言されました再臨した主の御言葉が前もって聖書に記されることがありえますか？これだけは、はっきりさせておきましょう聖書は過去の、神様の働きの記録なんです旧約聖書が記されたずっと後に、主イエスが現れ、恵みの時代に罪の贖いをされた、そうでしたね？では聞きますが、主イエスの御言葉は、自動的に聖書に記されるんですか？神様の御言葉と働きは、人が編纂して、聖書にまとめられたんです終わりの日に、全能神は来られ、裁きの働きを神の家から始められ、人々を清め救うための真理を表されましたこれらの真理が、自動的に聖書に書かれますか？まさか、そんなバカな、そうです全能神教会は全能神によって表された真理を、神の国の時代の聖書に記録しますそれが、『言葉は肉において現れる』神の国の時代の聖書には、神様の御言葉だけ人の言葉はありません言い換えれば『言葉は肉において現れる』は、終わりの日に、神様が人に与える、永遠の命の道なんですですから、神様の御言葉が、聖書にすべて記され聖書以外に、御言葉や働きがないなど、そんなことは、間違いであり、愚かであり人間の思い込みと想像の産物です」</p><p>この説教師の話を聴いた後、それは事実に即していると感じました。聖書は私たちの神への信仰において使う参考書とはなりうるけれども、主を代表することはできず、ましてや主の御言葉や働きを代表することなどできません。正しく聖書に取り組まなければならず、聖書と主を同列と見なしてはならないと、ましてや神の働きや御言葉を聖書の紙面に限定してはならないとわかりました。聖書は、以前の二段階の神の働きを記録したものに過ぎず、律法の時代と恵みの時代の神の働きを記録しているのです。しかし神はあまりに偉大であまりに豊かです。なのにどうして聖書という一冊の本に神についてのすべてが収められるでしょうか。ヨハネによる福音書にはこうあります。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」（ヨハネによる福音書 21：25）どうやら主イエスの働きと御言葉のすべてが聖書に記録されているわけではないようで、それなのに私は宗教界の牧師や長老による解釈に沿って歩んできて、聖書にある神の働きと御言葉以外には神の働きや御言葉はないと信じてきたのです。なんと盲目的なばか者だったのでしょう。人の観念や想像に固執していたなんて。このような見方は全く擁護できません。</p><p>その動画を観続けていると、説教師が全能神の御言葉を何節か読み上げました。「聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。」（『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義（1）」より）「当時、イエスは恵みの時代において弟子たちに一連の説教しか語らなかった。たとえば実践のしかた、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方などである。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、弟子たちやイエスに従う人々がどのように実践すべきかについてしか釈義しなかった。恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何もしなかった。…各時代の神の働きには明確な境界がある。神は現在の時代の働きだけを行い、次の段階の働きを前もって行うことは決してない。このようにしてのみ、神の各時代の代表的な働きは前面に引き出される。イエスは終わりの日のしるし、いかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどのように進入すべきか、どのように追求すれば神の心を満足させるかについては語らなかった。したがって、終わりの日の神の働きを聖書の中に捜し求めるのは誤った考えに基づく行為ではないだろうか。手に聖書を携えているだけでなにを見分けることができるのか。聖書の解釈者であれ説教者であれ、誰が今日の働きを予知することができようか。」（『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」より）「律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たいのなら、旧約を読まなければいけない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約を読まなければいけない。しかし、終わりの日の働きについては、どうすればいいのか。今日の神の導きを受け入れ今日の働きに入らなければいけない。これが新たな働きであり、誰も予め聖書に記録していないからだ。今日、神は中国で肉となり、新たな民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、恵みの時代の働きから続いて、地の働きを続ける。今日の働きの道は人間がかつて歩んだことのないもので、誰も見たことのないものである。それはかつて誰もしたことのない働きであり、それは神が地上で行う最新の働きだ。…どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が載っているだろう。誰が今日の働きの細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することができただろう。あのカビ臭い古い本に、この、慣習を破る、より大きな賢い働きを、誰が記録できるだろう。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければいけない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。」（『言葉は肉において現れる』の「聖書について（1）」より）</p><p>説教師が神の御言葉を読み上げた後、映画の中で兄弟の一人が説教をし、言いました。「全能神の御言葉は、事実に即していますね聖書に載っているのは、律法と恵みの時代の御言葉と働きだけなんです終わりの日の働きは、事前に聖書に記すことはできません聖書に御言葉と働きのすべてがあると以前は言ってたけどそれは神様の働きの事実に即しません」神の御言葉と兄弟の説教を聴いた後、私は賛同してうなずかずにはいられませんでした。私は思いました。「その通りだ。神様がまだなさっていない働きについて誰が聖書に書けるというの。今ようやく、ヨハネの黙示録の第５章第５節を理解したわ。『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』ここで言われているのは、七つの封印で閉じられた本は終わりの日に主が再臨されて初めて開くことができるということで、つまり、主には聖書には記録されていない、これから言われる御言葉とこれから行われる働きがあることを示しているのではないかしら」こう考えた私は、もっと早く全能神教会のことを調べなかったことを悔やみました。牧師と長老に盲目的に従ったり、自分の観念や想像を頼みにして神の働きを限定して考えたりするべきでは本当になかったのです。</p><p>チュ姉妹が次に説教をし、言いました。「姉妹である蘭さん、この動画を観た今、聖書とは神の過去の働きの記録と神の働きの証しにすぎないと、そして終わりの日に人類を救うために働きをなさる神に聖書が取って代わることはできないと私たちは理解しています。神の働きは常に前進しています。そして今日、全能神は働きの新しい段階を実施されています。つまり、主イエスの贖いの働きの基盤の上に、神の国の時代において裁き、罰するために言葉を使うという働きです。これは聖書の預言を完全に成就します。『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。 』（ヨハネによる福音書 12：47-48）『さばきが神の家から始められる時がきた。』（ペテロの第一の手紙 4：7）終わりの日の全能神の御言葉と働きは、聖書を否定するものではなく、律法の時代と恵みの時代の神の御言葉と働きよりも高く深4いレベルにあるのです。そして全能神の働きは、現代の私たちが必要とするものに合っているのです。全能神の御言葉は、神の国の時代の聖書『言葉は肉において現れる』を成すものです。これらの言葉は終わりの日に神が人類に与える永遠のいのちの道であり、神の働きの三段階の奥義と神の受肉の奥義を明らかにし、神の性質、神が所有するものと神そのもの、神の全能性と知恵を表現するものなのです。またおもに神を称賛する道、神に証しし神に仕える道、真理の現実に入る道、そして完全なる救いを得、完璧にされる道を私たちに示してくれるのです。終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の働きに遅れずついていき、神の現在の御言葉から糧を得て初めて、私たちは聖霊の働きを得ることができるのです。もしずっと聖書にこだわり、終りの日の神の働きや発言を受け入れることや神の働きの足跡についていくことを拒否していたら、神がわたしたちに供給してくださる生きているいのちの水を得ることができず、ただ排除され捨てられるだけです。今、あらゆる宗教や教派がどんどん荒廃しています。終わりの日の神の働きに歩調を合わせず、神の現在の御言葉から糧を得ていないため、出口の見えない荒野で迷ってしまっているのです」</p><p>全能神教会の兄弟姉妹による説教をとおして、私は、終りの日の全能神の働きは完全に聖書の預言に沿ったもので、聖書から全く逸れていないということを理解しました。それどころか、私たちが罪の枷をきっぱりと断ち、神により清められ救われるよう、そして神から真理といのちを得られるようにと、神が私たちの必要とするものに合わせてさらに新しく高い段階の働きを実施されているのです。私はまた、宗教界がなぜどんどん荒廃し劣化しているのか、なぜいつも霊がからからに乾いているように感じるのかを理解するようになりました。それは、私たちが傲慢でうぬぼれて自分の観念にこだわり、神の御言葉と働きを聖書の紙面に限定してとらえ、終わりの日の神の新しい働きを求めず受け入れず、子羊の足跡に遅れずについていっていないからです。その後、兄弟姉妹は私にあらゆる真理について話してくれ、神の御言葉が私の問題や混乱を一つずつ解決していったのです。全能神は再臨された主イエスだと、私は絶対の確信を得ました。そして私の心は主への感謝で満たされました。</p><p>終りの日の神の働きを受け入れてから、私は教会生活に積極的に参加するようになり、神の御言葉によって潤い、糧を得て、兄弟姉妹と交わることにより、それまでずっと理解せずにいた多くの真理や奥義を理解するようになり、私の霊は満たされました。私はどんどん神に近づいているように感じ、私の心はどんどん光に満ちていき、毎日平安と喜びにあふれているのを感じました。時には、自分がいかに聖書に固執していたか、いかに神の御言葉と働きを聖書の紙面に限定して考え終わりの日の神の働きを求めたり吟味したりすることをいかに拒否していたかを思い出すと、とてつもない後悔を感じ、また神に対し多大な恩を感じるのでした。自分が本当にどれほど盲目で無知だったかがわかったのです。神がYouTubeにより私に全能神教会のお知らせを送り、私に神の御声を聞かせるという憐れみを見せて私をお救いくださらなかったら、私は今でも牧師や長老に盲目的に従っていたでしょう。そして終りの日の神の働きを求めたり吟味したりしてはいなかったでしょう。だとしたら、私は百年間聖書を読んでもいまだに主の再臨をお迎えできずにいたことでしょう。今日、終わりの日の神の救いを受けることができているのも、ひとえに神の統率とお導きによるものであり、神の驚くべき救いです。神に感謝します。</p><p>韓国李蘭（イ・ラン）</p><p>FacebookTwitterLine分享</p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[キリスト教映画「心の貧しい人々は幸いである」抜粋シーン（３）救われることと真の救いを区別するには]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7543536/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7543536</id><summary><![CDATA[🌸あらすじキリスト教映画「心の貧しい人々は幸いである」抜粋シーン（３）救われることと真の救いを区別するには我々主の信者はすでに罪を赦されており、主のお恵みによって救われる、または、自分たちは謙虚さと忍耐を実践しており、十字架を背負って多くのよい行ないをしている、だからそのことは自分たちが変化を経験したことを意味しているのではないかと考える人は宗教界に数多くいます。そうした人たちは、そのようにして常に信仰を追い求めることができるなら、最後に引き上げられて天国に入れると信じています。事実は本当にそうでしょうか。信仰の中でよい行ないをすることが、真の救いを表わせるでしょうか。救われることと真の救いの違いは正確にはどのようなことでしょうか。]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-05T11:22:38+00:00</published><updated>2020-01-05T11:22:39+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>URL: <a href="https://youtu.be/papcCJu8HJ8">youtu.be
					<img src="https://i.ytimg.com/vi/papcCJu8HJ8/hqdefault.jpg" width="100%">
				</a>
			</p>
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			<p>🌸あらすじ</p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/video-category/kingdom-gospel-testimonies.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>キリスト教映画</b></a>「心の貧しい人々は幸いである」抜粋シーン（３）救われることと真の救いを区別するには</p><p>我々主の信者はすでに罪を赦されており、主のお恵みによって救われる、または、自分たちは謙虚さと忍耐を実践しており、十字架を背負って多くのよい行ないをしている、だからそのことは自分たちが変化を経験したことを意味しているのではないかと考える人は宗教界に数多くいます。そうした人たちは、そのようにして常に信仰を追い求めることができるなら、最後に引き上げられて<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>天国</b></a>に入れると信じています。事実は本当にそうでしょうか。信仰の中でよい行ないをすることが、真の<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel/salvation-1.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救い</b></a>を表わせるでしょうか。救われることと真の救いの違いは正確にはどのようなことでしょうか。</p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[IV.  天の御国へ入る条件に関する質問と答え·23.すでに主イエスを信じているなら、なぜ救いを得るために全能神を信じなければならないのか。]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7539076/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7539076</id><summary><![CDATA[IV.  天の御国へ入る条件に関する質問と答え23.すでに主イエスを信じているなら、なぜ救いを得るために全能神を信じなければならないのか。神の御言葉による答え:イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、命を得るだろう。………神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。『言葉は肉において現れる』の「序文」よりあなたのように、罪を持った人間が罪から贖われたばかりで、変えられておらず、また神に完全にされたこともない状態で、神の心に沿うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪ある人とは見なされなくなったが、あなたが罪人ではないとか、汚れがないとかいうことではない。あなたが変えられないままであれば、どうやって聖人のようになれるというのか。内側では、あなたは不道徳、身勝手さと悪意に悩まされているにもかかわらず、イエスと共に降ることを望むというのは、よほどの運がなければいけない。あなたは、神を信じる上での必要な段階を一つ見落としている。あなたは、単に罪から救われただけで中身は変えられていないのである。あなたが神の心に沿うためには、神が直接あなたを変える働きをし、あなたを清めなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、高潔さを手に入れることはできない。…『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人は良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階が終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きがある。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い性質が捨てられることもないだろうし、人は罪の赦しにだけ執着するだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができる。神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践するよう求めるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。…終わりの日の働きにおいては、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心のすべての堕落した性質を現す。あなたは自分でそれらを認識することはできない。それらが言葉を通して明らかにされるとき、あなたは当然それを認識し、否定することはできず、完全に確信するであろう。これは言葉の権威ではないであろうか。これは言葉の現在の働きによって得られる成果である。だから、人は病気を癒したり悪霊を追い出したりすることにより、罪から完全に救われることはできず、しるしや不思議を顕すことにより、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。もし人から悪霊を追い出したり、贖ったりする以上に何もされなければ、それはただサタンの手から人を捕まえ、神のもとに戻すことでしかない。それだけでは人は神によって清められていないし、変えられてもいない。堕落したままである。人の中には、依然として汚れ、敵対心、そして不従順が存在する。人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神を退け裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神を退ける性質が既に存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。あまりにも汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清められることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、聖くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。言葉を用いて練られ、裁かれ、そして明らかにされることで、すべての汚れたもの、観念、動機、そして人の心にある個人的な願望などが完全に明らかにされる。人は贖われ罪を赦されたが、それは神が人の罪を思い出さず、人の罪に応じて人を取り扱わないからである。しかし、人が肉に生き、罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからだ。…だから、あなたがたが現在経験したことは、言葉により達成された結果であり、イエスのしるしや不思議の業をとおして達成されたものよりもさらに偉大なのである。あなたに見える神自身の栄光と権威は、十字架上の死や病の癒し、悪霊を追い払うことだけをとおして見えるのではなく、言葉による神の裁きをとおしてさらにはっきりと見えるのである。これはつまり、しるしや病の癒しや悪霊を追い払う業だけが神の権威と力なのではなく、言葉による裁きが神の権威をよりよく象徴的に表し、神の全能を明らかにできることを示している。『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-04T11:48:01+00:00</published><updated>2020-01-04T11:48:01+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>IV.  天の御国へ入る条件に関する質問と答え</p><p><br></p><p>23.すでに主イエスを信じているなら、なぜ<a href="https://jp.easternlightning.org/judgment-categories/salvation-and-full-salvation.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救い</b></a>を得るために全能神を信じなければならないのか。<a href="https://jp.easternlightning.org/books.html" class="u-lnk-clr"><b><br></b></a></p><p><a href="https://jp.easternlightning.org/books.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の御言葉</b></a>による答え:</p><p>イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、命を得るだろう。</p><p>……</p><p>…神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「序文」より</p><p>あなたのように、罪を持った人間が罪から贖われたばかりで、変えられておらず、また神に完全にされたこともない状態で、神の心に沿うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪ある人とは見なされなくなったが、あなたが罪人ではないとか、汚れがないとかいうことではない。あなたが変えられないままであれば、どうやって聖人のようになれるというのか。内側では、あなたは不道徳、身勝手さと悪意に悩まされているにもかかわらず、イエスと共に降ることを望むというのは、よほどの運がなければいけない。あなたは、神を信じる上での必要な段階を一つ見落としている。あなたは、単に罪から救われただけで中身は変えられていないのである。あなたが神の心に沿うためには、神が直接あなたを変える働きをし、あなたを清めなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、高潔さを手に入れることはできない。…</p><p>『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より</p><p>人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人は良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階が終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きがある。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い性質が捨てられることもないだろうし、人は罪の赦しにだけ執着するだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができる。神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践するよう求めるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。</p><p>…終わりの日の働きにおいては、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心のすべての堕落した性質を現す。あなたは自分でそれらを認識することはできない。それらが言葉を通して明らかにされるとき、あなたは当然それを認識し、否定することはできず、完全に確信するであろう。これは言葉の権威ではないであろうか。これは言葉の現在の働きによって得られる成果である。だから、人は病気を癒したり悪霊を追い出したりすることにより、罪から完全に<a href="https://jp.easternlightning.org/testimonies/understanding-of-being-saved.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救われる</b></a>ことはできず、しるしや不思議を顕すことにより、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。もし人から悪霊を追い出したり、贖ったりする以上に何もされなければ、それはただサタンの手から人を捕まえ、神のもとに戻すことでしかない。それだけでは人は神によって清められていないし、変えられてもいない。堕落したままである。人の中には、依然として汚れ、敵対心、そして不従順が存在する。人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神を退け裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神を退ける性質が既に存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。あまりにも汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清められることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、聖くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。言葉を用いて練られ、裁かれ、そして明らかにされることで、すべての汚れたもの、観念、動機、そして人の心にある個人的な願望などが完全に明らかにされる。人は贖われ罪を赦されたが、それは神が人の罪を思い出さず、人の罪に応じて人を取り扱わないからである。しかし、人が肉に生き、罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからだ。…だから、あなたがたが現在経験したことは、言葉により達成された結果であり、イエスのしるしや不思議の業をとおして達成されたものよりもさらに偉大なのである。あなたに見える神自身の栄光と権威は、十字架上の死や病の癒し、悪霊を追い払うことだけをとおして見えるのではなく、言葉による<a href="https://jp.easternlightning.org/judgment-categories/judgment-of-the-last-days.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の裁き</b></a>をとおしてさらにはっきりと見えるのである。これはつまり、しるしや病の癒しや悪霊を追い払う業だけが神の権威と力なのではなく、言葉による裁きが神の権威をよりよく象徴的に表し、神の全能を明らかにできることを示している。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より</p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[キリスト　それは私達の永遠の救い主「彼こそが私達の神」]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7533385/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7533385</id><summary><![CDATA[🌸あらすじキリスト　それは私達の永遠の救い主「彼こそが私達の神」Ⅰ彼だけが知っている　私達の考えを他の誰にも　私達人の　本質を理解することはできない反抗し堕落していく　私達を裁けない天の神に代わって語ってくれたり私達へと 働きかけできない彼をのぞいては神の知恵や尊厳　権威も彼だけが持つ神の性質　神の持つものや 神そのものさえ彼から溢れ出す彼だけが 私達に 光を与えてくれる他の誰も正しい道を指し示してくれない創造以来 　明かされていない奥義も明らかにできるサタンの束縛 堕落から私達を救う者はいないそこから救いだしてくれる者彼だけがそれをできるのだⅡ私達の意思が目を覚まし　霊が蘇る彼は何と　か弱い凡人だろう私達共に暮らしながら長くのけ者にされてきた彼は何者なのか？そう、彼こそが私達待ち望んだイエス・キリスト彼だ！彼こそが私達の神真理であり、道であり、命である！彼だ！彼こそが私達の神真理であり、道であり、命である！確かに真理であり、道であり、命である！彼こそが、私達の待ち望んだイエス・キリスト彼だ！彼こそが私達の神真理であり、道であり、命である！彼だ！彼こそが私達の神真理であり、道であり、命である！確かに真理であり、道であり、命である！『言葉は肉において現れる』より]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-03T12:11:00+00:00</published><updated>2020-01-03T12:11:34+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p>URL: <a href="https://youtu.be/eEAVq4W-0ew">youtu.be
					<img src="https://i.ytimg.com/vi/eEAVq4W-0ew/hqdefault.jpg" width="100%">
				</a>
			</p>
		</div>
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			<p>🌸あらすじ</p><p>キリスト　それは私達の永遠の<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel/salvation-1.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救い</b></a>主「彼こそが私達の神」</p><p>Ⅰ</p><p>彼だけが知っている　私達の考えを</p><p>他の誰にも　私達人の　本質を理解することはできない</p><p>反抗し堕落していく　私達を裁けない</p><p>天の神に代わって語ってくれたり</p><p>私達へと 働きかけできない</p><p>彼をのぞいては</p><p>神の知恵や尊厳　権威も彼だけが持つ</p><p>神の性質　神の持つものや 神そのものさえ彼から溢れ出す</p><p>彼だけが 私達に 光を与えてくれる</p><p>他の誰も正しい道を指し示してくれない</p><p>創造以来 　明かされていない奥義も</p><p>明らかにできる</p><p>サタンの束縛 堕落から</p><p>私達を<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/special-topic/three-stages-of-work/index.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救う</b></a>者はいない</p><p>そこから救いだしてくれる者</p><p>彼だけがそれをできるのだ</p><p>Ⅱ</p><p>私達の意思が目を覚まし　霊が蘇る</p><p>彼は何と　か弱い凡人だろう</p><p>私達共に暮らしながら</p><p>長くのけ者にされてきた</p><p>彼は何者なのか？そう、彼こそが</p><p>私達待ち望んだイエス・キリスト</p><p>彼だ！彼こそが私達の神</p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/reality-of-the-truth-1.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>真理</b></a>であり、道であり、命である！</p><p>彼だ！彼こそが私達の神</p><p>真理であり、道であり、命である！</p><p>確かに真理であり、道であり、命である！</p><p>彼こそが、私達の待ち望んだイエス・キリスト</p><p>彼だ！彼こそが私達の神</p><p>真理であり、道であり、命である！</p><p>彼だ！彼こそが私達の神</p><p>真理であり、道であり、命である！</p><p>確かに真理であり、道であり、命である！</p><p>『言葉は肉において現れる』より</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「心の貧しい人々は幸いである」から、その二「人類には神様の世の終わりの働きの救いが必要である」]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7529072/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7529072</id><summary><![CDATA[🌸あらすじ主イエスの救いだけで人が完全に清められ、天国に入ることができるのでしょうか。本短編映画があなたにその答えを教えてくれます。🌸おすすめ動画「心の貧しい人々は幸いである」あなたは主を迎え入れたのか？「覚醒」から、その二「救われることと救いを得ることの違い」]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-02T10:41:40+00:00</published><updated>2020-01-02T10:41:40+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p>URL: <a href="https://youtu.be/AnEzRfsKtK8">youtu.be
					<img src="https://i.ytimg.com/vi/AnEzRfsKtK8/hqdefault.jpg" width="100%">
				</a>
			</p>
		</div>
		<div>
			<p>🌸あらすじ</p><p>主イエスの<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel/salvation-1.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救い</b></a>だけで人が完全に清められ、<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>天国</b></a>に入ることができるのでしょうか。本短編映画があなたにその答えを教えてくれます。</p><p><br></p><p>🌸おすすめ動画</p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/videos/blessed-are-the-poor-in-spirit.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">「心の貧しい人々は幸いである」あなたは主を迎え入れたのか？</a></p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/salvation-and-full-salvation/awakening-11-14.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">「覚醒」から、その二「救われることと救いを得ることの違い」</a><br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[言葉は肉において現れる·神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7524862/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7524862</id><summary><![CDATA[人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代の三つの段階の働きのことである。天地創造の働きは、人類全体を作り出す働きであった。それは人類を救う働きではなく、人類を救う仕事には関係がなかった。なぜなら、天地創造の時、人類はサタンによって堕落させられておらず、人類を救う働きを実行する必要がなかったからである。人類を救う働きは、人類がサタンに堕落させられた後にようやく始まり、そこで人類を経営する働きも人類が堕落させられた後にようやく始まったのである。言い換えれば、人を経営する神の働きは、人類を救う働きの結果として始まったもので、天地創造の働きから生じたものではない。人類が堕落した性質を持つようになったあと初めて、経営の働きが存在するようになった。だから人類を経営する働きは、四つの段階もしくは四つの時代というよりも三つの部分を含むのである。これこそが人類を経営する神の働きへの正しい言及の仕方である。最後の時代が終わるとき、人類を経営する働きは完全に終わっている。経営の働きの終結は、人類すべてを救う働きが完全に終了し、人類がその旅路の終わりに到達したことを意味する。人類全てを救う働きがなければ、人類を経営する働きも存在しないし、三つの段階の働きもないだろう。それは正に人類の堕落ゆえに、また人類がそれほど性急に救いを必要としていたがために、ヤーウェは天地創造を終わらせ、律法の時代の働きを始めたのである。そうして初めて、人類を経営する働きが始まったのだが、それはつまり人類を救う働きもそこで初めて始まったことを意味する。「人類を経営する」とは、新たに造られた地上の人類（つまり、まだ堕落させられていない人類）の生活を導くという意味ではない。むしろそれは、サタンによって堕落させられた人類の救いであり、つまりは、この堕落した人類を変化させることである。これが人類を経営することの真意である。人類を救う働きが天地創造の働きを含まないのだから、人類を経営する働きも天地創造の働きを含まず、ただ天地創造とは別の三つの段階の働きだけが含まれる。人類を経営する働きを理解するには、三つの段階の働きの歴史を知ることが必要であるが、これは、救われるために、すべての人が知っていなければならないことである。被造物としてあなた方は、人は神によって造られたということを認識しなければならないし、人類の堕落の源、さらには人の救いの過程を認識しなければならない。あなた方がもし、神に喜ばれるために教理に従って行動することだけは知っているが、神がいかにして人類を救うかに関して、あるいは人類の堕落の源を少しも知らないのであれば、あなた方には被造物としてこの部分が欠けているのである。あなたは、神の経営する働きのより幅広い範囲を知らないままでいるのに、それらの実践できる真理を理解するだけで満足してはならないし、もしそうなら、あなたは教条的すぎるということになる。三つの段階の働きは、神による人の経営の内部事情であり、全宇宙の福音の到来であり、全人類における最大の奥義であり、また福音を述べ伝えることの基盤でもあるのだ。もしあなたが自分のいのちに関係する単純な真理を理解することだけに集中し、この最大の奥義とビジョンに関しては一切知らないとすれば、あなたのいのちは、ただ眺めること以外に役に立たない不良品と言えるのではないか。もし人が実践することだけに集中し、神の働きと人の認識を二次的なものと見るならば、「一文惜しみの百失い」であることと同じではないのか。あなたは、認識すべきことは認識すべきであり、実践すべきことは実践しなければならない。そうして初めてあなたは真理をどのように追及すべきか知る人になるのだ。あなたが福音を述べ伝える日が来た時、「神は偉大な正義の神であり、神は最も優れた神であって、いかなる偉大な人も比較できる者がおらず、それ以上に高い者もいない…」ということしか言えず、これらの見当違いで上辺だけの言葉しか言えず、非常に重要で中身のある言葉を全く話すことができず、神を認識すること、あるいは神の働きについて何も言うことができず、そしてさらには真理を説明すること、あるいは人間に欠けているものを提供することができないのであれば、あなたのような人は、立派にその本分を尽くすことはできない。神を証しし神の国の福音を述べ伝えることは、決して簡単な仕事ではない。あなたは、まず真理を身に付け、理解するべきビジョンを身に付けなければならない。神の働きの様々な側面のビジョンと真理について明確に知っているとき、あなたは心の中で神の働きを認識することになり、神が何をするかに関わらず、例えばそれが正義の裁きでも人を精練することでも、あなたは自らの基盤として最大のビジョンを備え、実践すべき正しい真理を備えることになり、結果として、最後まで神に付き従うことができるようになるのである。あなたは、神の働きが何であれ、その働きの目的は変化せず、神の働きの核心は変化せず、そして神の人に対する心も変わらないことを知らなければならない。神の言葉がどれほど厳しいものであっても、環境がどれほど不利であっても、神の働きの原則は変わらないし、人を救うという神の意図も変わらないのである。それが人の終わり、あるいは人の終着点の啓示ではなく、最終段階の働き、あるいは神の経営（救いの）計画全体を終わりにする働きでもないならば、また神が人に対して働いている最中のことであるならば、神の働きの核心は変わらない。つまりそれは常に人類の救いなのである。これこそがあなた方の神への信仰の基盤であるべきだ。三つの段階の働きの目的は全人類の救いであり、すなわちそれは人をサタンの領域から完全に救い出すことを意味する。三つの段階の働きには、それぞれ異なる目標と意味があるが、そのいずれもが人類を救う働きの一部であり、人類が必要とするものに応じて実行される異なる救いの働きなのだ。いったんこの三つの段階の働きの目的を知れば、各段階の働きの意味をどのように正しく認識すれば良いかが分かるし、神の心を満たすためにはどのように行動すれば良いかが理解できる。この点に到達することができれば、最終的にこの最大のビジョンが神へのあなたの信仰の基盤になるだろう。あなたは実践のためのたやすい方法、あるいは奥深い真理を追い求めるだけでなく、実践とビジョンを組み合わせるべきだ。そうすれば、実践できる真理とビジョンに基づく知識の両方が在ることになる。そうして初めて、あなたは完全に真理を追求する者になれるのである。三つの段階の働きは、神の経営（救い）全体の核心にあるもので、 その三つの段階の中に、神の性質、そして神であるものが表されているのである。神の三段階の働きを知らない者は、神がどのようにしてその性質を表現するかを理解できないだけでなく、神の働きの英知も知らず、そして神が人類を救う様々なやり方や、人類全体に対する神の心を知らないままでいる。三つの段階の働きは、人類を救う働きの完全な表明といえる。三つの段階の働きを知らない人々は、聖霊の働きの様々な手段や原則を知らないままでいる。つまり、一つの段階の働きからそのまま残っている教義に厳格にこだわる人々は、神を教義に限定する人たちであり、神に対する彼らの信仰は曖昧で不確かである。そのような人たちは、決して神の救いを得ることがないだろう。神の三段階の働きだけが神の性質の全てを余すところなく表せるのであり、人類全体を救う神の意図、そして人類の救いの全過程を完全に示すことができるのである。これは、神がサタンを打ち負かし人類を取り戻したということの証拠であり、神の勝利の証拠であり、そして神の性質全体の表明でもある。神の働きの三段階の内一つの段階だけを理解する者は、神の性質の一部しか知らない。人の観念においては、このたった一つの段階の働きは教義になりやすく、人は神に関する規則を定めるようになり、神の性質のこの一部分だけを神の性質全体の代表として使うようになる。その上、人の想像が少なからずこの中に混入するので、神の働きの原則に加えて、神の性質、存在、英知を限られた範囲内に厳格に制限し、神がかつてこのようであれば永遠にこのようであり、絶対に変わることはないと思うようになる。三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが様々な、多岐にわたる神の働きを認識しないからであり、さらに、彼らがごく僅かな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちは、経験は上辺だけのものなのに、本性が放漫かつ甘やかされており、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」する。また彼らはもったいぶって、自分たちの知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑されて拒絶されるのではないのか、そして新しい時代には排除されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人々は、狭量で偏狭な人々で、単に自分たちがいかに賢いかを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についての僅かな知識だけで天下の「学界」にまたがり、人に教える上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に転回させようと試み、目先のことしか見えないのに、一目で6000年に及ぶ神の働きを見極めようとするのである。この人たちは理性と呼べるようなものをもちあわせていない。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを評価するのに時間をかける。さらに、彼らは今日の神の働きについて知っていることを僅かしか語らないが、判断することは急がない。神に対して認識がない人ほど、傲慢で自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人は少しも価値のない人である。聖霊の働きを冗談事と捉える人たちはあさはかである。聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。このような人はいつか聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。そういう人たちは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜しているのである。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがないし、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。今日あなた方は、なぜ神の三つの段階の働きの重要性を知らなければならないのか理解すべきである。わたしが言う言葉はあなた方の有益になるものであり、無意味な言葉ではない。あなた方が、あたかも馬に乗って疾走しながら花を見物するかのようにただそれらを読むなら、わたしの大変な努力は全て水の泡になるのではないか。あなた方一人ひとりが自らの本性を知るべきである。あなた方のほとんどが議論は得意であり、理論的な質問に対する答えはすらすらと出てくるが、実質的な問題になると何も言うことがないのである。今日でさえ、あなた方は未だに浅はかな会話に身をゆだね、自分の古い本性を変えることができずにいるし、あなた方のほとんどは、より高い真理を達成するために追求する方法を変えるつもりがなく、いいかげんに自分の人生を生きているだけである。このような人たちがどうして最後まで神に従うことができるだろうか。たとえ道の最後まで辿り着けたとしても、あなた方にとってそれが何の得になるだろう。手遅れになる前に、真剣に追及するか、あるいは早く負けを認めて放棄して、考え方を改めた方が良い。時間がたつにつれ、あなた方は人にたかる寄生虫になる。そんな低くて卑しい役をあなた方は演じるつもりなのか。三つの段階の働きは、神の働きすべての記録であり、神の人類の救いの記録であり、そしてそれは架空のものではない。もしあなた方が、神の性質全体を認識することを真剣に追い求めるのであれば、神によって為された働きの三段階を知らなければならず、しかもどの段階も欠けてはならない。これは神を知ろうと努力する人たちが達成しなければならない最低限のことである。人は思いつきのように独自で本当に神を知ることはできない。それは人が自分で想像できるものでもなければ、聖霊が特定の人に特別に恩恵を授けた結果でもない。むしろそれは、人が神の働きを経験した後に得る認識であり、神の働きの事実を経験した後にだけ訪れる神に対する認識なのである。そのような認識は、ふと思いついて得ることはできないし、教えられるものでもない。それは完全に個人的な体験に関係することなのだ。これらの三つの段階の働きの核心には、神の人に対する救いが在るが、この救いの働きの中には幾つかの働き方と、神の性質を表す手段が含まれている。これは、人がもっとも識別し難いことであり、また理解するのがむずかしいことである。時代の区分、神の働きの変化、働きの場所の変化、この働きの受益者の変化等、これら全てが三つの段階の働きに含まれている。特に、聖霊の働き方の違い、神の性質、姿、名前、身分、その他の変化など、これら全てが三つの段階の働きの一部である。一つの働きの段階は、一部しか表すことはできず、特定の範囲に限られている。それは時代の区分や神の働きの変化には関連がなく、他の側面にはさらに関連性がない。これは完全に明らかな事実である。三つの段階の働きが人類を救う神の働きの全てなのだ。人は、人類を救う働きの中で、神の働き、そして神の性質を認識しなければならず、この事実なしには、あなた方の神に対する認識は、ただ無意味な言葉でしかなく、机上の空論にすぎない。そのような認識では、人を納得させることも征服することもできず、そのような認識は実情にそぐわないし、また真理でもない。その認識がたとえ十分で、聞こえの良いものであっても、神の元来の性質と合致しないのであれば、神はあなたを容認しない。神はあなたの認識を称賛しないだけでなく、神を冒涜した罪びととしてあなたに天罰を下す。神を認識する言葉は軽々しく語られるものではない。たとえあなたが流暢で弁が立ち、あなたの言葉が死人を生き返らせ、生きている人を死なせることができるとしても、神に対する認識を語ることに関しては素人同然である。神は、あなたが急いで判断を下したり、気軽に褒めたり、また無頓着に中傷したりできる対象ではない。あなたは誰でもどんな人でも褒めるが、それでもなお神の大徳と恩恵を描写する適切な言葉に悪戦苦闘し、これは全ての失敗者が体験することなのである。神を描写することのできる言語の専門家は大勢いるが、その描写の正確さは、神に属し、限られた語彙しか持たずとも豊かな経験を身に着けている人々によって語られる真理の百分の一にすぎない。よって神への認識は、巧みに言葉を使うことや豊富な語彙によるものではなく、正確さと現実性にかかっていること、また人の知識と神への認識は、全く関係がないことが見て取れる。神を認識するという学びは、人類のどの自然科学よりも高尚である。それは、神を認識することを探し求める非常に少数の人間によってのみ達成できる学びであって、才能があれば誰でも達成できるわけではない。よってあなた方は、神を認識することと真理を追求することを、ほんの子供でも達成できる、という見方をしてはならない。あなたは、家庭生活、仕事の経歴あるいは結婚生活においては完全に成功を収めているかもしれないが、真理および神を認識する学びに関しては、自分では見せられるものは何も持たないし、また何の成果も上げていない。真理を実践するとはあなた方にとって非常に難しいことであり、神を認識することは更に困難な問題であると言ってよい。これはあなた方にとって困難なことであり、同時に人類全体が直面している難事である。神を認識するために何らかの達成した人たちの中で、標準レベルに達する人はほとんどいない。人間は、神を認識することが何を意味するのか、あるいはどうして神を認識する必要があるのか、またはどの程度で神を認識していると見なせるのかを知らないのである。これは人類を非常に困惑させるものであり、ごく簡単に言うと人類が直面する最大の謎であり、誰もこの質問に答えることができないし、誰も進んで答えようとはしないのだが、その理由は、今日まで人類のうち誰一人としてこの働きの研究に成功したことがないからだ。おそらく、三つの段階の働きの謎が人類に明らかにされるときは、神を認識する才能集団を成す人たちが次々と現れるだろう。もちろん、そうなることをわたしは望むし、さらにわたしはこの仕事を実践中であり、近い将来そのような人材がもっとたくさん現われることを願う。彼らは、三つの段階の働きの事実を証しする者となり、そしてもちろん、三つの段階の働きを証しする最初の者となるだろう。神の働きが終わる日になって、もしそのような才能ある者がいなかったならば、あるいは一人か二人しかいなかったならば、そしてこの一人か二人は受肉した神によって完全にされることを自ら受け入れていたとしたら、これ以上悲しく、また悔やまれることはない。もちろんこれは最悪のシナリオにすぎないが。いずれの場合も、真剣に追及する者がこの祝福を得られることを願う。世の始まりの時から、このような働きはかつて一度も存在しなかったし、人類の発展の歴史の中で、かつてなかった仕事である。もしあなた方が本当に最初に神を認識する者達の一人になることができるならば、被造物全ての中で、最も名誉なことではないだろうか。人類のなかで神によってこれ以上に称賛される人がいるだろうか。このような仕事は簡単に達成できるものではないが、それでも最終的には成果を収める。性別や国籍に関わらず、神を認識することのできる人々は皆、最後に神から最高の名誉を受けるだろうし、また神の権威を備える唯一の者たちとなる。これが今日の仕事であり、未来の仕事でもあるが、要はこれが最終の、また過去6000年の働きの中で達成される最高の仕事ということであり、それによって人間の各区分を明らかにする仕事の一手段である。人に神を認識させるための働きを通して、人の異なるランクが明らかにされる。つまり、神を知る者は神の祝福を受け、神の約束を受け取る資格があるが、一方で、神に対する認識を持たない者は神の祝福を受ける資格、神の約束を受け取る資格がないことになる。神を知る者は、神の知己であり、神に対して認識を持たない者は神の知己とは呼ばれない。すなわち、神の知己は、神のあらゆる祝福を受けることができるが、神の知己でない者は、神の働きのどれにも値しない。苦難であれ、精錬あるいは裁きであれ、全ては人が最終的に神に対する認識を得られるようにするためであり、人が神に服従するようになるためである。これが最終的に達成される唯一の成果である。三つの段階の働きはどれも秘密ではなく、これは人が神を認識するのに役に立つことで、人が神についてもっと完全で徹底的な認識を得る手助けとなる。この働きは全て人のためである。神自身の働きは、人が知らなければならないビジョンである。神の働きは人には達成できないし、人には備わっていないものだからである。三つの段階の働きが神の経営の全てであり、人が認識すべき最大のビジョンである。もし人がこの偉大なビジョンを知らないとすれば、神を認識することも神の心を理解するのも容易ではないし、さらに人が歩む道もますます困難になる。ビジョンがなければ、人はここまで来ることはできなかっただろう。人を今日まで守ってきたのはビジョンであり、人に最大の保護を提供してきたのはビジョンである。将来、あなた方の認識はより深くなるべきであり、あなた方は神の心の全て、そして三つの段階の働きにおける神の賢明な働きの本質を認識するようにならなければならない。これこそがあなた方の真の背丈なのだ。働きの最終段階は、独立した段階ではなく、それ以前の二つの段階と一緒に形成された全体の一部であるから、三つの段階の働きのうち一つだけを行うことで救いの働き全体を完成させることは不可能である。たとえ働きの最終段階が人を完全に救うことができたとしても、必要なのはこの単独の段階を実践することだけという意味にはならないし、人をサタンの影響力から救うために、その前の二つの段階の働きは必要ないということにはならない。救いの働き全体が三つの段階の働きであって、その中の一つの段階ではないため、三つの段階の働きのうちどの段階も単独に取り上げて全人類の唯一の認識すべきビジョンとすることはできない。救いの働きが完成されていない限り、神の経営（救い）も完全に終わることはできない。神の存在、性質、そして英知が救いの働き全体の中に表現されており、初めは人に対して明らかにされていなかったが、救いの働きの中で徐々に表されるようになった。救いの働きの各段階それぞれが神の性質と神の存在を部分的に表しているが、働きの各段階が直接かつ完全に神の存在全体を表すことはできない。つまり、救いの働きは三つの段階の働きが完成した後全部終わるのだから、神のすべてに関する人の認識は三つの段階の働きから切り離すことはできない。人が一つの段階から得るものは、単に神の働きの一部で表される神の性質にすぎず、それは前後の段階で表される性質と存在を代表することはできない。なぜなら、人類を救う働きは一時期または一箇所ですぐ終わるものではなく、異なった時期、異なった場所で人類の発展の状況によって次第に深くなっていくものだからである。それはいくつかの段階で行われる働きであって、一つの段階で終わるものではない。だから神の英知の全ては、一つの個別の段階よりはむしろ、三つの段階において具体化されるのである。神の存在の全て、神の全ての英知が、これらの三つの段階の中に配置されていて、どの段階の働きの中にも神の存在があり、神の働きの英知が記されている。人は、これらの三つの段階の中に表現されている神の性質の全体を認識しなければならない。この神の存在の全てが人類全てにとって非常に重要であり、神を礼拝するときに、人がもしこの認識を持たないのであれば、彼らはブッダを崇拝する人々と何ら変わらないことになる。人の間で行う神の働きは人に隠されておらず、神を崇拝するすべての人に認識されるべきである。神は、人の間で人を救う三つの段階の働きを行ったのだから、人は、これらの三つの段階の働きの中で表現されている神が持つもの、また神であるものを認識すべきである。これは人がすべきことである。神が人から隠すことは、人が達成できないこと、また人が知るべきでないことであり、一方、神が人に見せることは、人が知るべきこと、そして人が身に付けるべきことなのである。三つの段階の働きの各段階は、それぞれの前の段階を基礎として実行されるもので、単独には働きは行われず、また救いの働きから切り離しては行われない。実行された働きの時代と種類には大きな違いがあるが、その核心はやはり人類の救いであり、救いの働きの各段階は、その前の段階のものより深くなる。各段階の働きは、そのひとつ前の段階を基礎として続くものであり、それは無効にならない。このようにして、神の働きは古くならず、常に新しく、その中で神は、今まで見せたことのない自らの性質の側面を人に対して絶えず表現し、そして常に神の新しい働きと存在を明らかにし、たとえ古くからの宗教家たちが最大限反抗し公然と反対するとしても、神は常に意図している新しい働きを実行する。神の働きは常に変化しているため、常に人の反対にあう。そこで、神の働きの時代とその対象と同様に、神の性質も常に変化している。その上、神は常にこれまでしたことのない働きを行い、人から見れば以前と矛盾あるいは相反する働きさえする。人は、一種類の働き、あるいは一つの実践方法だけしか受け入れることができない。人にとって、自分たちと相反する、あるいは自分たちよりも高尚な働きや実践方法は受け入れがたい。しかし聖霊は常に新しい働きを行っていて、そのために神の新しい働きに反対する宗教専門家の団体が次から次へと出現する。こういう人たちが専門家になったのは、どうして神が常に新しくて古くならないのかを人が認識しておらず、また神の働きの原則についての認識も持たず、そしてさらに神が人を救う様々な方法についての認識も持っていないがためである。というわけで、人はその働きが聖霊から出たものであるかどうか、あるいは神自身の働きかどうかの区別がつかない。多くの人は、前に発せられた言葉と合致すれば受け入れるが、以前の働きと違う点があれば反対して拒絶するという態度にしがみついている。今でも、あなた方はみなそのような原則に縛られているのではないだろうか。救いの三つの段階の働きは、あなた方にはあまり効果を上げておらず、また前の二つの段階の働きは負担になるものだからまったく認識する必要がないとさえ信じる者もいる。彼らは、これらの段階は、大衆には発表すべきでなく、早々に撤回されるべきだと考えている。三つの段階の働きのうちの前の二段階によって人々が混乱しないようにである。多くの人は、前の二段階の働きを示すのは余計なことであり、神を認識するのに全然役に立たないと思っている―これがあなた方の考えである。今日、あなた方は皆、そのように行動することは正しいと考えているが、いつかわたしの働きの重大さに気づく時が必ず来る。わたしは意義のない働きは行わないことを知らなければならない。わたしがあなた方に三つの段階の働きを示している以上、それらはきっとあなた方のためになる。これら三つの段階の働きは神の経営全体の核心であるのだから、きっと全宇宙で全ての人の注目の的となる。いつかあなた方は皆この働きの重要性に気づくだろう。あなた方が神の働きに逆らう、あるいは自分の観念により今日の働きを判断するのは、あなた方が神の働く原則を知らないからであり、またあなた方が聖霊の働きを真剣に受け止めないからだということを認識しなさい。あなた方が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなた方自身の観念と生まれつきの尊大さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなた方が元々あまりにも反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後に、人がどこから来たのかということさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きが正しいかそうでないかについて演説を行ったりする。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。彼らは人間性が非常に低俗で、思慮分別のかけらも持っていないのである。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識しない代わりに、神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図までする。このように理不尽な人たちがどうして神を知ることができるだろう。人は、神を求め、経験する過程で、神に対する認識を得るようになる。つまり、気まぐれに神を批判する中で聖霊の啓発を受けて神を認識するのではない。神に対する認識が正しいほど、人は神に反発しなくなる。逆に、神への認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格や道徳観は、あなたが神に逆らう「資本」であり、あなたが堕落して下劣で低俗であるほど、あなたはますます神の敵対者になる。欲深い観念の持ち主や独りよがりな性質の者は、さらに受肉した神の憎しみを買い、そのような人たちは反キリストである。もしあなたの観念が正されなければ、常に神に敵対することになり、永久に神と融和することができず、そしていつも神から離れていることになる。自分の古い観念を捨ててこそ、新しい認識を得ることが可能であるが、古い認識は古い観念であるとは限らない。「観念」とは、人が想像したことで、現実と反するもののことを言う。もし古い認識が古い時代にもう時代遅れとなり、それが新しい働きの中に入るのを阻んでいたなら、そのような認識も観念である。もし人がそのような認識に対して正しく対処することができ、神をいくつか違った側面から認識し、古いものと新しいものを合わせることができれば、古い認識でも人の助けとなり、人が新しい時代に入る基盤となることができる。神を認識するという学びにおいては、例えば、どのようにして神を認識するための道へ入るのか、神を認識するためにはどの真理を理解すべきなのか、またいかにして自分の観念と古い性質を取り除き、神の新しい働きの計画すべてに従うようになるのか等、多くの原則を習得する必要がある。神を知るという学びに入るための基盤としてこれらの原則を用いれば、あなたの認識はますます深くなる。もしあなたが三つの段階の働き、つまり神の経営（救い）の全計画に対してはっきりした認識を持ち、前の二つの段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きであると捉えることができれば、あなたはこれ以上ないほど強固な基盤を持つことになる。三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。神の三つの段階の働きは、異なる時期に異なる場所で行われており、またその内容もそれぞれ異なるが、それらは全て唯一の神によってなされたものである。すべてのビジョンの中でも、これが人の認識すべき最も偉大なビジョンであり、もし人がこれを完全に理解するなら、自分の立場を貫くことができる。現在、様々な宗教や宗派が直面している最大の問題は、彼らが聖霊の働きを認識していないということであり、聖霊の働きと聖霊のものでない働きを区別できず、そのために彼らは、先の二つの段階の働きと同様に、この段階の働きが神ヤーウェによるものかどうかが解らないのである。神に従ってはいても、ほとんどの人がそれが正しい道なのかどうかを区別できない。人は、この道が神が自ら導いているものかどうか、神の受肉が事実であるのかどうかを気に病んでいるが、ほとんどの人は、このことに関し、どのように見分ければ良いのか一切手掛かりがないのである。神に従っている人たちは、取る道を決断できず、よって、発せられる言葉はこのような人たちの間では部分的な効果しか持っておらず、また完全な効果を発揮できないために、そのような人々がいのちに入ることに影響を及ぼしている。三つの段階の働きにおいて、それらが違う時期に、違う場所で、そして違う人々に対して神が為したことであると人が見きわめることができ、たとえ働きが違っていても、それらは全て唯一の神によって為され、それは唯一の神によって為される働きである以上、正しく、間違いがあるはずはなく、またそれが人の観念とは合致せずとも、唯一の神の業であることは否定できないということ――もし人がそれは唯一の神の働きであると確信をもって言えるならば、人の観念はほんの些細な事となり、言及する価値もなくなるであろう。人のビジョンが明確でない上に、人はヤーウェが神でありイエスが主であることしか知らず、現在の受肉した神について決めかねているために、多くの人はヤーウェとイエスの働きに専念することに留まり、今日の働きについての観念に悩まされ、ほとんどの人は常に疑いを抱き、今日の働きを真剣に受け止めていないのである。人は、見ることができなかった先の二つの段階の働きに関しては、何の観念も持っていない。それは、人が先の二つの段階の働きの実情を理解せず、またそれらを自ら目撃しなかったからである。見えないからこそ、人は好きなように想像するが、どんなに想像しても証拠となる事実はないし、またその誤りを正す者もいない。人は、本能のままに警戒心を捨てて想像力を逞しくさせているのだが、立証する事実がないので、証拠があるかどうかに関わらず、人の想像したことが「事実」となっている。従って、人は自分で想像した神を心の中で信じているわけで、実際の神を求めないのである。一人の人間が一種類の信仰を持つとすると、100人の人が居れば100通りの信仰があることになる。人は、神の働きを実際に見たことがないため、また耳で聞いたことがあるだけで、自分で目にしたことがないために、そのような信仰に取りつかれている。人は伝説や物語を聞いたことがあっても、神の働きという事実の認識についてはほとんど聞いたことがない。したがって、信者になってたった一年の人も、自らの観念をとおして神を信じているし、生涯信者である人も同様である。事実を見ることができない者は、神に対する観念がある信仰から抜け出すことはできない。人は自らの古い観念の束縛から解放され、新しい境地に入ったと信じている。神の真の顔を見ることができない者の認識は、観念や言い伝え以外の何物でもないことを人は知らないのだろうか。人はみな自分の観念が正確で間違いないのだと思い、自分の観念は神から来るものだと思っている。今日、人は神の働きを目の当たりにすると、長年にわたって蓄積した観念を放つのである。だが、過去の想像と考え方がこの段階の働きの障害になったため、人がそのような観念を手放し、またそのような考え方に反論するのが困難になっている。今日まで神に従ってきた多くの人たちの持つ、この段階的な働きに対する観念は以前にも増して危機的なものになっており、これらの人たちは、徐々に受肉した神に対する頑固な敵意を形成しているが、この憎しみは人の観念と想像から出ているのである。事実は人に想像する自由を与えず、さらに人によって簡単に反論されることはない一方、人の観念と想像は事実の存在を許さず、その上に人は事実の正確さと信憑性には考慮せず、ただひたすら自分の観念を自由に働かせ、自分自身の想像力をたくましくするために、人の観念と想像は、人の観念とは相いれない今日の働きの敵となったのである。これは、もっぱら人の観念の誤りと言えるもので、神の働きの誤りではない。人が何を想像しようが自由だが、神の働きの事実は人が侵すことができないものだから、神の働きのどの段階でも、あるいは働きのごく一部でも、それについて軽々しく異議を唱えるべきではない。あなたは自由に想像しても構わないし、ヤーウェとイエスの働きについて、すばらしい話をまとめても構わないが、ヤーウェとイエスの働きの各段階の事実について反論してはならない。これは原則であって、行政命令でもあるが、あなた方はこれらの問題の重大さを理解しなければならない。人はこの段階の働きは人の観念と合致しないが、先の二つの段階の働きはその限りではないと信じている。人はその想像の中で、先の二つの段階の働きは今日の働きと同じでないことを確信しているが、神の働きの原則は全て同じであり、神の働きは常に実践的であること、時代に関係なく、いつも神の働きの事実に逆らい反対する人が大量に現れることを考えたことがあるだろうか。今、この働きの段階に逆らい、反対する人たちは、過去の時代においても間違いなく反対していただろう。そのような人々は常に神の敵だからだ。神の働きの事実を理解している人たちは、三つの段階の働きを、唯一の神の働きとして捉え、自分の観念は捨てるのである。このような人々が神を知る人々であり、真に神に従う人々である。神の経営（救い）の一切が終わりに近づくとき、神は万物を種類に応じて分類する。人は創造主の手で造られたのだから、最後には神が人を神の支配のもとに戻さなければならないのである。これが三つの段階の働きの終結である。終わりの日の働きの段階と、イスラエルとユダヤにおける前の二つの段階は、全宇宙における神の経営（救いの）計画である。これは誰にも否定できないし、そしてこれが神の働きの事実である。人々はまだこの働きのほとんどを経験もしていなければ見てもいないが、事実は事実であり、人はだれもこれを否定できない。神を信じる全宇宙各地の人々はみなこの三つの段階の働きを受け入れるであろう。もしあなたが一つの特定の段階の働きだけを認識して、他の二段階の働きを理解せず過去の神の働きも理解しないならば、あなたは神の全経営（救いの）計画の真相を語ることはできないし、あなたの神の認識は偏ったものである。神への信仰においては、あなたは神を知らず、理解していないために、あなたには神を証しする資格がないのである。あなたの現時点でのこれらの事柄に関する認識が深かろうと浅かろうと、最後には、あなた方は認識を持ち完全に納得するようになるはずであり、あらゆる人が神のすべての働きを目にして、神の支配の下に服従するようになるのである。この働きの終わりには、全ての宗教が一つにまとまり、全ての神の被造物が創造主の支配の下に戻り、唯一の真の神を礼拝して、全ての邪悪な宗教は無に帰して、二度と現れることはない。なぜこのように連続して三つの段階の働きに言及するのか。時代の移り変わり、社会の発展、自然の変貌はみなこの三段階の働きが変化するにつれて変わるのである。人類は神の働きに合わせて変化するのであって、人類が単独で発展しているのではない。神の三つの段階の働きに触れるのは、全ての被造物と、あらゆる宗教、あらゆる宗派の人々全てを、唯一の神の支配の下に集めるためである。あなたがどの宗教に属していようと、最終的にあなたは皆神の支配の下に従うのである。神自身だけがこの働きを実行できるのであって、それはどの宗教の代表にも不可能である。世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表あるいは指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表や指導者ではなく、人類全体が、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているということであり、またこれは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるが、その大きさに関係なく、それらの全てが創造主の支配の下に存在しているのであって、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の進化、そして自然科学の発達、これらはそれぞれ創造主の計画から切り離すことはできないし、この働きは特定の宗教の代表にできるものではない。宗教を代表する人というのは、特定の宗教組織の指導者というだけで、神、つまり天地と万物の創造主の代理を務めることはできない。宗教の代表は、その宗教全体の内において人々を率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表は単なる指導者であり、神（創造主）と対等の立場にはなれない。万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。神だけが万物の中で最も高い地位にいるのであり、すべての被造物の中の最高の支配者でも神の支配の下に帰らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、誰も万物をその種類に応じて分類することはできない。ヤーウェ自身が人類を造り、人々をそれぞれその種類に分類したのだから、終わりの時にもやはり神は自身でその働きを行い、万物をその種類に従い分類するが、これは全て神以外にはできないことである。初めのときから今まで、三つの段階の働きは全て神自身が行ったのであり、それは唯一の神がしたことである。三つの段階の働きの事実は、人類全体に対する神の統率力の事実であり、誰も否定できない事実である。三つの段階の働きの終わりには、万物が種類に応じて分別されて神の支配の下に帰り、そしてそこには全宇宙を通してただ唯一の神だけが存在し、その他の宗教は存在しなくなる。世界を造ることができない者は、世界を終わらせることもできないが、世界を創造した神は、必ず終わらせることもできる。だから、もし誰かが一つの時代を終わらせることができず、単に人がその心を養うのを手助けできるだけなら、その人は断じて神ではないし、断じて人類の主でもない。そのような者にこのような偉大な働きは可能でなく、このような偉大な働きは唯一の存在によってのみ可能である。そしてこのような働きができない者はみなきっと神以外の敵である。全ての邪悪な宗教は神とは相いれない。そして、神と相いれないなら、それらは神の敵である。すべての働きはこの唯一の真の神が為すものであり、全宇宙がこの真の神の支配下にあるのだ。神の働く場所がイスラエルでも中国でも、またその働きが聖霊によるものでも肉体によるものでも、全ては神自らによって行われるもので、他の誰にもできないことである。神が全人類の神だからこそ、神はどんな条件にも制限されず自由に働き、これはすべてのビジョンの中で最大のものである。もしあなた方が、神の被造物の一人として被造物の本分を尽くし、神の心を理解したいのであれば、神の働きを理解し、神の被造物に対する心を理解しなければならず、また神の経営（救いの）計画、そして神の為す仕事の意義の全てを理解しなければならない。これらの事が理解できない者は、神の被造物としての資格がない。もしあなた方が、神の被造物として、自分がどこから来たのかが分かっておらず、人類の歴史や神が行った働きの全てを知らず、さらには人類がいかにしてここまで発展してきたか、また全人類を支配するのは誰なのかを理解していないのであれば、あなた方には、その本分を尽くすことはできない。神は今日まで人類を導いてきた。そして神が人類をこの地上に造ってからこれまで、神は一度も人の傍を離れたことがない。聖霊は休むことなく働き続け、人類を導き続けて、一度も人から離れたことがない。それなのに、人は神の存在に気づかず、ましてや神を知らないが、神の全ての被造物にとって、これほど屈辱的なことがあろうか。神は自ら人を導いているのに、人は神の働きを理解していない。あなたは神の被造物であるのにも関わらず、自分たちの歴史も知らず、これまで自分の旅路の中で誰が自分を導いてくれたのかも分からずにいて、神による働きに気付かないから、神を認識できないのだ。あなたがもし今だに知らないとすれば、神を証しする資格はずっとないであろう。今日、創造主は、もう一度あらゆる人々を自ら導き、そしてあらゆる人々に神の英知、全能性、救い、そしてすばらしさを見せている。それでもあなたはまだ気付かず、あるいは理解できずにいるから、それであなたは救いを得られない者になっているのではないか。サタンに属する者たちは神の言葉を理解できず、神に属する者たちには神の声を聴くことができる。わたしの話す言葉に気付いて理解する全ての人々は、救われる者たちであり、また神を証しする者たちなのだ。わたしが言った言葉を理解しない全ての人々は神を証しすることができず、排除される者たちなのだ。神の心を理解できず、また神の働きに気付かない人々は、神の認識を達成することができず、そのような人々は神を証しすることはない。もしあなた方が神を証ししたいと願うなら、あなた方は神を知らなければならないし、その神の認識は、神の働きを通して達成される。結局のところ、神を知りたいと望むならば、神の働きを知らなければならない。つまり、神の働きを知ることが最重要なのである。三つの段階の働きが終わるとき、神を証しする者たちの一集団、つまり神を知る者たちの一団が作られる。この人たちはみな神に対する認識があり、真理を実行することができる人たちである。彼らには人間性と理知があり、皆三つの段階の救いの仕事を認識している。これが最後になし遂げられる働きであり、この人たちは6000年にわたる経営（救い）の働きの結晶であり、最終的にサタンを打ち負かした最も有力な証しである。神を証しすることができる者は、神の約束と祝福を受けることができる上に、最後の時に残り、神の権威を持ち、神を証しする一団になるだろう。もしかすると、あなた方の全ての人がこの一団の一員になれるかもしれず、あるいは半分か数人だけがそうなれるかもしれないが、それはあなた方の意思と追求にかかっている。]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2020-01-01T07:31:55+00:00</published><updated>2020-01-01T07:31:58+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p>人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして<a href="https://jp.godfootsteps.org/the-age-of-kingdom-is-the-age-of-word.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の国</b></a>の時代の三つの段階の働きのことである。天地創造の働きは、人類全体を作り出す働きであった。それは人類を救う働きではなく、人類を救う仕事には関係がなかった。なぜなら、天地創造の時、人類はサタンによって堕落させられておらず、人類を救う働きを実行する必要がなかったからである。人類を救う働きは、人類がサタンに堕落させられた後にようやく始まり、そこで人類を経営する働きも人類が堕落させられた後にようやく始まったのである。言い換えれば、人を経営する神の働きは、人類を救う働きの結果として始まったもので、天地創造の働きから生じたものではない。人類が堕落した性質を持つようになったあと初めて、経営の働きが存在するようになった。だから人類を経営する働きは、四つの段階もしくは四つの時代というよりも三つの部分を含むのである。これこそが人類を経営する神の働きへの正しい言及の仕方である。最後の時代が終わるとき、人類を経営する働きは完全に終わっている。経営の働きの終結は、人類すべてを救う働きが完全に終了し、人類がその旅路の終わりに到達したことを意味する。人類全てを救う働きがなければ、人類を経営する働きも存在しないし、三つの段階の働きもないだろう。それは正に人類の堕落ゆえに、また人類がそれほど性急に<a href="https://jp.godfootsteps.org/tag/the-salvation-of-God" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救い</b></a>を必要としていたがために、ヤーウェは天地創造を終わらせ、律法の時代の働きを始めたのである。そうして初めて、人類を経営する働きが始まったのだが、それはつまり人類を救う働きもそこで初めて始まったことを意味する。「人類を経営する」とは、新たに造られた地上の人類（つまり、まだ堕落させられていない人類）の生活を導くという意味ではない。むしろそれは、サタンによって堕落させられた人類の救いであり、つまりは、この堕落した人類を変化させることである。これが人類を経営することの真意である。人類を救う働きが天地創造の働きを含まないのだから、人類を経営する働きも天地創造の働きを含まず、ただ天地創造とは別の三つの段階の働きだけが含まれる。人類を経営する働きを理解するには、三つの段階の働きの歴史を知ることが必要であるが、これは、<a href="https://jp.godfootsteps.org/salvation-1.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救われる</b></a>ために、すべての人が知っていなければならないことである。被造物としてあなた方は、人は神によって造られたということを認識しなければならないし、人類の堕落の源、さらには人の救いの過程を認識しなければならない。あなた方がもし、神に喜ばれるために教理に従って行動することだけは知っているが、神がいかにして人類を救うかに関して、あるいは人類の堕落の源を少しも知らないのであれば、あなた方には被造物としてこの部分が欠けているのである。あなたは、神の経営する働きのより幅広い範囲を知らないままでいるのに、それらの実践できる真理を理解するだけで満足してはならないし、もしそうなら、あなたは教条的すぎるということになる。三つの段階の働きは、神による人の経営の内部事情であり、全宇宙の<a href="https://jp.godfootsteps.org/the-work-of-spreading-the-gospel-is-also-the-work-of-saving-man.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>福音</b></a>の到来であり、全人類における最大の奥義であり、また福音を述べ伝えることの基盤でもあるのだ。もしあなたが自分のいのちに関係する単純な真理を理解することだけに集中し、この最大の奥義とビジョンに関しては一切知らないとすれば、あなたのいのちは、ただ眺めること以外に役に立たない不良品と言えるのではないか。<br></p><p>もし人が実践することだけに集中し、神の働きと人の認識を二次的なものと見るならば、「一文惜しみの百失い」であることと同じではないのか。あなたは、認識すべきことは認識すべきであり、実践すべきことは実践しなければならない。そうして初めてあなたは真理をどのように追及すべきか知る人になるのだ。あなたが福音を述べ伝える日が来た時、「神は偉大な正義の神であり、神は最も優れた神であって、いかなる偉大な人も比較できる者がおらず、それ以上に高い者もいない…」ということしか言えず、これらの見当違いで上辺だけの言葉しか言えず、非常に重要で中身のある言葉を全く話すことができず、神を認識すること、あるいは神の働きについて何も言うことができず、そしてさらには真理を説明すること、あるいは人間に欠けているものを提供することができないのであれば、あなたのような人は、立派にその本分を尽くすことはできない。神を<a href="https://jp.godfootsteps.org/testimonies.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>証し</b></a>し神の国の福音を述べ伝えることは、決して簡単な仕事ではない。あなたは、まず真理を身に付け、理解するべきビジョンを身に付けなければならない。神の働きの様々な側面のビジョンと真理について明確に知っているとき、あなたは心の中で神の働きを認識することになり、神が何をするかに関わらず、例えばそれが正義の裁きでも人を精練することでも、あなたは自らの基盤として最大のビジョンを備え、実践すべき正しい真理を備えることになり、結果として、最後まで神に付き従うことができるようになるのである。あなたは、神の働きが何であれ、その働きの目的は変化せず、神の働きの核心は変化せず、そして神の人に対する心も変わらないことを知らなければならない。神の言葉がどれほど厳しいものであっても、環境がどれほど不利であっても、神の働きの原則は変わらないし、人を救うという神の意図も変わらないのである。それが人の終わり、あるいは人の終着点の啓示ではなく、最終段階の働き、あるいは神の経営（救いの）計画全体を終わりにする働きでもないならば、また神が人に対して働いている最中のことであるならば、神の働きの核心は変わらない。つまりそれは常に人類の救いなのである。これこそがあなた方の神への信仰の基盤であるべきだ。三つの段階の働きの目的は全人類の救いであり、すなわちそれは人をサタンの領域から完全に救い出すことを意味する。三つの段階の働きには、それぞれ異なる目標と意味があるが、そのいずれもが人類を救う働きの一部であり、人類が必要とするものに応じて実行される異なる救いの働きなのだ。いったんこの三つの段階の働きの目的を知れば、各段階の働きの意味をどのように正しく認識すれば良いかが分かるし、神の心を満たすためにはどのように行動すれば良いかが理解できる。この点に到達することができれば、最終的にこの最大のビジョンが神へのあなたの信仰の基盤になるだろう。あなたは実践のためのたやすい方法、あるいは奥深い真理を追い求めるだけでなく、実践とビジョンを組み合わせるべきだ。そうすれば、実践できる真理とビジョンに基づく知識の両方が在ることになる。そうして初めて、あなたは完全に真理を追求する者になれるのである。</p><p>三つの段階の働きは、神の経営（救い）全体の核心にあるもので、 その三つの段階の中に、神の性質、そして神であるものが表されているのである。神の三段階の働きを知らない者は、神がどのようにしてその性質を表現するかを理解できないだけでなく、神の働きの英知も知らず、そして神が人類を救う様々なやり方や、人類全体に対する神の心を知らないままでいる。三つの段階の働きは、人類を救う働きの完全な表明といえる。三つの段階の働きを知らない人々は、聖霊の働きの様々な手段や原則を知らないままでいる。つまり、一つの段階の働きからそのまま残っている教義に厳格にこだわる人々は、神を教義に限定する人たちであり、神に対する彼らの信仰は曖昧で不確かである。そのような人たちは、決して神の救いを得ることがないだろう。神の三段階の働きだけが神の性質の全てを余すところなく表せるのであり、人類全体を救う神の意図、そして人類の救いの全過程を完全に示すことができるのである。これは、神がサタンを打ち負かし人類を取り戻したということの証拠であり、神の勝利の証拠であり、そして神の性質全体の表明でもある。神の働きの三段階の内一つの段階だけを理解する者は、神の性質の一部しか知らない。人の観念においては、このたった一つの段階の働きは教義になりやすく、人は神に関する規則を定めるようになり、神の性質のこの一部分だけを神の性質全体の代表として使うようになる。その上、人の想像が少なからずこの中に混入するので、神の働きの原則に加えて、神の性質、存在、英知を限られた範囲内に厳格に制限し、神がかつてこのようであれば永遠にこのようであり、絶対に変わることはないと思うようになる。三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが様々な、多岐にわたる神の働きを認識しないからであり、さらに、彼らがごく僅かな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちは、経験は上辺だけのものなのに、本性が放漫かつ甘やかされており、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」する。また彼らはもったいぶって、自分たちの知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑されて拒絶されるのではないのか、そして新しい時代には排除されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人々は、狭量で偏狭な人々で、単に自分たちがいかに賢いかを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についての僅かな知識だけで天下の「学界」にまたがり、人に教える上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に転回させようと試み、目先のことしか見えないのに、一目で6000年に及ぶ神の働きを見極めようとするのである。この人たちは理性と呼べるようなものをもちあわせていない。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを評価するのに時間をかける。さらに、彼らは今日の神の働きについて知っていることを僅かしか語らないが、判断することは急がない。神に対して認識がない人ほど、傲慢で自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人は少しも価値のない人である。聖霊の働きを冗談事と捉える人たちはあさはかである。聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。このような人はいつか聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。そういう人たちは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜しているのである。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがないし、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。今日あなた方は、なぜ神の三つの段階の働きの重要性を知らなければならないのか理解すべきである。わたしが言う言葉はあなた方の有益になるものであり、無意味な言葉ではない。あなた方が、あたかも馬に乗って疾走しながら花を見物するかのようにただそれらを読むなら、わたしの大変な努力は全て水の泡になるのではないか。あなた方一人ひとりが自らの本性を知るべきである。あなた方のほとんどが議論は得意であり、理論的な質問に対する答えはすらすらと出てくるが、実質的な問題になると何も言うことがないのである。今日でさえ、あなた方は未だに浅はかな会話に身をゆだね、自分の古い本性を変えることができずにいるし、あなた方のほとんどは、より高い真理を達成するために追求する方法を変えるつもりがなく、いいかげんに自分の人生を生きているだけである。このような人たちがどうして最後まで神に従うことができるだろうか。たとえ道の最後まで辿り着けたとしても、あなた方にとってそれが何の得になるだろう。手遅れになる前に、真剣に追及するか、あるいは早く負けを認めて放棄して、考え方を改めた方が良い。時間がたつにつれ、あなた方は人にたかる寄生虫になる。そんな低くて卑しい役をあなた方は演じるつもりなのか。</p><p>三つの段階の働きは、神の働きすべての記録であり、神の人類の救いの記録であり、そしてそれは架空のものではない。もしあなた方が、神の性質全体を認識することを真剣に追い求めるのであれば、神によって為された働きの三段階を知らなければならず、しかもどの段階も欠けてはならない。これは神を知ろうと努力する人たちが達成しなければならない最低限のことである。人は思いつきのように独自で本当に神を知ることはできない。それは人が自分で想像できるものでもなければ、聖霊が特定の人に特別に恩恵を授けた結果でもない。むしろそれは、人が神の働きを経験した後に得る認識であり、神の働きの事実を経験した後にだけ訪れる神に対する認識なのである。そのような認識は、ふと思いついて得ることはできないし、教えられるものでもない。それは完全に個人的な体験に関係することなのだ。これらの三つの段階の働きの核心には、神の人に対する救いが在るが、この救いの働きの中には幾つかの働き方と、神の性質を表す手段が含まれている。これは、人がもっとも識別し難いことであり、また理解するのがむずかしいことである。時代の区分、神の働きの変化、働きの場所の変化、この働きの受益者の変化等、これら全てが三つの段階の働きに含まれている。特に、聖霊の働き方の違い、神の性質、姿、名前、身分、その他の変化など、これら全てが三つの段階の働きの一部である。一つの働きの段階は、一部しか表すことはできず、特定の範囲に限られている。それは時代の区分や神の働きの変化には関連がなく、他の側面にはさらに関連性がない。これは完全に明らかな事実である。三つの段階の働きが人類を救う神の働きの全てなのだ。人は、人類を救う働きの中で、神の働き、そして神の性質を認識しなければならず、この事実なしには、あなた方の神に対する認識は、ただ無意味な言葉でしかなく、机上の空論にすぎない。そのような認識では、人を納得させることも征服することもできず、そのような認識は実情にそぐわないし、また真理でもない。その認識がたとえ十分で、聞こえの良いものであっても、神の元来の性質と合致しないのであれば、神はあなたを容認しない。神はあなたの認識を称賛しないだけでなく、神を冒涜した罪びととしてあなたに天罰を下す。神を認識する言葉は軽々しく語られるものではない。たとえあなたが流暢で弁が立ち、あなたの言葉が死人を生き返らせ、生きている人を死なせることができるとしても、神に対する認識を語ることに関しては素人同然である。神は、あなたが急いで判断を下したり、気軽に褒めたり、また無頓着に中傷したりできる対象ではない。あなたは誰でもどんな人でも褒めるが、それでもなお神の大徳と恩恵を描写する適切な言葉に悪戦苦闘し、これは全ての失敗者が体験することなのである。神を描写することのできる言語の専門家は大勢いるが、その描写の正確さは、神に属し、限られた語彙しか持たずとも豊かな経験を身に着けている人々によって語られる真理の百分の一にすぎない。よって神への認識は、巧みに言葉を使うことや豊富な語彙によるものではなく、正確さと現実性にかかっていること、また人の知識と神への認識は、全く関係がないことが見て取れる。神を認識するという学びは、人類のどの自然科学よりも高尚である。それは、神を認識することを探し求める非常に少数の人間によってのみ達成できる学びであって、才能があれば誰でも達成できるわけではない。よってあなた方は、神を認識することと真理を追求することを、ほんの子供でも達成できる、という見方をしてはならない。あなたは、家庭生活、仕事の経歴あるいは結婚生活においては完全に成功を収めているかもしれないが、真理および神を認識する学びに関しては、自分では見せられるものは何も持たないし、また何の成果も上げていない。真理を実践するとはあなた方にとって非常に難しいことであり、神を認識することは更に困難な問題であると言ってよい。これはあなた方にとって困難なことであり、同時に人類全体が直面している難事である。神を認識するために何らかの達成した人たちの中で、標準レベルに達する人はほとんどいない。人間は、神を認識することが何を意味するのか、あるいはどうして神を認識する必要があるのか、またはどの程度で神を認識していると見なせるのかを知らないのである。これは人類を非常に困惑させるものであり、ごく簡単に言うと人類が直面する最大の謎であり、誰もこの質問に答えることができないし、誰も進んで答えようとはしないのだが、その理由は、今日まで人類のうち誰一人としてこの働きの研究に成功したことがないからだ。おそらく、三つの段階の働きの謎が人類に明らかにされるときは、神を認識する才能集団を成す人たちが次々と現れるだろう。もちろん、そうなることをわたしは望むし、さらにわたしはこの仕事を実践中であり、近い将来そのような人材がもっとたくさん現われることを願う。彼らは、三つの段階の働きの事実を証しする者となり、そしてもちろん、三つの段階の働きを証しする最初の者となるだろう。神の働きが終わる日になって、もしそのような才能ある者がいなかったならば、あるいは一人か二人しかいなかったならば、そしてこの一人か二人は受肉した神によって完全にされることを自ら受け入れていたとしたら、これ以上悲しく、また悔やまれることはない。もちろんこれは最悪のシナリオにすぎないが。いずれの場合も、真剣に追及する者がこの祝福を得られることを願う。世の始まりの時から、このような働きはかつて一度も存在しなかったし、人類の発展の歴史の中で、かつてなかった仕事である。もしあなた方が本当に最初に神を認識する者達の一人になることができるならば、被造物全ての中で、最も名誉なことではないだろうか。人類のなかで神によってこれ以上に称賛される人がいるだろうか。このような仕事は簡単に達成できるものではないが、それでも最終的には成果を収める。性別や国籍に関わらず、神を認識することのできる人々は皆、最後に神から最高の名誉を受けるだろうし、また神の権威を備える唯一の者たちとなる。これが今日の仕事であり、未来の仕事でもあるが、要はこれが最終の、また過去6000年の働きの中で達成される最高の仕事ということであり、それによって人間の各区分を明らかにする仕事の一手段である。人に神を認識させるための働きを通して、人の異なるランクが明らかにされる。つまり、神を知る者は神の祝福を受け、神の約束を受け取る資格があるが、一方で、神に対する認識を持たない者は神の祝福を受ける資格、神の約束を受け取る資格がないことになる。神を知る者は、神の知己であり、神に対して認識を持たない者は神の知己とは呼ばれない。すなわち、神の知己は、神のあらゆる祝福を受けることができるが、神の知己でない者は、神の働きのどれにも値しない。苦難であれ、精錬あるいは裁きであれ、全ては人が最終的に神に対する認識を得られるようにするためであり、人が神に服従するようになるためである。これが最終的に達成される唯一の成果である。三つの段階の働きはどれも秘密ではなく、これは人が神を認識するのに役に立つことで、人が神についてもっと完全で徹底的な認識を得る手助けとなる。この働きは全て人のためである。</p><p>神自身の働きは、人が知らなければならないビジョンである。神の働きは人には達成できないし、人には備わっていないものだからである。三つの段階の働きが神の経営の全てであり、人が認識すべき最大のビジョンである。もし人がこの偉大なビジョンを知らないとすれば、神を認識することも神の心を理解するのも容易ではないし、さらに人が歩む道もますます困難になる。ビジョンがなければ、人はここまで来ることはできなかっただろう。人を今日まで守ってきたのはビジョンであり、人に最大の保護を提供してきたのはビジョンである。将来、あなた方の認識はより深くなるべきであり、あなた方は神の心の全て、そして三つの段階の働きにおける神の賢明な働きの本質を認識するようにならなければならない。これこそがあなた方の真の背丈なのだ。働きの最終段階は、独立した段階ではなく、それ以前の二つの段階と一緒に形成された全体の一部であるから、三つの段階の働きのうち一つだけを行うことで救いの働き全体を完成させることは不可能である。たとえ働きの最終段階が人を完全に救うことができたとしても、必要なのはこの単独の段階を実践することだけという意味にはならないし、人をサタンの影響力から救うために、その前の二つの段階の働きは必要ないということにはならない。救いの働き全体が三つの段階の働きであって、その中の一つの段階ではないため、三つの段階の働きのうちどの段階も単独に取り上げて全人類の唯一の認識すべきビジョンとすることはできない。救いの働きが完成されていない限り、神の経営（救い）も完全に終わることはできない。神の存在、性質、そして英知が救いの働き全体の中に表現されており、初めは人に対して明らかにされていなかったが、救いの働きの中で徐々に表されるようになった。救いの働きの各段階それぞれが神の性質と神の存在を部分的に表しているが、働きの各段階が直接かつ完全に神の存在全体を表すことはできない。つまり、救いの働きは三つの段階の働きが完成した後全部終わるのだから、神のすべてに関する人の認識は三つの段階の働きから切り離すことはできない。人が一つの段階から得るものは、単に神の働きの一部で表される神の性質にすぎず、それは前後の段階で表される性質と存在を代表することはできない。なぜなら、人類を救う働きは一時期または一箇所ですぐ終わるものではなく、異なった時期、異なった場所で人類の発展の状況によって次第に深くなっていくものだからである。それはいくつかの段階で行われる働きであって、一つの段階で終わるものではない。だから神の英知の全ては、一つの個別の段階よりはむしろ、三つの段階において具体化されるのである。神の存在の全て、神の全ての英知が、これらの三つの段階の中に配置されていて、どの段階の働きの中にも神の存在があり、神の働きの英知が記されている。人は、これらの三つの段階の中に表現されている神の性質の全体を認識しなければならない。この神の存在の全てが人類全てにとって非常に重要であり、神を礼拝するときに、人がもしこの認識を持たないのであれば、彼らはブッダを崇拝する人々と何ら変わらないことになる。人の間で行う神の働きは人に隠されておらず、神を崇拝するすべての人に認識されるべきである。神は、人の間で人を救う三つの段階の働きを行ったのだから、人は、これらの三つの段階の働きの中で表現されている神が持つもの、また神であるものを認識すべきである。これは人がすべきことである。神が人から隠すことは、人が達成できないこと、また人が知るべきでないことであり、一方、神が人に見せることは、人が知るべきこと、そして人が身に付けるべきことなのである。三つの段階の働きの各段階は、それぞれの前の段階を基礎として実行されるもので、単独には働きは行われず、また救いの働きから切り離しては行われない。実行された働きの時代と種類には大きな違いがあるが、その核心はやはり人類の救いであり、救いの働きの各段階は、その前の段階のものより深くなる。各段階の働きは、そのひとつ前の段階を基礎として続くものであり、それは無効にならない。このようにして、神の働きは古くならず、常に新しく、その中で神は、今まで見せたことのない自らの性質の側面を人に対して絶えず表現し、そして常に神の新しい働きと存在を明らかにし、たとえ古くからの宗教家たちが最大限反抗し公然と反対するとしても、神は常に意図している新しい働きを実行する。神の働きは常に変化しているため、常に人の反対にあう。そこで、神の働きの時代とその対象と同様に、神の性質も常に変化している。その上、神は常にこれまでしたことのない働きを行い、人から見れば以前と矛盾あるいは相反する働きさえする。人は、一種類の働き、あるいは一つの実践方法だけしか受け入れることができない。人にとって、自分たちと相反する、あるいは自分たちよりも高尚な働きや実践方法は受け入れがたい。しかし聖霊は常に新しい働きを行っていて、そのために神の新しい働きに反対する宗教専門家の団体が次から次へと出現する。こういう人たちが専門家になったのは、どうして神が常に新しくて古くならないのかを人が認識しておらず、また神の働きの原則についての認識も持たず、そしてさらに神が人を救う様々な方法についての認識も持っていないがためである。というわけで、人はその働きが聖霊から出たものであるかどうか、あるいは神自身の働きかどうかの区別がつかない。多くの人は、前に発せられた言葉と合致すれば受け入れるが、以前の働きと違う点があれば反対して拒絶するという態度にしがみついている。今でも、あなた方はみなそのような原則に縛られているのではないだろうか。救いの三つの段階の働きは、あなた方にはあまり効果を上げておらず、また前の二つの段階の働きは負担になるものだからまったく認識する必要がないとさえ信じる者もいる。彼らは、これらの段階は、大衆には発表すべきでなく、早々に撤回されるべきだと考えている。三つの段階の働きのうちの前の二段階によって人々が混乱しないようにである。多くの人は、前の二段階の働きを示すのは余計なことであり、神を認識するのに全然役に立たないと思っている―これがあなた方の考えである。今日、あなた方は皆、そのように行動することは正しいと考えているが、いつかわたしの働きの重大さに気づく時が必ず来る。わたしは意義のない働きは行わないことを知らなければならない。わたしがあなた方に三つの段階の働きを示している以上、それらはきっとあなた方のためになる。これら三つの段階の働きは神の経営全体の核心であるのだから、きっと全宇宙で全ての人の注目の的となる。いつかあなた方は皆この働きの重要性に気づくだろう。あなた方が神の働きに逆らう、あるいは自分の観念により今日の働きを判断するのは、あなた方が神の働く原則を知らないからであり、またあなた方が聖霊の働きを真剣に受け止めないからだということを認識しなさい。あなた方が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなた方自身の観念と生まれつきの尊大さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなた方が元々あまりにも反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後に、人がどこから来たのかということさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きが正しいかそうでないかについて演説を行ったりする。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。彼らは人間性が非常に低俗で、思慮分別のかけらも持っていないのである。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識しない代わりに、神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図までする。このように理不尽な人たちがどうして神を知ることができるだろう。人は、神を求め、経験する過程で、神に対する認識を得るようになる。つまり、気まぐれに神を批判する中で聖霊の啓発を受けて神を認識するのではない。神に対する認識が正しいほど、人は神に反発しなくなる。逆に、神への認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格や道徳観は、あなたが神に逆らう「資本」であり、あなたが堕落して下劣で低俗であるほど、あなたはますます神の敵対者になる。欲深い観念の持ち主や独りよがりな性質の者は、さらに受肉した神の憎しみを買い、そのような人たちは反キリストである。もしあなたの観念が正されなければ、常に神に敵対することになり、永久に神と融和することができず、そしていつも神から離れていることになる。</p><p>自分の古い観念を捨ててこそ、新しい認識を得ることが可能であるが、古い認識は古い観念であるとは限らない。「観念」とは、人が想像したことで、現実と反するもののことを言う。もし古い認識が古い時代にもう時代遅れとなり、それが新しい働きの中に入るのを阻んでいたなら、そのような認識も観念である。もし人がそのような認識に対して正しく対処することができ、神をいくつか違った側面から認識し、古いものと新しいものを合わせることができれば、古い認識でも人の助けとなり、人が新しい時代に入る基盤となることができる。神を認識するという学びにおいては、例えば、どのようにして神を認識するための道へ入るのか、神を認識するためにはどの真理を理解すべきなのか、またいかにして自分の観念と古い性質を取り除き、神の新しい働きの計画すべてに従うようになるのか等、多くの原則を習得する必要がある。神を知るという学びに入るための基盤としてこれらの原則を用いれば、あなたの認識はますます深くなる。もしあなたが三つの段階の働き、つまり神の経営（救い）の全計画に対してはっきりした認識を持ち、前の二つの段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きであると捉えることができれば、あなたはこれ以上ないほど強固な基盤を持つことになる。三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。神の三つの段階の働きは、異なる時期に異なる場所で行われており、またその内容もそれぞれ異なるが、それらは全て唯一の神によってなされたものである。すべてのビジョンの中でも、これが人の認識すべき最も偉大なビジョンであり、もし人がこれを完全に理解するなら、自分の立場を貫くことができる。現在、様々な宗教や宗派が直面している最大の問題は、彼らが聖霊の働きを認識していないということであり、聖霊の働きと聖霊のものでない働きを区別できず、そのために彼らは、先の二つの段階の働きと同様に、この段階の働きが神ヤーウェによるものかどうかが解らないのである。神に従ってはいても、ほとんどの人がそれが正しい道なのかどうかを区別できない。人は、この道が神が自ら導いているものかどうか、神の受肉が事実であるのかどうかを気に病んでいるが、ほとんどの人は、このことに関し、どのように見分ければ良いのか一切手掛かりがないのである。神に従っている人たちは、取る道を決断できず、よって、発せられる言葉はこのような人たちの間では部分的な効果しか持っておらず、また完全な効果を発揮できないために、そのような人々がいのちに入ることに影響を及ぼしている。三つの段階の働きにおいて、それらが違う時期に、違う場所で、そして違う人々に対して神が為したことであると人が見きわめることができ、たとえ働きが違っていても、それらは全て唯一の神によって為され、それは唯一の神によって為される働きである以上、正しく、間違いがあるはずはなく、またそれが人の観念とは合致せずとも、唯一の神の業であることは否定できないということ――もし人がそれは唯一の神の働きであると確信をもって言えるならば、人の観念はほんの些細な事となり、言及する価値もなくなるであろう。人のビジョンが明確でない上に、人はヤーウェが神でありイエスが主であることしか知らず、現在の受肉した神について決めかねているために、多くの人はヤーウェとイエスの働きに専念することに留まり、今日の働きについての観念に悩まされ、ほとんどの人は常に疑いを抱き、今日の働きを真剣に受け止めていないのである。人は、見ることができなかった先の二つの段階の働きに関しては、何の観念も持っていない。それは、人が先の二つの段階の働きの実情を理解せず、またそれらを自ら目撃しなかったからである。見えないからこそ、人は好きなように想像するが、どんなに想像しても証拠となる事実はないし、またその誤りを正す者もいない。人は、本能のままに警戒心を捨てて想像力を逞しくさせているのだが、立証する事実がないので、証拠があるかどうかに関わらず、人の想像したことが「事実」となっている。従って、人は自分で想像した神を心の中で信じているわけで、実際の神を求めないのである。一人の人間が一種類の信仰を持つとすると、100人の人が居れば100通りの信仰があることになる。人は、神の働きを実際に見たことがないため、また耳で聞いたことがあるだけで、自分で目にしたことがないために、そのような信仰に取りつかれている。人は伝説や物語を聞いたことがあっても、神の働きという事実の認識についてはほとんど聞いたことがない。したがって、信者になってたった一年の人も、自らの観念をとおして神を信じているし、生涯信者である人も同様である。事実を見ることができない者は、神に対する観念がある信仰から抜け出すことはできない。人は自らの古い観念の束縛から解放され、新しい境地に入ったと信じている。神の真の顔を見ることができない者の認識は、観念や言い伝え以外の何物でもないことを人は知らないのだろうか。人はみな自分の観念が正確で間違いないのだと思い、自分の観念は神から来るものだと思っている。今日、人は神の働きを目の当たりにすると、長年にわたって蓄積した観念を放つのである。だが、過去の想像と考え方がこの段階の働きの障害になったため、人がそのような観念を手放し、またそのような考え方に反論するのが困難になっている。今日まで神に従ってきた多くの人たちの持つ、この段階的な働きに対する観念は以前にも増して危機的なものになっており、これらの人たちは、徐々に受肉した神に対する頑固な敵意を形成しているが、この憎しみは人の観念と想像から出ているのである。事実は人に想像する自由を与えず、さらに人によって簡単に反論されることはない一方、人の観念と想像は事実の存在を許さず、その上に人は事実の正確さと信憑性には考慮せず、ただひたすら自分の観念を自由に働かせ、自分自身の想像力をたくましくするために、人の観念と想像は、人の観念とは相いれない今日の働きの敵となったのである。これは、もっぱら人の観念の誤りと言えるもので、神の働きの誤りではない。人が何を想像しようが自由だが、神の働きの事実は人が侵すことができないものだから、神の働きのどの段階でも、あるいは働きのごく一部でも、それについて軽々しく異議を唱えるべきではない。あなたは自由に想像しても構わないし、ヤーウェとイエスの働きについて、すばらしい話をまとめても構わないが、ヤーウェとイエスの働きの各段階の事実について反論してはならない。これは原則であって、行政命令でもあるが、あなた方はこれらの問題の重大さを理解しなければならない。人はこの段階の働きは人の観念と合致しないが、先の二つの段階の働きはその限りではないと信じている。人はその想像の中で、先の二つの段階の働きは今日の働きと同じでないことを確信しているが、神の働きの原則は全て同じであり、神の働きは常に実践的であること、時代に関係なく、いつも神の働きの事実に逆らい反対する人が大量に現れることを考えたことがあるだろうか。今、この働きの段階に逆らい、反対する人たちは、過去の時代においても間違いなく反対していただろう。そのような人々は常に神の敵だからだ。神の働きの事実を理解している人たちは、三つの段階の働きを、唯一の神の働きとして捉え、自分の観念は捨てるのである。このような人々が神を知る人々であり、真に神に従う人々である。神の経営（救い）の一切が終わりに近づくとき、神は万物を種類に応じて分類する。人は創造主の手で造られたのだから、最後には神が人を神の支配のもとに戻さなければならないのである。これが三つの段階の働きの終結である。終わりの日の働きの段階と、イスラエルとユダヤにおける前の二つの段階は、全宇宙における神の経営（救いの）計画である。これは誰にも否定できないし、そしてこれが神の働きの事実である。人々はまだこの働きのほとんどを経験もしていなければ見てもいないが、事実は事実であり、人はだれもこれを否定できない。神を信じる全宇宙各地の人々はみなこの三つの段階の働きを受け入れるであろう。もしあなたが一つの特定の段階の働きだけを認識して、他の二段階の働きを理解せず過去の神の働きも理解しないならば、あなたは神の全経営（救いの）計画の真相を語ることはできないし、あなたの神の認識は偏ったものである。神への信仰においては、あなたは神を知らず、理解していないために、あなたには神を証しする資格がないのである。あなたの現時点でのこれらの事柄に関する認識が深かろうと浅かろうと、最後には、あなた方は認識を持ち完全に納得するようになるはずであり、あらゆる人が神のすべての働きを目にして、神の支配の下に服従するようになるのである。この働きの終わりには、全ての宗教が一つにまとまり、全ての神の被造物が創造主の支配の下に戻り、唯一の真の神を礼拝して、全ての邪悪な宗教は無に帰して、二度と現れることはない。</p><p>なぜこのように連続して三つの段階の働きに言及するのか。時代の移り変わり、社会の発展、自然の変貌はみなこの三段階の働きが変化するにつれて変わるのである。人類は神の働きに合わせて変化するのであって、人類が単独で発展しているのではない。神の三つの段階の働きに触れるのは、全ての被造物と、あらゆる宗教、あらゆる宗派の人々全てを、唯一の神の支配の下に集めるためである。あなたがどの宗教に属していようと、最終的にあなたは皆神の支配の下に従うのである。神自身だけがこの働きを実行できるのであって、それはどの宗教の代表にも不可能である。世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表あるいは指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表や指導者ではなく、人類全体が、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているということであり、またこれは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるが、その大きさに関係なく、それらの全てが創造主の支配の下に存在しているのであって、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の進化、そして自然科学の発達、これらはそれぞれ創造主の計画から切り離すことはできないし、この働きは特定の宗教の代表にできるものではない。宗教を代表する人というのは、特定の宗教組織の指導者というだけで、神、つまり天地と万物の創造主の代理を務めることはできない。宗教の代表は、その宗教全体の内において人々を率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表は単なる指導者であり、神（創造主）と対等の立場にはなれない。万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。神だけが万物の中で最も高い地位にいるのであり、すべての被造物の中の最高の支配者でも神の支配の下に帰らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、誰も万物をその種類に応じて分類することはできない。ヤーウェ自身が人類を造り、人々をそれぞれその種類に分類したのだから、終わりの時にもやはり神は自身でその働きを行い、万物をその種類に従い分類するが、これは全て神以外にはできないことである。初めのときから今まで、三つの段階の働きは全て神自身が行ったのであり、それは唯一の神がしたことである。三つの段階の働きの事実は、人類全体に対する神の統率力の事実であり、誰も否定できない事実である。三つの段階の働きの終わりには、万物が種類に応じて分別されて神の支配の下に帰り、そしてそこには全宇宙を通してただ唯一の神だけが存在し、その他の宗教は存在しなくなる。世界を造ることができない者は、世界を終わらせることもできないが、世界を創造した神は、必ず終わらせることもできる。だから、もし誰かが一つの時代を終わらせることができず、単に人がその心を養うのを手助けできるだけなら、その人は断じて神ではないし、断じて人類の主でもない。そのような者にこのような偉大な働きは可能でなく、このような偉大な働きは唯一の存在によってのみ可能である。そしてこのような働きができない者はみなきっと神以外の敵である。全ての邪悪な宗教は神とは相いれない。そして、神と相いれないなら、それらは神の敵である。すべての働きはこの唯一の真の神が為すものであり、全宇宙がこの真の神の支配下にあるのだ。神の働く場所がイスラエルでも中国でも、またその働きが聖霊によるものでも肉体によるものでも、全ては神自らによって行われるもので、他の誰にもできないことである。神が全人類の神だからこそ、神はどんな条件にも制限されず自由に働き、これはすべてのビジョンの中で最大のものである。もしあなた方が、神の被造物の一人として被造物の本分を尽くし、神の心を理解したいのであれば、神の働きを理解し、神の被造物に対する心を理解しなければならず、また神の経営（救いの）計画、そして神の為す仕事の意義の全てを理解しなければならない。これらの事が理解できない者は、神の被造物としての資格がない。もしあなた方が、神の被造物として、自分がどこから来たのかが分かっておらず、人類の歴史や神が行った働きの全てを知らず、さらには人類がいかにしてここまで発展してきたか、また全人類を支配するのは誰なのかを理解していないのであれば、あなた方には、その本分を尽くすことはできない。神は今日まで人類を導いてきた。そして神が人類をこの地上に造ってからこれまで、神は一度も人の傍を離れたことがない。聖霊は休むことなく働き続け、人類を導き続けて、一度も人から離れたことがない。それなのに、人は神の存在に気づかず、ましてや神を知らないが、神の全ての被造物にとって、これほど屈辱的なことがあろうか。神は自ら人を導いているのに、人は神の働きを理解していない。あなたは神の被造物であるのにも関わらず、自分たちの歴史も知らず、これまで自分の旅路の中で誰が自分を導いてくれたのかも分からずにいて、神による働きに気付かないから、神を認識できないのだ。あなたがもし今だに知らないとすれば、神を証しする資格はずっとないであろう。今日、創造主は、もう一度あらゆる人々を自ら導き、そしてあらゆる人々に神の英知、全能性、救い、そしてすばらしさを見せている。それでもあなたはまだ気付かず、あるいは理解できずにいるから、それであなたは救いを得られない者になっているのではないか。サタンに属する者たちは神の言葉を理解できず、神に属する者たちには神の声を聴くことができる。わたしの話す言葉に気付いて理解する全ての人々は、救われる者たちであり、また神を証しする者たちなのだ。わたしが言った言葉を理解しない全ての人々は神を証しすることができず、排除される者たちなのだ。神の心を理解できず、また神の働きに気付かない人々は、神の認識を達成することができず、そのような人々は神を証しすることはない。もしあなた方が神を証ししたいと願うなら、あなた方は神を知らなければならないし、その神の認識は、神の働きを通して達成される。結局のところ、神を知りたいと望むならば、神の働きを知らなければならない。つまり、神の働きを知ることが最重要なのである。三つの段階の働きが終わるとき、神を証しする者たちの一集団、つまり神を知る者たちの一団が作られる。この人たちはみな神に対する認識があり、真理を実行することができる人たちである。彼らには人間性と理知があり、皆三つの段階の救いの仕事を認識している。これが最後になし遂げられる働きであり、この人たちは6000年にわたる経営（救い）の働きの結晶であり、最終的にサタンを打ち負かした最も有力な証しである。神を証しすることができる者は、神の約束と祝福を受けることができる上に、最後の時に残り、神の権威を持ち、神を証しする一団になるだろう。もしかすると、あなた方の全ての人がこの一団の一員になれるかもしれず、あるいは半分か数人だけがそうなれるかもしれないが、それはあなた方の意思と追求にかかっている。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[なぜ神は神の国の時代に全能神という名前を選ぶのか]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7521502/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7521502</id><summary><![CDATA[「全能神とは、終わりの日の主イエスの再臨なのだから、裁きの働きをするために終わりの日にやって来る主イエスは全能神と呼ばれるのだ」と言われても、多くの人々にはその理由がわからない。なぜ彼は主イエスと呼ばれ続けないのだろう。実際、神は新たな働きの段階を始めるごとに新しい名前を使う。この新しい名前は神自らが働きにふさわしいように選ぶ――人々が好きなように神を呼ぶ名前ではない。各働きの段階で神が選ぶ名前は聖書に基づいている。戻ってきた主イエスの終わりの日の名前はずっと以前に聖書で予言されていた。イザヤ書には次のように記されている。「もろもろの国はあなたの義を見、もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。そして、あなたは主の口が定められる新しい名をもってとなえられる。」（イザヤ書62:2）ヨハネの黙示録にも同様に記されている。「フィラデルフィアにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。…勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」（黙示録3:7､12）「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルファであり、オメガである』。」（黙示録1:8）「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる』。」（黙示録19:6）神の国の時代の全能神の名前はヨハネの黙示録の予言を完全に実現するものである。神が時代ごとに選ぶ名前には深い意味があり、その時代の神の働きと密接に関係している。全能神は、この疑問に答えて次のように語っている。「それぞれの時代で、神は新しい働きをし、新しい名前で呼ばれる。神はどのように異なった時代に同じ働きをすることができるのか。神は古い物にしがみついていられるだろうか。イエスの名は贖いの働きのために使われ、終わりの日にイエスが再臨する時依然として同じ名前で呼ばれるのだろうか。イエスは依然として贖いの働きをするのだろうか。なぜヤーウェとイエスは一つであるのに、二人は違った時代には異なった名前で呼ばれるのか。それは彼らの働きの時代が違っているからではないだろうか。一つの名前で神全体を現わすことはできるだろうか。この様に、神は違った時代には異なった名前で呼ばれなければならない。そして時代を変え時代を現わす名前を用いなければならない。なぜなら、一つの名前だけで神自身を完全に現わすことはできないからである。そしてそれぞれの名前はある時代の神の性質を現わすだけで、神の働きを現わすためだけに必要である。よって、神は全時代を表すために、どんな名前であれ、神の性質にピッタリの名前を選ぶことができる。ヤーウェの時代、あるいはイエスの時代のどちらであっても、それぞれの時代は名前によって表されている。」（『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン（3）」より）「『ヤーウェ』はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人（神に選ばれた人々）の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。『イエス』はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営（救いの）計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーゼの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。『ヤーウェ』は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。『イエス』は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営（救いの）計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営（救いの）計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしであるすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代―終わりの日の時代―が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。」（『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より）全能神は、各時代に神が選ぶ名前には象徴的な意味があるとはっきり言った。すなわち、名前はそれぞれその時代の神の働きと神が表す性質を象徴する。律法の時代に神はヤーウェの名前を使い、神の律法と戒めを示し、地上の人々の生活を導いた。恵みの時代に神はイエスの名前を使い、人類を贖う働きを行った。また神の国の時代には、神は全能神と呼ばれ、神の家から始まる裁きの働きを行い、人を清め、変化させ、救う。神は名前を使って時代を変化させ、名前を使ってその時代の働きを表す。ヤーウェ神が律法の時代の働きを行った時、人々はヤーウェの名に向かって祈り、神の律法と戒めに従うことによってのみ、神の祝福を受け、守られた。恵みの時代になると、神はイエスの名を使い、贖いの働きを行い、人々は主イエスを救い主として受け入れ、主の名において悔い改めて祈り、自分たちの罪を赦してもらい、主イエスによって与えられる真理と恵みを享受するほかなかった。人々がまだヤーウェの名前にこだわり、主イエスを受け入れることを拒否したら、彼らは神の配慮と守りを失い、暗闇に落ち込み、パリサイ人のように神に呪われ、罰せられただろう。終わりの日の到来とともに、神は全能神の名を使い、神の家から始まる裁きの働きを実行する。全能神の名を受け入れ、神の働きと歩調を合わせ、全能神の裁きと刑罰を受けることによってのみ、人々は真理を理解し、得ることができ、罪から抜け出して、清められ、神の救いを受けることができる。全能神の名を受け入れることを拒絶し、終わりの日の神の裁きの働きを拒絶するする人々はすべて罪の束縛から抜け出すことができず、永久に天国に入る資格はない。]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2019-12-31T11:59:47+00:00</published><updated>2019-12-31T11:59:47+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>「<a href="https://jp.easternlightning.org/about-us/Almighty-God-and-Jesus.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>全能神</b></a>とは、終わりの日の主イエスの再臨なのだから、裁きの働きをするために終わりの日にやって来る主イエスは全能神と呼ばれるのだ」と言われても、多くの人々にはその理由がわからない。なぜ彼は主イエスと呼ばれ続けないのだろう。実際、神は新たな働きの段階を始めるごとに新しい名前を使う。この新しい名前は神自らが働きにふさわしいように選ぶ――人々が好きなように神を呼ぶ名前ではない。各働きの段階で神が選ぶ名前は聖書に基づいている。戻ってきた主イエスの終わりの日の名前はずっと以前に聖書で予言されていた。イザヤ書には次のように記されている。「もろもろの国はあなたの義を見、もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。そして、あなたは主の口が定められる新しい名をもってとなえられる。」（イザヤ書62:2）<a href="https://jp.easternlightning.org/tag/biblical-prophecies" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>ヨハネの黙示録</b></a>にも同様に記されている。「フィラデルフィアにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。…勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」（黙示録3:7､12）「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルファであり、オメガである』。」（黙示録1:8）「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる』。」（黙示録19:6）神の国の時代の全能神の名前はヨハネの黙示録の予言を完全に実現するものである。神が時代ごとに選ぶ名前には深い意味があり、その時代の神の働きと密接に関係している。全能神は、この疑問に答えて次のように語っている。「それぞれの時代で、神は新しい働きをし、新しい名前で呼ばれる。神はどのように異なった時代に同じ働きをすることができるのか。神は古い物にしがみついていられるだろうか。イエスの名は贖いの働きのために使われ、終わりの日にイエスが再臨する時依然として同じ名前で呼ばれるのだろうか。イエスは依然として贖いの働きをするのだろうか。なぜヤーウェとイエスは一つであるのに、二人は違った時代には異なった名前で呼ばれるのか。それは彼らの働きの時代が違っているからではないだろうか。一つの名前で神全体を現わすことはできるだろうか。この様に、神は違った時代には異なった名前で呼ばれなければならない。そして時代を変え時代を現わす名前を用いなければならない。なぜなら、一つの名前だけで神自身を完全に現わすことはできないからである。そしてそれぞれの名前はある時代の神の性質を現わすだけで、神の働きを現わすためだけに必要である。よって、神は全時代を表すために、どんな名前であれ、神の性質にピッタリの名前を選ぶことができる。ヤーウェの時代、あるいはイエスの時代のどちらであっても、それぞれの時代は名前によって表されている。」（『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン（3）」より）</p><p>「『ヤーウェ』はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人（神に選ばれた人々）の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。『イエス』はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営（<b><a href="https://jp.easternlightning.org/judgment-categories/salvation-and-full-salvation.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">救い</a></b>の）計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーゼの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、<a href="https://jp.easternlightning.org/testimonies/understanding-of-being-saved.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救われる</b></a>ために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。『ヤーウェ』は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。『イエス』は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営（救いの）計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営（救いの）計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしであるすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代―終わりの日の時代―が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。」（『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より）全能神は、各時代に神が選ぶ名前には象徴的な意味があるとはっきり言った。すなわち、名前はそれぞれその時代の神の働きと神が表す性質を象徴する。律法の時代に神はヤーウェの名前を使い、神の律法と戒めを示し、地上の人々の生活を導いた。恵みの時代に神はイエスの名前を使い、人類を贖う働きを行った。また神の国の時代には、神は全能神と呼ばれ、神の家から始まる裁きの働きを行い、人を清め、変化させ、救う。神は名前を使って時代を変化させ、名前を使ってその時代の働きを表す。ヤーウェ神が律法の時代の働きを行った時、人々はヤーウェの名に向かって祈り、神の律法と戒めに従うことによってのみ、神の祝福を受け、守られた。恵みの時代になると、神はイエスの名を使い、贖いの働きを行い、人々は主イエスを救い主として受け入れ、主の名において悔い改めて祈り、自分たちの罪を赦してもらい、主イエスによって与えられる真理と恵みを享受するほかなかった。人々がまだヤーウェの名前にこだわり、主イエスを受け入れることを拒否したら、彼らは神の配慮と守りを失い、暗闇に落ち込み、パリサイ人のように神に呪われ、罰せられただろう。終わりの日の到来とともに、神は全能神の名を使い、神の家から始まる裁きの働きを実行する。全能神の名を受け入れ、神の働きと歩調を合わせ、全能神の裁きと刑罰を受けることによってのみ、人々は真理を理解し、得ることができ、罪から抜け出して、清められ、神の救いを受けることができる。全能神の名を受け入れることを拒絶し、終わりの日の神の裁きの働きを拒絶するする人々はすべて罪の束縛から抜け出すことができず、永久に天国に入る資格はない。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[御言葉讃美歌·終わりの日の神の 受肉の背後にある目的]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7514619/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7514619</id><summary><![CDATA[🌸御言葉讃美歌終わりの日の神の受肉の背後にある目的 創世から今に至り終わりの日に神は大いなる業為すため肉となって来た神は苦痛に耐え自らを謙らせ人となったなのに神の働きは決して遅れることがなかった計画に沿い今も神はその働きをしてるこれらの業の目的は人々が獲得され救われ　神を証しするようになるためそして神の栄光は受けられる 神は人を征服するため肉となり愛する者たちを完全にする彼らが神を証しするのをその目で見たいと願うそのような人々は多くない一人、二人でもない異なる国から　民族から来る計画に沿い今も神はその働きをしているこれらの業の目的は人々が獲得され救われ　神を証しするようになるためそして神の栄光は受けられるそれが目的　目的　目的　目的 神の裁き、業、言葉、神の奥義は完全にされるわずかな者のため真理を告げ、いのちの中への入り方を教える肉となり与える、約束と恵みを神は真理を悪者ではなく、彼らに与える真理を実行し神のため尽くせる者へ神は真理を悪者ではなく、彼らに与える真理を実行し神のため尽くせる者へ尽くせる者へ神は今もその働きをしている神は今も計画に沿ってこれらの業の目的は人々が獲得され救われ　神を証しするようになるためそして神の栄光は受けられる　受けられるそれが目的、目的その目的、目的『言葉は肉において現れる』より]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2019-12-30T08:44:35+00:00</published><updated>2019-12-30T08:44:36+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
	<div>
		<figure>
			
		<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/the-purpose-behind-gods-incarnation-in-the-last-days.html">
			<img src="https://jp.kingdomsalvation.org/wp-content/uploads/thumb/the-purpose-behind-gods-incarnation-in-the-last-days.jpg?t=191218" width="100%">
			<small><b>終わりの日の神の受肉の背後にある目的 | 神の国降臨の福音</b></small>
			<br>
			<small>Ⅰ創世から今に至り　終わりの日に神は大いなる業為すため肉となって来た神は苦痛に耐え自らを　謙らせ人となったなのに神の働きは　決して遅れることがなかった計画に沿い今も神は　その働きをしてるこれらの業の目的は　人々が獲得され救われ　神を　証しするようになるためそして神の栄光は　受けられる　　Ⅱ神は人を征服するため肉となり　愛する者たちを完全にする彼らが神を証しするのを　その目で見たいと願うそのような人々は多くない　 一人、二人でもない異なる国から　民族から来る計画に沿い今も神は　その働きをしているこれらの業の目的は　人々が獲得され救われ　神を　証しするようになるためそして神の栄光は　受けられるそれが目的　目的　目的　目的Ⅲ神の裁き、業、言葉、神の奥義は完全にされるわずかな者のため真理を告げ、いのちの中への入り方を教える肉となり与える、約束と恵みを神は真理を悪者ではなく、彼らに与える真理を実行し　神のため尽くせる者へ神は真理を悪者ではなく、彼らに与える真理を実行し　神のため尽くせる者へ尽くせる者へ神は今もその働きをしている神は今も計画に沿ってこれらの業の目的は　人々が獲得され救われ　神を　証しするようになるためそして神の栄光は　受けられる　受けられるそれが目的、目的その目的、目的『言葉は肉において現れる』より</small>
		</a>
		</figure>
	</div>
		<div>
			<p><b>🌸御言葉<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/hymns.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">讃美歌</a></b></p><p>終わりの日の神の受肉の背後にある目的</p><p> </p><p><br></p><p>創世から今に至り</p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/only-christ-of-the-last-days-can-give-man-the-way-of-eternal-life-selections.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>終わりの日</b></a>に</p><p>神は大いなる業為すため</p><p>肉となって来た</p><p>神は苦痛に耐え自らを</p><p>謙らせ人となった</p><p>なのに神の働きは</p><p>決して遅れることがなかった</p><p>計画に沿い今も神は</p><p>その働きをしてる</p><p>これらの業の目的は</p><p>人々が獲得され</p><p>救われ　神を</p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/testimonies.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>証し</b></a>するようになるため</p><p>そして神の栄光は</p><p>受けられる</p><p> </p><p>神は人を</p><p>征服するため肉となり</p><p>愛する者たちを完全にする</p><p>彼らが神を証しするのを</p><p>その目で見たいと願う</p><p>そのような人々は多くない</p><p>一人、二人でもない</p><p>異なる国から　民族から来る</p><p>計画に沿い今も神は</p><p>その働きをしている</p><p>これらの業の目的は</p><p>人々が獲得され</p><p>救われ　神を</p><p>証しするようになるため</p><p>そして神の栄光は</p><p>受けられる</p><p>それが目的　目的　目的　目的</p><p> </p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/beholding-the-appearance-of-god-in-his-judgment-and-chastisement-selections.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の裁き</b></a>、業、言葉、</p><p>神の奥義は</p><p>完全にされる</p><p>わずかな者のため</p><p><a href="真理" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>真理</b></a>を告げ、</p><p>いのちの中への</p><p>入り方を教える</p><p>肉となり与える、</p><p>約束と恵みを</p><p>神は真理を悪者ではなく、</p><p>彼らに与える</p><p>真理を実行し</p><p>神のため尽くせる者へ</p><p>神は真理を悪者ではなく、</p><p>彼らに与える</p><p>真理を実行し</p><p>神のため尽くせる者へ</p><p>尽くせる者へ</p><p>神は今もその働きをしている</p><p>神は今も計画に沿って</p><p>これらの業の目的は</p><p>人々が獲得され</p><p>救われ　神を</p><p>証しするようになるため</p><p>そして神の栄光は</p><p>受けられる　受けられる</p><p>それが目的、目的</p><p>その目的、目的</p><p>『言葉は肉において現れる』より</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン（３）受肉の奥義を明らかにする]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7509876/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7509876</id><summary><![CDATA[🌸あらすじクリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン（３）受肉の奥義を明らかにする主を信じる人々は皆、主イエスが神の受肉された姿であることを知っていますが、受肉の真理を本当に理解できている人はひとりもいません。聖書の預言では、主は再び肉体の姿となり、終わりの日に御言葉を表し、働きをなさる、とあります。受肉された神を知らなければ、私たちには主の再臨を歓迎する術がありません。そのため、神の受肉を知ることが主の再臨を歓迎するための鍵となります。では私たちはどうしたら受肉された神を知ることができるのでしょうか？🌸おすすめ動画キリスト教映画「敬虔の奥義」抜粋シーン（１）人の子の到来の奥義聖書映画「敬虔の奥義：続編」抜粋シーン（５）二度にわたる神様の受肉の重要性を理解する]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2019-12-29T07:11:00+00:00</published><updated>2019-12-29T07:11:00+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p>URL: <a href="https://youtu.be/QTdWq287Gpc">youtu.be
					<img src="https://i.ytimg.com/vi/QTdWq287Gpc/hqdefault.jpg" width="100%">
				</a>
			</p>
		</div>
		<div>
			<p>🌸あらすじ</p><p>クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン（３）<b><a href="https://jp.godfootsteps.org/what-is-incarnation.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">受肉</a></b>の奥義を明らかにする</p><p>主を信じる人々は皆、主イエスが神の受肉された姿であることを知っていますが、受肉の真理を本当に理解できている人はひとりもいません。聖書の預言では、主は再び肉体の姿となり、終わりの日に御言葉を表し、働きをなさる、とあります。受肉された神を知らなければ、私たちには<a href="https://jp.godfootsteps.org/almighty-god-is-the-returned-jesus.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>主の再臨</b></a>を歓迎する術がありません。そのため、神の受肉を知ることが主の再臨を歓迎するための鍵となります。では私たちはどうしたら受肉された神を知ることができるのでしょうか？</p><p><br></p><p>🌸おすすめ動画</p><p><a href="https://jp.godfootsteps.org/videos/gospel-clips-the-mystery-of-the-descent-of-the-son-of-man.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">キリスト教映画「敬虔の奥義」抜粋シーン（１）人の子の到来の奥義</a></p><p><a href="https://jp.godfootsteps.org/videos/the-mystery-of-godliness-2-5.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">聖書映画「敬虔の奥義：続編」抜粋シーン（５）二度にわたる神様の受肉の重要性を理解する</a></p><p><br></p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[I. 神の受肉に関する真理·5. 受肉した神と神に使われる人々との本質的な違い]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7506641/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7506641</id><summary><![CDATA[🌸I. 神の受肉に関する真理5. 受肉した神と神に使われる人々との本質的な違い参考聖書箇所「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」（マタイによる福音書 3:11）関連する神の言葉受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はいかなる人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性も、神性も父なる神の心に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。……神自身は不従順の要素を持たない。神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善と、すべての愛の現れである。肉の姿であっても、神は父なる神に逆らうようなことは行わない。自身の命を犠牲にしてでも、神は心底から父なる神に従い、他の選択はしない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は不正な要素を持たない。神に逆らうものはすべてサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンに似た性質を持っている理由は、サタンが人に影響を与え堕落させたからである。キリストはサタンによって堕落させられていないため、神の特性のみを持っており、サタンの性質は全く持たない。『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より神の霊が纏った肉は、神自身の肉である。神の霊は至高のものであり、神の霊は全能であり、聖であり、義である。それと同様に、神の肉も至高のものであり、全能であり、聖であり、義である。このような肉は、義であり人間に有益な物事、聖なるものであって栄光ある物事、力ある物事しか行うことが出来ず、真理や道義に反する物事を行うことが出来ず、ましてや神の霊を裏切る物事を行うことなど出来ない。神の霊は聖なるものであり、したがって神の肉は、サタンが腐敗させることの出来ないものであり、人間の肉の本質と異なる。なぜなら、サタンにより腐敗させられているのは、人間であって神では無いからである。サタンは神の肉を腐敗させることはできない。したがって、人間とキリストは同じ空間にあるにもかかわらず、サタンにより占有され、利用され、囚われているのは人間だけである。それに対し、キリストはサタンによる腐敗の影響を永久に受けない。なぜなら、サタンは最も高い場所まで昇り、神に近付くことが決して出来ないからである。今日、あなたがたは全員、サタンにより腐敗させられ、わたしを裏切っているのは人間のみであり、この問題はキリストと無関係であることを理解する必要がある。『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り（２）」より受肉した神は、神によって用いられる人々とは本質的に異なる。受肉した神は神性の働きを行なえるが、神によって用いられる人々にはできない。それぞれの時代の始まりにおいて、神の霊は自ら語り、新しい時代を始め、人間を新しい始まりへと導く。神が語り終えたときは、それは神性における神の働きが終了したことを意味する。その後は、人々はみな神によって用いられる人々の導きに従い、いのちの経験に入る。『言葉は肉において現れる』の「受肉した神と神に使われる人々との本質的な違い」より受肉した神は普通の人間の心をもつが、その働きは人間の思考によって劣化しない。神は普通の心をもつ人間として働きを行うが、心をもった人間性はその前提条件であり、通常の人間の考えを行使することによりその働きを行うのではない。神の肉の体がどれほど崇高な考えをもとうと、神の働きは論理や思考の産物ではない。つまり、神の働きは肉の体から生まれるのではなく、人間性の内における神性の働きの直接的な現れなのである。その働きはみな、成就するべき職分であり、そのどれも人間の頭脳の産物ではない。たとえば、病人の癒し、悪霊祓い、磔刑はイエスの人間としての心の産物ではなく、人間の心をもった人間がなし得ることはなかったであろう。同様に、今日の征服の働きも受肉した神が行うべき務めであるが、人間の意図による働きではない。これは、キリストの神性が行うべき働きであって、肉の体をもつ人間に可能な働きではない。『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」よりこれまでの時代をとおして、神が用いた人々は皆、普通の思考と理知を駆使することができる。彼らは皆、人間としての行動の法則を知っている。彼らは普通の人間の観念をもち、一般的な人々がもつべきあらゆるものを備えている。彼らのほとんどが例外的な才能や生来の知性をもっている。これらの人々に働きかける際に、神の霊は、神からの授かりものである彼らの才能を役立てる。神の霊は彼らの才能を活用し、彼らの強みを神に仕えるために用いる。しかし、神の本質には観念や思惟はなく、人間の意図が混ざり込んでおらず、普通の人間が備えているものを欠いてさえする。つまり、神は人間の行動原則に精通さえしていないのである。これが今日の神が地上に来るときの様子である。その働きと言葉には、人間の意図や人間の考えが混ざり込んでおらず、それらは霊の意図の直接的な顕示であり、今日の神は直接に神の代わりに働く。これはつまり、人間の意図がほんの少しも混ざることなく、霊が直接語る、つまり神性が直接働きを為すことを意味している。言い換えると、受肉した神は直接的に神性を体現し、人間の思惟や観念をもたず、人間の行動原則に関する理解ももっていないということである。もし神性だけが働いていたならば（つまり、神自身だけが働いていたならば）、神の働きが地上で実行されることはなかったであろう。だから神が地上に来るとき、神性において神が行なう働きと関連して、人間性において働きを行なうために用いる少数の人々が必要なのである。言い換えるならば、神は神性の働きを支えるために、人間性の働きを使う。そうでなければ、人が神性の働きと直接に触れ合うことはできないであろう。『言葉は肉において現れる』の「受肉した神と神に使われる人々との本質的な違い」より神自身の働きは聖霊の働きであり、肉となった神の働きは働いている聖霊以外の何物でもない。用いられている人々の働きも聖霊の働きである。神の働きは聖霊の完全な表現というだけのことで、違いはまったくないのだが、一方用いられている人々の働きは多くの人間らしい事情と混ぜ合わされており、聖霊の直接的表現ではなく、ましてや完全な表現ではない。…用いられる人々に聖霊が働きかけるとき、彼らの賜物も実際の力量も活動させられ、使わずに残されておかれることはない。彼らの実際の力量は働きに役立たせるためにすべて引き出される。聖霊は働きの成果を達成するために、人々の利用できる部分は使って働くと言うことができる。それに反して、人間の姿をした肉でなされる働きは聖霊の働きを直接表すことであり、人間の心や考えと混ぜ合わされることはなく、人の賜物や経験、あるいは生来の条件では到達不可能である。『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」よりわたしの話はわたしの存在を表すが、わたしの言うことは人の力の及ぶものではない。わたしの言うことは人が経験することではなく、人に見えるものではなく、触れることができるものでもなく、わたしそのものである。一部の人はわたしが話すことは、わたしが経験したものであることだけは認めるが、聖霊の直接的表現であることを認識しない。もちろん、わたしの言うことはわたしが経験したことである。6000年にわたり、経営の働きをしてきたのはわたしである。わたしは人類創造の始めから今に至るまですべてを経験してきた。わたしがそのことについて語れないわけがあろうか。人の本性のこととなると、わたしはそれをはっきり見たし、長いこと観察してきた。それについてはっきり語れないわけがあろうか。人の本質をはっきり見てきたので、わたしには人を罰したり、裁いたりする資格がある。人はすべてわたしからもたらされたのに、サタンによって堕落させられたからである。もちろん、わたしはこれまでわたしが行ってきた働きを評価する資格もある。この働きはわたしの肉によってなされることではないが、聖霊の直接的表現であり、これはわたしが持っているもの、わたしそのものである。したがって、わたしはそれを表し、わたしのなすべき働きを行う資格がある。人が言うことは彼らが経験してきたことであり、見てきたもの、彼らの精神が到達できるもの、彼らの判断力で感じることができるものである。それなら彼らは語ることができる。人間の姿をした神の肉が語る言葉は聖霊の直接的表現であり、聖霊によってなされた働きを表している。肉はそれを経験しても、見てもいないが、それでも神の存在を表しているのは、肉の本質は聖霊であり、神は聖霊の働きを示しているからである。肉では到達することができなくても、それは聖霊によってすでになされた働きである。受肉のあと、肉の表現を通して神は人々に神の存在を知らしめ、人々が神の性質、ならびに神がした働きを見ることを許す。人の働きによって、人々は何において成長するべきか、何を理解するべきかについてもっと明確にすることができる。人の働きには、真理を理解し、経験する方向に人々を導くことが含まれる。人の働きは人々を支えることである。神の働きは人類のために新しい道を開拓し、新しい時代を開拓し、人々に、普通の人間には知られていないことを明らかにし、神の性質をわからせることである。神の働きは人類すべてを導くことである。『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。…人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。神によって語られた言葉を単に聖霊による啓示と見なし、使徒や預言者の言葉を神自らが語る言葉として受け取るならば、それは間違っている。『言葉は肉において現れる』の「序文」より]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2019-12-28T11:40:50+00:00</published><updated>2019-12-28T11:40:50+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><b>🌸I. 神の受肉に関する真理</b></p><p><br></p><p>5. 受肉した神と神に使われる人々との本質的な違い</p><p>参考<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel-categories/inside-story-of-the-bible.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">聖書</a>箇所</p><p>「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/what-is-the-work-of-the-holy-spirit.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>聖霊</b></a>と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」（マタイによる福音書 3:11）</p><p>関連する<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/all-is-achieved-by-the-word-of-god.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の言葉</b></a></p><p>受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel/gods-incarnation-2.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>受肉</b></a>したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はいかなる人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性も、神性も父なる神の心に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。…</p><p>…神自身は不従順の要素を持たない。神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善と、すべての愛の現れである。肉の姿であっても、神は父なる神に逆らうようなことは行わない。自身の命を犠牲にしてでも、神は心底から父なる神に従い、他の選択はしない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は不正な要素を持たない。神に逆らうものはすべてサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンに似た性質を持っている理由は、サタンが人に影響を与え堕落させたからである。キリストはサタンによって堕落させられていないため、神の特性のみを持っており、サタンの性質は全く持たない。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より</p><p>神の霊が纏った肉は、神自身の肉である。神の霊は至高のものであり、神の霊は全能であり、聖であり、義である。それと同様に、神の肉も至高のものであり、全能であり、聖であり、義である。このような肉は、義であり人間に有益な物事、聖なるものであって栄光ある物事、力ある物事しか行うことが出来ず、<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/reality-of-the-truth-1.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>真理</b></a>や道義に反する物事を行うことが出来ず、ましてや神の霊を裏切る物事を行うことなど出来ない。神の霊は聖なるものであり、したがって神の肉は、サタンが腐敗させることの出来ないものであり、人間の肉の本質と異なる。なぜなら、サタンにより腐敗させられているのは、人間であって神では無いからである。サタンは神の肉を腐敗させることはできない。したがって、人間とキリストは同じ空間にあるにもかかわらず、サタンにより占有され、利用され、囚われているのは人間だけである。それに対し、キリストはサタンによる腐敗の影響を永久に受けない。なぜなら、サタンは最も高い場所まで昇り、神に近付くことが決して出来ないからである。今日、あなたがたは全員、サタンにより腐敗させられ、わたしを裏切っているのは人間のみであり、この問題はキリストと無関係であることを理解する必要がある。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り（２）」より</p><p>受肉した神は、神によって用いられる人々とは本質的に異なる。受肉した神は神性の働きを行なえるが、神によって用いられる人々にはできない。それぞれの時代の始まりにおいて、神の霊は自ら語り、新しい時代を始め、人間を新しい始まりへと導く。神が語り終えたときは、それは神性における神の働きが終了したことを意味する。その後は、人々はみな神によって用いられる人々の導きに従い、いのちの経験に入る。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「受肉した神と神に使われる人々との本質的な違い」より</p><p>受肉した神は普通の人間の心をもつが、その働きは人間の思考によって劣化しない。神は普通の心をもつ人間として働きを行うが、心をもった人間性はその前提条件であり、通常の人間の考えを行使することによりその働きを行うのではない。神の肉の体がどれほど崇高な考えをもとうと、神の働きは論理や思考の産物ではない。つまり、神の働きは肉の体から生まれるのではなく、人間性の内における神性の働きの直接的な現れなのである。その働きはみな、成就するべき職分であり、そのどれも人間の頭脳の産物ではない。たとえば、病人の癒し、悪霊祓い、磔刑はイエスの人間としての心の産物ではなく、人間の心をもった人間がなし得ることはなかったであろう。同様に、今日の征服の働きも受肉した神が行うべき務めであるが、人間の意図による働きではない。これは、キリストの神性が行うべき働きであって、肉の体をもつ人間に可能な働きではない。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より</p><p>これまでの時代をとおして、神が用いた人々は皆、普通の思考と理知を駆使することができる。彼らは皆、人間としての行動の法則を知っている。彼らは普通の人間の観念をもち、一般的な人々がもつべきあらゆるものを備えている。彼らのほとんどが例外的な才能や生来の知性をもっている。これらの人々に働きかける際に、神の霊は、神からの授かりものである彼らの才能を役立てる。神の霊は彼らの才能を活用し、彼らの強みを神に仕えるために用いる。しかし、神の本質には観念や思惟はなく、人間の意図が混ざり込んでおらず、普通の人間が備えているものを欠いてさえする。つまり、神は人間の行動原則に精通さえしていないのである。これが今日の神が地上に来るときの様子である。その働きと言葉には、人間の意図や人間の考えが混ざり込んでおらず、それらは霊の意図の直接的な顕示であり、今日の神は直接に神の代わりに働く。これはつまり、人間の意図がほんの少しも混ざることなく、霊が直接語る、つまり神性が直接働きを為すことを意味している。言い換えると、受肉した神は直接的に神性を体現し、人間の思惟や観念をもたず、人間の行動原則に関する理解ももっていないということである。もし神性だけが働いていたならば（つまり、神自身だけが働いていたならば）、神の働きが地上で実行されることはなかったであろう。だから神が地上に来るとき、神性において神が行なう働きと関連して、人間性において働きを行なうために用いる少数の人々が必要なのである。言い換えるならば、神は神性の働きを支えるために、人間性の働きを使う。そうでなければ、人が神性の働きと直接に触れ合うことはできないであろう。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「受肉した神と神に使われる人々との本質的な違い」より</p><p>神自身の働きは聖霊の働きであり、肉となった神の働きは働いている聖霊以外の何物でもない。用いられている人々の働きも聖霊の働きである。神の働きは聖霊の完全な表現というだけのことで、違いはまったくないのだが、一方用いられている人々の働きは多くの人間らしい事情と混ぜ合わされており、聖霊の直接的表現ではなく、ましてや完全な表現ではない。…用いられる人々に聖霊が働きかけるとき、彼らの賜物も実際の力量も活動させられ、使わずに残されておかれることはない。彼らの実際の力量は働きに役立たせるためにすべて引き出される。聖霊は働きの成果を達成するために、人々の利用できる部分は使って働くと言うことができる。それに反して、人間の姿をした肉でなされる働きは聖霊の働きを直接表すことであり、人間の心や考えと混ぜ合わされることはなく、人の賜物や経験、あるいは生来の条件では到達不可能である。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より</p><p>わたしの話はわたしの存在を表すが、わたしの言うことは人の力の及ぶものではない。わたしの言うことは人が経験することではなく、人に見えるものではなく、触れることができるものでもなく、わたしそのものである。一部の人はわたしが話すことは、わたしが経験したものであることだけは認めるが、聖霊の直接的表現であることを認識しない。もちろん、わたしの言うことはわたしが経験したことである。6000年にわたり、経営の働きをしてきたのはわたしである。わたしは人類創造の始めから今に至るまですべてを経験してきた。わたしがそのことについて語れないわけがあろうか。人の本性のこととなると、わたしはそれをはっきり見たし、長いこと観察してきた。それについてはっきり語れないわけがあろうか。人の本質をはっきり見てきたので、わたしには人を罰したり、裁いたりする資格がある。人はすべてわたしからもたらされたのに、サタンによって堕落させられたからである。もちろん、わたしはこれまでわたしが行ってきた働きを評価する資格もある。この働きはわたしの肉によってなされることではないが、聖霊の直接的表現であり、これはわたしが持っているもの、わたしそのものである。したがって、わたしはそれを表し、わたしのなすべき働きを行う資格がある。人が言うことは彼らが経験してきたことであり、見てきたもの、彼らの精神が到達できるもの、彼らの判断力で感じることができるものである。それなら彼らは語ることができる。人間の姿をした神の肉が語る言葉は聖霊の直接的表現であり、聖霊によってなされた働きを表している。肉はそれを経験しても、見てもいないが、それでも神の存在を表しているのは、肉の本質は聖霊であり、神は聖霊の働きを示しているからである。肉では到達することができなくても、それは聖霊によってすでになされた働きである。受肉のあと、肉の表現を通して神は人々に神の存在を知らしめ、人々が神の性質、ならびに神がした働きを見ることを許す。人の働きによって、人々は何において成長するべきか、何を理解するべきかについてもっと明確にすることができる。人の働きには、真理を理解し、経験する方向に人々を導くことが含まれる。人の働きは人々を支えることである。神の働きは人類のために新しい道を開拓し、新しい時代を開拓し、人々に、普通の人間には知られていないことを明らかにし、神の性質をわからせることである。神の働きは人類すべてを導くことである。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より</p><p>神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。…人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。神によって語られた言葉を単に聖霊による啓示と見なし、使徒や預言者の言葉を神自らが語る言葉として受け取るならば、それは間違っている。</p><p>『言葉は肉において現れる』の「序文」より</p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[言葉は肉において現れる·神の宿る肉の本質]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7502414/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7502414</id><summary><![CDATA[最初に受肉した神は地上で三十三年半間生きたが、職分を果たしたのは、そのうちのたった三年半であった。働きをしていた時も、働きを始める前も、イエスは普通の人間性をもっていた。普通の人間性を三十三年半間宿したのである。最後の三年半の間に、イエスは自分が受肉した神であることを明らかにした。職分を果たし始める前は、普通の正常な人間性を示し、その神性の兆候は何も示さなかった。公に職分を果たし始めた後になってはじめて、神性が示された。最初の二十九年間の生活と働きは、イエスが本物の人間、人の子、肉体をもつ人であることを証明していた。イエスの職分は二十九歳以降に本格的に始まったからである。受肉というのは、神が肉の体で現れることで、神が自分の創った人間のもとで働くために人間の姿で来るのである。さて、神が受肉するというのは、まず肉の体、普通の人間性を備えた肉体でなくてはならず、それが最も基本的な前提条件である。実際、神が受肉するということは、神が肉体において生き働くということ、その本質において肉となり、ひとりの人になるということを意味する。神の受肉した生活と働きは二つの段階に分けられる。第一は職分を始める前の生活。神は普通の人間の家族として暮らし、ごく普通の人間性をもち、人間生活の通常の道徳や法に従い、普通の人間の必要（食物、衣服、住まい、睡眠）をもち、普通の人間の弱さ、普通の人間の感情をもって暮らす。つまり、この最初の段階で、神は神ではなく完全に普通の人間として、あらゆる普通の人間的な活動を行いながら生きる。第二の段階は、職分を果たし始めた後の生活である。神はまだ普通の人間の外形で通常の人間性において暮らし、表向きには超常的なしるしは何も現さない。しかし、神は純粋にその職分のために生き、この期間の普通の人間性は、ひたすら神として普通の働きのために存在する。そのころには、普通の人間性は職分を果たせるほどに成熟していたのだから。そこで、第二の段階では普通の人間性において職分を果たすこととなり、それは通常の人間性と完全な神性を兼ね合わせる生活である。前半生で神がまったく普通の人間的な生活をする理由は、まだその人間性が神性の働きの全体と同等でないから、まだ成熟していないからである。人間性が成熟して、その職分を背負えるようになってはじめて、職分を果たし始めることができるのである。肉体をもつ者として神は成長し、成熟する必要があるので、その生涯の最初の段階は普通の人間のものである。第二段階に入ると、その人間性が働きに着手し、職分を果たせるようになっているので、職分を果たす間の受肉した神の生活は、人間性と完全な神性の二つを併せもつものである。もし受肉した神が生まれた瞬間から本格的に職分を果たし、超自然のしるしや不思議を示し始めたなら、その肉体の本質は何もないであろう。だから、受肉した神の人間性は、肉体的な本質のために存在するのである。人間性なくして肉は存在しない。また、人間性のない人は人間ではない。このように、神の肉の人間性は、受肉した肉のなくてはならない性質である。「神が人間になった時、神は完全な神で、まったく人間ではない」と言うのは瀆神行為である。なぜなら、これは受肉の原理に反する、あり得ない立場だからである。神がその職分を始めた後も、その神性は働きを行う人間の外形にまだ宿っている。ただその時、神の人間性は神性が通常の肉の体で働きを行えるようにするという目的だけを果たすのである。だから、働きをする者は、人間性に宿る神性である。働いているのは神の人間性ではなく神性だが、それは人間性の中に隠れた神性である。神の働きは、つまるところ、完全な神性が行うのであって、人間性によるのではない。しかし、働きを実践するのは神の肉である。このような神は、人間でありかつ神であると言えるだろう。神は肉の体で生きる神となり、人間の姿と人間の本質をもつが、また神の本質をも備えているからである。神の本質を備えた人間だから、被造物であるどの人間、神の働きを行うことのできるどの人間よりも上位に位置する。そこで、このような人間の姿をした者たちの中で、人間性をもつすべての者の中で、神だけが受肉した神そのものである。他はみな、被造物である人間である。受肉した神と人間の双方に人間性があるが、被造物である人間には人間性以外には何もない。ところが、受肉した神は違う。受肉した神は、その肉体において人間性だけではなく、さらに重要なことに神性をも備えている。神の人間性は肉の体の外見や毎日の生活に見られる。しかしその神性は感知しにくい。神の神性は人間性があってはじめて現れるのだから、また、人々が想像するほど超自然なものではないから、人々がそれを見るのは極めて難しい。今日でも受肉した神の本質を理解するのは極めて難しい。実際、わたしがこれほど長い間話してきても、あなたがたの大半にとってはいまだに謎であることであろう。これはとても単純なことなのである。神が人間になると、その本質は人間性と神性の合わさったものである。この組み合わせが神そのものと呼ばれる、地上における神そのものなのである。イエスが地上で生きた生活は、肉体をもつ人間の通常の生活であった。イエスはその肉体の正常な人間性において生きた。イエスの権威──彼の働きをし、彼の言葉を話し、病者を癒やし、悪霊を祓うといった、驚くべきことを行うためのもの──は、大方、職分を果たし始めるまでは示されなかった。二十九歳までの生活、教えを説く前は、イエスがただ普通の肉体をもった人間であったことの十分な証拠であった。そのため、そして、イエスがまだ職分を果たし始めていなかったため、人々はイエスに何の神性も見出さなかった。普通の人間、平凡な人間しか見なかった――ちょうど当時の人々がイエスはヨセフの息子だと信じていたように。人々は、イエスは普通の人間の息子だと思い、神の受肉したものであるとは知りようもなかった。職分を果たしながら、多くの奇跡を行ったときでさえも、たいていの人々はあれはヨセフの息子だと言った。イエスは普通の人間の外形をしたキリストだったからである。イエスの普通の人間性とその働きは、神が完全に受肉し、全く普通の人間になるという、最初の受肉の意味を満たすために存在した。働きを始める前のイエスが普通の人間性をもっていたことは、イエスが普通の肉体をもつ人間であった証拠である。そして、その後、イエスが働きをしたことも、通常の人間であることを示していた。イエスは普通の人間性をもつ肉体において、しるしや不思議を行い、病む者を癒やし、悪霊を祓ったのだから。イエスが奇跡を行うことができたのは、その肉に神の権威を帯びており、神の霊が人間の姿をしていたものだからである。イエスにこの権威があったのは、神の霊のためであり、イエスが人間ではなかったということではない。病む者を癒やし、悪霊を祓うことは、イエスがその職分において行う必要のある働きであり、人間性に隠された神性の表明であった。どのようなしるしを示そうと、どのようにその権威を示そうと、イエスはやはり普通の人間性において生き、普通の肉体をもつ人間であった。十字架上で死んで蘇るまで、イエスは普通の肉の中に宿っていた。恵みを与え、病人を癒し、悪霊を祓うことは、その働きの一部であり、すべて普通の人間の体で行われた働きである。イエスは十字架に行く前には、何をしているときであっても、けっして普通の人間の体を離れなかった。イエスは神そのものであり、神の働きをしたが、受肉した神であったため、食物を食べ、衣服を着、普通の人間と同じものを必要とし、普通の人間の理性と普通の人間の心をもっていた。これはみな、イエスが普通の人間であったことの証拠であり、受肉した神の体は普通の人間性をもつ肉体であって、超自然のものではないということを示している。イエスの務めは神の最初の受肉の働きを完了すること、最初の受肉の職分を果たすことであった。受肉の意義は、平凡な普通の人間が神そのものの働きをするということであり、つまり、神が人間性の内に神としての働きを行い、それによってサタンを打ち破るということである。受肉とは、神の霊が肉となる、つまり、神が肉となるということである。神が肉において行う働きは、肉において実現し、肉において表される霊の働きである。神の肉体以外には誰も、受肉した神の働きを成就できない。つまり、受肉した神の肉だけが、他の誰でもなくこの普通の人間だけが、神の働きを示せるのだ。もし最初の顕現で、神が二十九歳になる前に普通の人間性をもっていなければ──もし生まれてすぐに奇跡を行うことができたなら、もし、話せるようになってすぐに天の言葉を話せたなら、地上に初めて着いたときにすべての世俗的な物事を理解し、すべての人の考えや意図を知ることができたなら──そのような人は普通の人間とは呼ばれなかったであろうし、そのような肉は人間の肉とは呼ばれなかっただろう。もしキリストがそういうものであったなら、神の受肉の意味と本質は失われていたであろう。キリストが普通の人間性をもっていたことは、キリストが肉の体をもった、受肉した神であったことを示している。キリストが普通の人間としての成長過程を過ごしたことは、キリストが普通の人間であったことをさらに証明するものだ。そのうえ、キリストの働きは、キリストが神の言葉、神の霊が人間となったものであることの十分な証拠である。神が人間になるのは、働きに必要なためである。つまり、その段階の働きには肉の体で、普通の人間性において行う必要があるからである。これが「言葉は肉となる」、「言葉は肉において現れる」ための前提条件であり、これが神の二度の受肉の背後にある実話だからである。人々はイエスの全生涯は不思議に満ちていたと思っているであろう。地上での働きの終わりまで、普通の人間性を示さず、普通の人間のような必要や弱さ、人間的な感情もなく、また、人間生活の基本的な必要もなく、普通の人間のような考えもなかった、と思っているであろう。そういう人々は、イエスが超人的な頭脳、超越的な人格だけをもつと想像している。人々は、イエスは神なのだから、普通の人間のするように考え、生きることはないはずだ、普通の人、本物の人間だけが、普通の人間のように考え、普通の人間のように生きるのだと考えている。これらはみな人間の発想、人間の考えであって、神の働きの本来の意図に反するものである。普通の人間の考えは、普通の人間の理知と普通の人間性を支える。普通の人間性は普通の肉の機能を支える。そして、普通の肉の機能は普通の人間の生活すべてを可能にする。そうした肉において働いてはじめて、神はその受肉の目的を達することができる。受肉した神が肉の外形だけはもつが、普通の人間のように思考しないとしたら、この肉は人間の理性をもたず、まして、本物の人間性ももたないであろう。そうした人間性を欠いた肉が、どうして受肉した神が果たすべき職分を成就できたであろう。普通の心は人間生活のあらゆる面を支える。普通の心がなければ、それは人間ではないであろう。つまり、普通の考え方をしない人は、精神を病んでいるのである。そして、人間性をもたず神性だけをもつキリストは、神の受肉した体であるとはいえない。それで、神の受肉した体に普通の人間性がないということがなぜあり得るのか。キリストに人間性がないというのは、冒瀆ではないのか。普通の人間が行う活動は、普通の人間の心の働きに依存している。それがなければ、人間は異常な振る舞いをする。黒と白の違い、善悪を区別することさえもできないであろう。また、人間的な倫理観や道徳律もないだろう。同様に、もし受肉した神が普通の人間のように考えないのなら、それは本物の肉、普通の人間ではない。そうした思考しない肉が神性の働きを担うことはできないであろう。それでは肉の普通の活動をすることができず、まして、地上で人間と共に生きることはできないであろう。そのため、神の受肉の意義、神が肉として顕現することの本質は失っていたであろう。受肉した神の人間性は、肉において普通の神性の働きを維持するためにある。神の普通の人間としての考え方が、その普通の人間性とあらゆる普通の身体的活動を維持する。神が普通の人間的思考をするのは、神が肉においてする働きをすべて支えるためなのだと言えるだろう。この肉が普通の人間の心をもたないのなら、神は肉における働きができず、肉においてするべきことを成就できない。受肉した神は普通の人間の心をもつが、その働きは人間の思考によって劣化しない。神は普通の心をもつ人間として働きを行うが、心をもった人間性はその前提条件であり、通常の人間の考えを行使することによりその働きを行うのではない。神の肉の体がどれほど崇高な考えをもとうと、神の働きは論理や思考の産物ではない。つまり、神の働きは肉の体から生まれるのではなく、人間性の内における神性の働きの直接的な現れなのである。その働きはみな、成就するべき職分であり、そのどれも人間の頭脳の産物ではない。たとえば、病人の癒し、悪霊祓い、磔刑はイエスの人間としての心の産物ではなく、人間の心をもった人間がなし得ることはなかったであろう。同様に、今日の征服の働きも受肉した神が行うべき務めであるが、人間の意図による働きではない。これは、キリストの神性が行うべき働きであって、肉の体をもつ人間に可能な働きではない。だから、受肉した神は普通の人間の心をもたなければいけない。普通の人間性をもたなければいけない。なぜなら、普通の心をもった人間性の内にあって働かなければいけないからである。これが受肉した神の働きの本質、受肉した神の本質そのものである。イエスがその働きをする以前、イエスはただ普通の人間として生きた。誰一人、イエスが神であるとはわからなかったし、誰一人、イエスが受肉した神であることを気付かなかった。人々はただ、どこから見ても普通の人間としてイエスを知っていた。イエスのまったく平凡な普通の人間性は、神が受肉して人間の肉の形になっていたことと、恵みの時代は受肉した神の働きの時代であり、霊の働きの時代ではないことの証拠であった。これは、神の霊が完全に肉において現れたこと、神が受肉した時代には、肉の体が霊の働きをすべて行うことの証拠であった。普通の人間性をもつキリストは、霊が顕現した肉体であり、普通の人間性、普通の理知、人間的思考をもっている。「顕現」とは神が人間となること、霊が肉となることである。わかりやすく言えば、神自身が普通の人間性をもつ肉に宿るということで、それによって神性の働きを表す──これが顕現、または受肉の意味である。最初の受肉の間、神が病人を癒し、悪霊を祓うことが必要だったのは、神の働きが、贖うことだったからである。全人類を贖うためには、神は憐れみをもって赦す必要があった。イエスが十字架につけられる前にした働きは、病者を癒やし、悪霊を祓うことだったが、これは、人間を罪と穢れから救うことを予め告げるものであった。これは恵みの時代だったため、イエスが病者を癒やし、しるしや不思議を示す必要があった。これがその時代の恵みを表すものであった。恵みの時代が、人々のイエスへの信仰の象徴である平和と喜び、物質的幸いに象徴される恵みを施すことを中心としていたためである。これはつまり、病者を癒し、悪霊を祓い、恵みを与えることが、恵みの時代のイエスの肉に生まれながらに備わった能力だったということで、それが肉において霊が実現した働きであったのだ。しかし、イエスはそうした働きをしている間、肉の体で生きており、肉を超越してはいなかった。どのような癒やしのわざを行っても、イエスは普通の人間性を備え、まだ普通の人間として生きた。神の受肉した時代、肉が霊の働きのすべてを行ったとわたしが言うのは、イエスがどのような働きをしようと、それは肉の内で行ったということである。しかし、その働きのため、人々はイエスの人間の体が完全に肉体的な本質をもつとは考えなかった。それは、この肉の体は奇跡を行うことができ、特別な場合には、肉を超越することができたからである。もちろん、こうしたこと、例えば四十日間試されたことや、山上の聖変容はみな、イエスがその職分を始めた後に起こったことだ。だから、イエスにおいては神の受肉の意義は完了しておらず、部分的に成就されただけであった。働きを始める前、イエスが肉において送った生活は、どの点から見ても、まったく普通のものであった。働きを始めた後、イエスは人間の外形だけを保った。イエスの働きは神性の現れだったので、通常の肉の機能を超えていた。結局のところ、神の受肉した肉は生身の人間とは違ったのである。もちろん、日々の生活では、他のみなと同じように食物や衣服、睡眠、住まいを必要とし、あらゆる普通の必需品を必要とし、普通の人間のように思考し、判断した。人々はそれでも、イエスの行った働きが超自然的であったということ以外では、イエスを普通の人間と見た。実際、イエスは何をしていても、普通の正常な人間性において生きており、働きをするときもその理知はごく正常なもので、その思考は他の通常の人間以上に明瞭であった。受肉した神は、このように考え判断する必要があった。きわめて通常の理性を備え、思考が明瞭な人が神の働きを表す必要があったからである。そうしてはじめて、神の肉は神性の働きを表すことができたのである。この世に生きた三十三年半の期間を通じて、イエスは普通の人間性を保っていたが、三年半の職分の間に行った働きのせいで、人々はイエスがきわめて超越的で、それ以前よりはるかに超常的であったと思った。実際は、イエスの人間性は働きを始める前も後も変わらなかった。イエスの人間性はずっと同じであった。しかし、働きを始めた前と後の相違のために、イエスの肉について二つの異なった見方が生じた。人々が何を考えようと、受肉した神はずっと元々の普通の人間性を保っていた。神は受肉して以来、肉において生きたが、その肉は普通の人間性をもっていたのだから。イエスがその働きをしようとしまいと、その肉の人間性は除くことができなかった。人間性は肉の基本的な本質だからである。イエスが職分を果たし始める前、イエスの肉は完全に普通のままで、あらゆる普通の人間的活動をした。イエスは少しも超常的な様子を示さず、奇跡的なしるしを何も見せなかった。当時、イエスはただ神を崇めるごく普通の人間であった。その信仰は他の誰よりも正直で、真摯なものであったが。イエスのまったく普通の人間性はこのように現れていた。イエスは職分を果たし始める前はまったく働きをしなかったから、誰一人、イエスの身分に気付かなかった。誰もイエスの肉が他の人々のそれと違うとはわからなかった。イエスは、たった一つの奇跡も起こさず、神自身の働きを少しもしなかったからである。しかしながら、職分を果たし始めたとき、イエスは普通の人間の外形を保ち、まだ、普通の人間の理知をもって生活していた。しかし、神自身の働きを始め、キリストとしての務めを果たし、死すべき存在である生身の人間にはできない働きをしたため、人々はイエスには普通の人間性がなく、体は完全に普通の人間のものではなく、不完全な肉体なのだと思い込んだのである。イエスの行った働きのため、人々はイエスが人間の体をもつ神であり、普通の人間性はもたないのだと言った。これは誤った考えだ。人々は神の受肉の意味を理解していなかったのだから。この誤解は、神が受肉して行った働きが、普通の人間性をもつ肉の体において表された神性の働きだったからである。神は肉をまとい、肉の内に生きた。その神の人間性の中での働きが、その普通の人間性を曖昧にした。そのため、人々は神には人間性がなかったのだと信じたのである。最初の受肉では、神は受肉の働きを完了しなかった。神が肉においてするべき働きの最初の段階を完了しただけである。だから、受肉の働きを完了するために、神は再び肉の体に戻り、肉体のもつすべての正常性と現実を生きている。つまり、神のことばが完全に普通の平凡な肉の体として現れ、それにより、肉においてやり残した働きを完了しようというのである。二度目に受肉をした体は、本質的には最初と変わらないが、もっと現実的で、最初よりもさらに普通なものだ。その結果、第二の受肉の苦しみは最初のそれよりも重いのだが、この苦しみは肉における働きの結果であって、堕落した人間の苦しみとは異なる。これはまた、神の肉の体の普通さと現実から生じている。神が完全に普通かつ現実の肉体で職分を行うため、肉の体は多くの困難に耐えなければいけない。この肉の体が普通で現実のものであればあるほど、神はその職分を果たすために苦しむ。神の働きはごく普通の体、まったく超自然的でない体において表される。神の肉は普通で、人間を救う働きをも担わなければいけないので、その苦しみは超自然の肉よりもはるかに大きい──この苦しみはみな、神の体の現実と正常さから来ている。受肉した二つの体が職分を果たしていたときに受けた苦しみから、受肉した肉の本質がわかる。肉体が普通であればあるほど、働きを行う間、それだけ大きな苦難を神は耐えなければならない。働きをする肉体が現実的であればあるほど、人々の見方は厳しくなり、それだけ多くの危険が神にふりかかることになりがちである。それでも、肉が現実的であればあるほど、肉が普通の人間の必要と完全な理知をもっているほど、肉における働きを神はみごとに取り組むことができる。十字架につけられたのはイエスの肉、罪のための捧げ物としてイエスが捧げた肉体である。普通の人間性をもつ肉体という手段によってイエスはサタンに勝利し、人間を完全に十字架から救った。そして、神の二度目の受肉では、征服の働きを行いサタンを打ち負かすのは完全な肉の体なのである。完全に普通で現実的な肉だけが征服の働きをその全体におよんで行い、力強い証しを示すことができる。つまり、人間征服の働き[a]は、受肉した神の現実性と正常さによって効果的になるのであって、超常的な奇跡や啓示によるのではない。この受肉した神の職分は、話すことであり、それによって人間を征服し、完全にすることにある。つまり、肉として現れた霊の働き、肉の務めは、話すことで、それによって人間を征服し、顕示し、完全にし、淘汰することである。だから、肉における神の働きが完全に達成されるのは、征服する働きにおいてである。最初の贖いの働きは、受肉の働きの始まりに過ぎなかった。征服の働きをする肉は、受肉しての働きを完了させるであろう。性別では、一度目は男、二度目は女。これにより神の受肉の意味が完了する。これは人間の神についての誤解を取り除く。神は男にも女にもなれる。受肉した神には本質的に性別はない。彼は男と女を創ったが、性による差別化はしていない。この段階の働きでは、言葉という手段によって働きの成果があらわれるように、神はしるしや不思議を行わない。さらに、その理由は、受肉した神の今回の働きは病人を癒し、悪霊を祓うためではなく、話すことによって人間を征服するためであり、これは、受肉した神の肉体が本来備えている能力が、言葉を話して人間を征服するというものであって、病人を癒やし、悪霊を祓うためのものではないということである。普通の人間性における神の働きは奇跡を行うことではなく、病人を癒し、悪霊を祓うことはなく、話すことである。だから、第二の受肉をした体は、最初の時よりずっと普通のものに見える。人々は神の受肉が嘘ではないとわかっているが、この受肉した神はイエスの受肉とは異なっている。どちらも神の受肉ではあるが、完全に同じではない。イエスは普通の人間性、平凡な人間性をもっていたが、多くのしるしや不思議を伴っていた。この受肉した神においては、人間の目には、しるしや不思議は何も見えず、病者を癒すことも、悪霊を祓うことも、海の上を歩くことも、四十日間の断食もない。神はイエスがしたのと同じ働きは行わない。それは神の肉が本質的にイエスのものとどこか異なるからではなく、病者を癒したり悪霊を祓うことは、神の職分ではないからである。神は自分の働きを取り壊すこともなければ、自分の働きを妨げたりはしない。神はその実際の言葉で人間を征服するのだから、奇跡で屈服させる必要はない。そして、この段階は受肉の働きを完了するためにある。あなたが今日見る受肉した神は完全な肉の体であって、超自然的な要素は何もない。神は完全に肉の体なのだから、他の人々同様、病気になるし、他の人々同様、食物や衣服を必要とする。今回、受肉した神が超自然のしるしや不思議を見せたなら、病者を癒し、悪霊を祓ったなら、あるいは一言で殺すことができたなら、どうして征服の働きを行えるであろうか。どうして異邦人の国々で働きを広められるであろうか。病人を癒やし、悪霊を祓うのは、恵みの時代の働き、贖いの働きの第一歩であったが、神が人間を十字架から救った今となっては、もはやその働きを神は行わない。もし終わりの日に病人を癒やし、悪霊を祓い、人間のために十字架につけられたイエスと同じ「神」が現れたなら、その「神」は聖書の神の記述と同じで、人間には受け入れ易いであろうが、本質的に、それは神の霊が人間の肉をまとったものではなく、悪霊によるものであろう。すでに成就した働きは二度と繰り返さないのが神の原則だからである。したがって、神の二度目の受肉による働きは、最初の働きとは異なっている。終わりの日には、神は普通の正常な肉体で征服の働きを実現する。神は病人を癒やさず、人間のために十字架につけられることもなく、ただ肉の体で言葉を話し、肉において人間を征服する。このような肉のみが神の受肉された体である。こうした肉の体だけが、神の肉における働きを完了できる。この段階で受肉した神が困難を経験していようが、職分を果たしていようが、神は受肉の意味を完了するためにそうしているのである。これが神の最後の受肉だからである。神は二回だけ受肉することができる。三度目はありえない。最初の受肉は男性で、二度目は女性であり、そこで神の受肉した姿は人間の心の中で完全になる。さらに、二回の受肉により、すでに肉における神の働きは終わっている。一度目、受肉した神は、受肉の意味を完了するために普通の人間性を備えていた。今回も神は普通の人間性を備えているが、この受肉の意味は異なっている。もっと深く、その働きにはより深い意義がある。神が再び受肉した理由は、受肉の意味を完了するためである。神がこの段階の働きを完全に終えると、受肉の意味のすべて、つまり、肉における神の働きは完了し、もはや肉において行う働きはない。つまり、これ以後は、神が働きをするために受肉することは二度とないのである。人間を救って完全にするためにだけ、神は受肉の働きをする。つまり、神が受肉して来るのは、働きのため以外では普通のことではないのである。働きのために受肉することで、神はサタンに自分が肉体になっていること、正常な普通の人間であることを示し、それでも勝利を誇りつつ世界に君臨し、サタンを打ち破り、人間を贖い、人間を征服できることを示すのである。サタンの働きの目的は人間を堕落させることだが、神の目的は人間を救うことである。サタンは人間を底なしの淵に捕らえるが、神はそこから人間を救う。サタンはすべての人間に自分を崇めさせるが、神は人間を自分の支配下に置く。神は創造の主であるからである。この働きはみな、神の二度の受肉で達成される。神の肉は本質的に人間性と神性の一体化したもので、普通の人間性を備えている。だから、神の受肉した肉なしでは人間を救う際にこれらの成果を達成することはできず、肉の普通の人間性なしでは肉における神の働きは成果を挙げることができない。神の受肉の本質は、神が普通の人間性をもたなければいけないということである。そうでなければ、受肉する本来の意図に反することになる。なぜわたしは、受肉の意味がイエスの働きで完了しなかったと言うのであろうか。それは、ことばが完全に肉の体にならなかったからである。イエスがしたことは、神の肉の体での働きの一部分だけであった。イエスは贖いの働きだけを行い、完全に人間を得る働きはしなかった。そのため、神は終わりの日に再度受肉したのである。この段階の働きはまた、普通の人間の体で、すっかり通常の人間によって、その人間性が少しも超越的でない存在によって行われる。つまり、神は完全な人間になったのであり、身分は神である人、完全な人間、完全な肉の体が働きをする。人間の目には、神はまったく超越的ではない、ただの人間に見える。ごく普通の人物で天の言葉を話すことができ、奇跡的なしるしは何も見せず、何の奇跡も行わず、まして、大きな集会場で宗教についての内的な真理を明らかにしたりはしない。第二の受肉の働きは、人々には最初のものとはまるで違って見える。あまりに違うので、二つには何の共通点もないように見える。最初の働きのようなことは、今回は何も見られない。第二の受肉の働きは最初のものとは異なっているが、それは両者の源が同一ではないということではない。同じかどうかは、肉の体で行われる働きの性質によるのであって、外形によるのではない。三段階の働きの間に神は二度受肉し、いずれのときも受肉した神は新たな時代を開き、新しい働きをもたらした。二度の受肉は相補うのである。人間の目では、二つの肉の体が同じ源から来ていると見極めることは不可能である。言うまでもなく、これは人間の目や心の能力を超えている。しかし、両者の本質は同じである。二人の働きは同じ霊に発しているからである。受肉した二つの体が同じ源から発しているかどうかを判断できるのは、二人の生まれた時代と場所やそのような他の要素によるのではなく、二人の表す神性の働きによるのである。第二の受肉による体はイエスの行った働きは何も行わない。神の働きに慣習的な決まりはなく、それぞれが新たな道を開くからである。第二の受肉は最初の肉に関する人々の心にある印象を深めも固めもしないが、それを補い、完成させ、神についての人間の認識を深め、人々の心にある、あらゆる規則を破り、人々の心にある神についての誤った姿を消し去る。神自身の働きのどの段階も個別には、人間に神についての完全な認識を与えることはできないと言える。各段階は、全部ではなく、一部分だけを与えるのである。神はその性質を完全に示したが、人間の理解力が限られているため、神についての認識はまだ不完全なままである。人間の言語で神の性質を完全に言い表すのは不可能である。まして、神の働きの一段階だけで、どれほど完全に神を表せるだろうか。神は普通の人間性の陰に隠れて肉において働く。そして、その神性が現れてはじめて、人間は神を知ることができるのであり、その外見を見てのことではない。神はさまざまな働きを通して人間が神を知ることができるように受肉するのだが、働きの二段階は同じではない。このようにしてはじめて、人間は肉における神の働きについて、一つの面だけでなく、完全な認識をもてる。受肉しての二度の働きは別々のものだが、肉の本質とその働きの源は同一である。ただ、どちらも二つの異なった段階の働きをするために存在し、二つの別の時代に来るということである。いずれにしろ、受肉した神の肉は同じ本質と由来をもつ。これは誰も否定できない真理である。脚注a．原文には「･･･の働き」という語句が含まれていない。]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2019-12-27T11:59:46+00:00</published><updated>2019-12-27T11:59:46+00:00</updated><content 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			<p>最初に<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel/gods-incarnation-2.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>受肉</b></a>した神は地上で三十三年半間生きたが、職分を果たしたのは、そのうちのたった三年半であった。働きをしていた時も、働きを始める前も、イエスは普通の人間性をもっていた。普通の人間性を三十三年半間宿したのである。最後の三年半の間に、イエスは自分が受肉した神であることを明らかにした。職分を果たし始める前は、普通の正常な人間性を示し、その神性の兆候は何も示さなかった。公に職分を果たし始めた後になってはじめて、神性が示された。最初の二十九年間の生活と働きは、イエスが本物の人間、人の子、肉体をもつ人であることを証明していた。イエスの職分は二十九歳以降に本格的に始まったからである。受肉というのは、神が肉の体で現れることで、神が自分の創った人間のもとで働くために人間の姿で来るのである。さて、神が受肉するというのは、まず肉の体、普通の人間性を備えた肉体でなくてはならず、それが最も基本的な前提条件である。実際、神が受肉するということは、神が肉体において生き働くということ、その本質において肉となり、ひとりの人になるということを意味する。神の受肉した生活と働きは二つの段階に分けられる。第一は職分を始める前の生活。神は普通の人間の家族として暮らし、ごく普通の人間性をもち、人間生活の通常の道徳や法に従い、普通の人間の必要（食物、衣服、住まい、睡眠）をもち、普通の人間の弱さ、普通の人間の感情をもって暮らす。つまり、この最初の段階で、神は神ではなく完全に普通の人間として、あらゆる普通の人間的な活動を行いながら生きる。第二の段階は、職分を果たし始めた後の生活である。神はまだ普通の人間の外形で通常の人間性において暮らし、表向きには超常的なしるしは何も現さない。しかし、神は純粋にその職分のために生き、この期間の普通の人間性は、ひたすら神として普通の働きのために存在する。そのころには、普通の人間性は職分を果たせるほどに成熟していたのだから。そこで、第二の段階では普通の人間性において職分を果たすこととなり、それは通常の人間性と完全な神性を兼ね合わせる生活である。前半生で神がまったく普通の人間的な生活をする理由は、まだその人間性が神性の働きの全体と同等でないから、まだ成熟していないからである。人間性が成熟して、その職分を背負えるようになってはじめて、職分を果たし始めることができるのである。肉体をもつ者として神は成長し、成熟する必要があるので、その生涯の最初の段階は普通の人間のものである。第二段階に入ると、その人間性が働きに着手し、職分を果たせるようになっているので、職分を果たす間の受肉した神の生活は、人間性と完全な神性の二つを併せもつものである。もし受肉した神が生まれた瞬間から本格的に職分を果たし、超自然のしるしや不思議を示し始めたなら、その肉体の本質は何もないであろう。だから、受肉した神の人間性は、肉体的な本質のために存在するのである。人間性なくして肉は存在しない。また、人間性のない人は人間ではない。このように、神の肉の人間性は、受肉した肉のなくてはならない性質である。「神が人間になった時、神は完全な神で、まったく人間ではない」と言うのは瀆神行為である。なぜなら、これは受肉の原理に反する、あり得ない立場だからである。神がその職分を始めた後も、その神性は働きを行う人間の外形にまだ宿っている。ただその時、神の人間性は神性が通常の肉の体で働きを行えるようにするという目的だけを果たすのである。だから、働きをする者は、人間性に宿る神性である。働いているのは神の人間性ではなく神性だが、それは人間性の中に隠れた神性である。神の働きは、つまるところ、完全な神性が行うのであって、人間性によるのではない。しかし、働きを実践するのは神の肉である。このような神は、人間でありかつ神であると言えるだろう。神は肉の体で生きる神となり、人間の姿と人間の本質をもつが、また神の本質をも備えているからである。神の本質を備えた人間だから、<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/god-is-the-lord-of-all-creation-selections.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>被造物</b></a>であるどの人間、神の働きを行うことのできるどの人間よりも上位に位置する。そこで、このような人間の姿をした者たちの中で、人間性をもつすべての者の中で、神だけが受肉した神そのものである。他はみな、被造物である人間である。受肉した神と人間の双方に人間性があるが、被造物である人間には人間性以外には何もない。ところが、受肉した神は違う。受肉した神は、その肉体において人間性だけではなく、さらに重要なことに神性をも備えている。神の人間性は肉の体の外見や毎日の生活に見られる。しかしその神性は感知しにくい。神の神性は人間性があってはじめて現れるのだから、また、人々が想像するほど超自然なものではないから、人々がそれを見るのは極めて難しい。今日でも受肉した神の本質を理解するのは極めて難しい。実際、わたしがこれほど長い間話してきても、あなたがたの大半にとってはいまだに謎であることであろう。これはとても単純なことなのである。神が人間になると、その本質は人間性と神性の合わさったものである。この組み合わせが神そのものと呼ばれる、地上における神そのものなのである。<br></p><p>イエスが地上で生きた生活は、肉体をもつ人間の通常の生活であった。イエスはその肉体の正常な人間性において生きた。イエスの権威──彼の働きをし、彼の言葉を話し、病者を癒やし、悪霊を祓うといった、驚くべきことを行うためのもの──は、大方、職分を果たし始めるまでは示されなかった。二十九歳までの生活、教えを説く前は、イエスがただ普通の肉体をもった人間であったことの十分な証拠であった。そのため、そして、イエスがまだ職分を果たし始めていなかったため、人々はイエスに何の神性も見出さなかった。普通の人間、平凡な人間しか見なかった――ちょうど当時の人々がイエスはヨセフの息子だと信じていたように。人々は、イエスは普通の人間の息子だと思い、神の受肉したものであるとは知りようもなかった。職分を果たしながら、多くの奇跡を行ったときでさえも、たいていの人々はあれはヨセフの息子だと言った。イエスは普通の人間の外形をしたキリストだったからである。イエスの普通の人間性とその働きは、神が完全に受肉し、全く普通の人間になるという、最初の受肉の意味を満たすために存在した。働きを始める前のイエスが普通の人間性をもっていたことは、イエスが普通の肉体をもつ人間であった証拠である。そして、その後、イエスが働きをしたことも、通常の人間であることを示していた。イエスは普通の人間性をもつ肉体において、しるしや不思議を行い、病む者を癒やし、悪霊を祓ったのだから。イエスが奇跡を行うことができたのは、その肉に神の権威を帯びており、神の霊が人間の姿をしていたものだからである。イエスにこの権威があったのは、神の霊のためであり、イエスが人間ではなかったということではない。病む者を癒やし、悪霊を祓うことは、イエスがその職分において行う必要のある働きであり、人間性に隠された神性の表明であった。どのようなしるしを示そうと、どのようにその権威を示そうと、イエスはやはり普通の人間性において生き、普通の肉体をもつ人間であった。十字架上で死んで蘇るまで、イエスは普通の肉の中に宿っていた。恵みを与え、病人を癒し、悪霊を祓うことは、その働きの一部であり、すべて普通の人間の体で行われた働きである。イエスは十字架に行く前には、何をしているときであっても、けっして普通の人間の体を離れなかった。イエスは神そのものであり、神の働きをしたが、受肉した神であったため、食物を食べ、衣服を着、普通の人間と同じものを必要とし、普通の人間の理性と普通の人間の心をもっていた。これはみな、イエスが普通の人間であったことの証拠であり、受肉した神の体は普通の人間性をもつ肉体であって、超自然のものではないということを示している。イエスの務めは神の最初の受肉の働きを完了すること、最初の受肉の職分を果たすことであった。受肉の意義は、平凡な普通の人間が神そのものの働きをするということであり、つまり、神が人間性の内に神としての働きを行い、それによってサタンを打ち破るということである。受肉とは、神の霊が肉となる、つまり、神が肉となるということである。神が肉において行う働きは、肉において実現し、肉において表される霊の働きである。神の肉体以外には誰も、受肉した神の働きを成就できない。つまり、受肉した神の肉だけが、他の誰でもなくこの普通の人間だけが、神の働きを示せるのだ。もし最初の顕現で、神が二十九歳になる前に普通の人間性をもっていなければ──もし生まれてすぐに奇跡を行うことができたなら、もし、話せるようになってすぐに天の言葉を話せたなら、地上に初めて着いたときにすべての世俗的な物事を理解し、すべての人の考えや意図を知ることができたなら──そのような人は普通の人間とは呼ばれなかったであろうし、そのような肉は人間の肉とは呼ばれなかっただろう。もしキリストがそういうものであったなら、神の受肉の意味と本質は失われていたであろう。キリストが普通の人間性をもっていたことは、キリストが肉の体をもった、受肉した神であったことを示している。キリストが普通の人間としての成長過程を過ごしたことは、キリストが普通の人間であったことをさらに証明するものだ。そのうえ、キリストの働きは、キリストが<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/all-is-achieved-by-the-word-of-god.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の言葉</b></a>、神の霊が人間となったものであることの十分な証拠である。神が人間になるのは、働きに必要なためである。つまり、その段階の働きには肉の体で、普通の人間性において行う必要があるからである。これが「言葉は肉となる」、「言葉は肉において現れる」ための前提条件であり、これが神の二度の受肉の背後にある実話だからである。人々はイエスの全生涯は不思議に満ちていたと思っているであろう。地上での働きの終わりまで、普通の人間性を示さず、普通の人間のような必要や弱さ、人間的な感情もなく、また、人間生活の基本的な必要もなく、普通の人間のような考えもなかった、と思っているであろう。そういう人々は、イエスが超人的な頭脳、超越的な人格だけをもつと想像している。人々は、イエスは神なのだから、普通の人間のするように考え、生きることはないはずだ、普通の人、本物の人間だけが、普通の人間のように考え、普通の人間のように生きるのだと考えている。これらはみな人間の発想、人間の考えであって、神の働きの本来の意図に反するものである。普通の人間の考えは、普通の人間の理知と普通の人間性を支える。普通の人間性は普通の肉の機能を支える。そして、普通の肉の機能は普通の人間の生活すべてを可能にする。そうした肉において働いてはじめて、神はその受肉の目的を達することができる。受肉した神が肉の外形だけはもつが、普通の人間のように思考しないとしたら、この肉は人間の理性をもたず、まして、本物の人間性ももたないであろう。そうした人間性を欠いた肉が、どうして受肉した神が果たすべき職分を成就できたであろう。普通の心は人間生活のあらゆる面を支える。普通の心がなければ、それは人間ではないであろう。つまり、普通の考え方をしない人は、精神を病んでいるのである。そして、人間性をもたず神性だけをもつキリストは、神の受肉した体であるとはいえない。それで、神の受肉した体に普通の人間性がないということがなぜあり得るのか。キリストに人間性がないというのは、冒瀆ではないのか。普通の人間が行う活動は、普通の人間の心の働きに依存している。それがなければ、人間は異常な振る舞いをする。黒と白の違い、善悪を区別することさえもできないであろう。また、人間的な倫理観や道徳律もないだろう。同様に、もし受肉した神が普通の人間のように考えないのなら、それは本物の肉、普通の人間ではない。そうした思考しない肉が神性の働きを担うことはできないであろう。それでは肉の普通の活動をすることができず、まして、地上で人間と共に生きることはできないであろう。そのため、神の受肉の意義、神が肉として顕現することの本質は失っていたであろう。受肉した神の人間性は、肉において普通の神性の働きを維持するためにある。神の普通の人間としての考え方が、その普通の人間性とあらゆる普通の身体的活動を維持する。神が普通の人間的思考をするのは、神が肉においてする働きをすべて支えるためなのだと言えるだろう。この肉が普通の人間の心をもたないのなら、神は肉における働きができず、肉においてするべきことを成就できない。受肉した神は普通の人間の心をもつが、その働きは人間の思考によって劣化しない。神は普通の心をもつ人間として働きを行うが、心をもった人間性はその前提条件であり、通常の人間の考えを行使することによりその働きを行うのではない。神の肉の体がどれほど崇高な考えをもとうと、神の働きは論理や思考の産物ではない。つまり、神の働きは肉の体から生まれるのではなく、人間性の内における神性の働きの直接的な現れなのである。その働きはみな、成就するべき職分であり、そのどれも人間の頭脳の産物ではない。たとえば、病人の癒し、悪霊祓い、磔刑はイエスの人間としての心の産物ではなく、人間の心をもった人間がなし得ることはなかったであろう。同様に、今日の征服の働きも受肉した神が行うべき務めであるが、人間の意図による働きではない。これは、キリストの神性が行うべき働きであって、肉の体をもつ人間に可能な働きではない。だから、受肉した神は普通の人間の心をもたなければいけない。普通の人間性をもたなければいけない。なぜなら、普通の心をもった人間性の内にあって働かなければいけないからである。これが受肉した神の働きの本質、受肉した神の本質そのものである。</p><p>イエスがその働きをする以前、イエスはただ普通の人間として生きた。誰一人、イエスが神であるとはわからなかったし、誰一人、イエスが受肉した神であることを気付かなかった。人々はただ、どこから見ても普通の人間としてイエスを知っていた。イエスのまったく平凡な普通の人間性は、神が受肉して人間の肉の形になっていたことと、恵みの時代は受肉した神の働きの時代であり、霊の働きの時代ではないことの証拠であった。これは、神の霊が完全に肉において現れたこと、神が受肉した時代には、肉の体が霊の働きをすべて行うことの証拠であった。普通の人間性をもつキリストは、霊が顕現した肉体であり、普通の人間性、普通の理知、人間的思考をもっている。「顕現」とは神が人間となること、霊が肉となることである。わかりやすく言えば、神自身が普通の人間性をもつ肉に宿るということで、それによって神性の働きを表す──これが顕現、または受肉の意味である。最初の受肉の間、神が病人を癒し、悪霊を祓うことが必要だったのは、神の働きが、贖うことだったからである。全人類を贖うためには、神は憐れみをもって赦す必要があった。イエスが十字架につけられる前にした働きは、病者を癒やし、悪霊を祓うことだったが、これは、人間を罪と穢れから救うことを予め告げるものであった。これは恵みの時代だったため、イエスが病者を癒やし、しるしや不思議を示す必要があった。これがその時代の恵みを表すものであった。恵みの時代が、人々のイエスへの<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/what-do-you-know-of-faith.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>信仰</b></a>の象徴である平和と喜び、物質的幸いに象徴される恵みを施すことを中心としていたためである。これはつまり、病者を癒し、悪霊を祓い、恵みを与えることが、恵みの時代のイエスの肉に生まれながらに備わった能力だったということで、それが肉において霊が実現した働きであったのだ。しかし、イエスはそうした働きをしている間、肉の体で生きており、肉を超越してはいなかった。どのような癒やしのわざを行っても、イエスは普通の人間性を備え、まだ普通の人間として生きた。神の受肉した時代、肉が霊の働きのすべてを行ったとわたしが言うのは、イエスがどのような働きをしようと、それは肉の内で行ったということである。しかし、その働きのため、人々はイエスの人間の体が完全に肉体的な本質をもつとは考えなかった。それは、この肉の体は奇跡を行うことができ、特別な場合には、肉を超越することができたからである。もちろん、こうしたこと、例えば四十日間試されたことや、山上の聖変容はみな、イエスがその職分を始めた後に起こったことだ。だから、イエスにおいては神の受肉の意義は完了しておらず、部分的に成就されただけであった。働きを始める前、イエスが肉において送った生活は、どの点から見ても、まったく普通のものであった。働きを始めた後、イエスは人間の外形だけを保った。イエスの働きは神性の現れだったので、通常の肉の機能を超えていた。結局のところ、神の受肉した肉は生身の人間とは違ったのである。もちろん、日々の生活では、他のみなと同じように食物や衣服、睡眠、住まいを必要とし、あらゆる普通の必需品を必要とし、普通の人間のように思考し、判断した。人々はそれでも、イエスの行った働きが超自然的であったということ以外では、イエスを普通の人間と見た。実際、イエスは何をしていても、普通の正常な人間性において生きており、働きをするときもその理知はごく正常なもので、その思考は他の通常の人間以上に明瞭であった。受肉した神は、このように考え判断する必要があった。きわめて通常の理性を備え、思考が明瞭な人が神の働きを表す必要があったからである。そうしてはじめて、神の肉は神性の働きを表すことができたのである。この世に生きた三十三年半の期間を通じて、イエスは普通の人間性を保っていたが、三年半の職分の間に行った働きのせいで、人々はイエスがきわめて超越的で、それ以前よりはるかに超常的であったと思った。実際は、イエスの人間性は働きを始める前も後も変わらなかった。イエスの人間性はずっと同じであった。しかし、働きを始めた前と後の相違のために、イエスの肉について二つの異なった見方が生じた。人々が何を考えようと、受肉した神はずっと元々の普通の人間性を保っていた。神は受肉して以来、肉において生きたが、その肉は普通の人間性をもっていたのだから。イエスがその働きをしようとしまいと、その肉の人間性は除くことができなかった。人間性は肉の基本的な本質だからである。イエスが職分を果たし始める前、イエスの肉は完全に普通のままで、あらゆる普通の人間的活動をした。イエスは少しも超常的な様子を示さず、奇跡的なしるしを何も見せなかった。当時、イエスはただ神を崇めるごく普通の人間であった。その信仰は他の誰よりも正直で、真摯なものであったが。イエスのまったく普通の人間性はこのように現れていた。イエスは職分を果たし始める前はまったく働きをしなかったから、誰一人、イエスの身分に気付かなかった。誰もイエスの肉が他の人々のそれと違うとはわからなかった。イエスは、たった一つの奇跡も起こさず、神自身の働きを少しもしなかったからである。しかしながら、職分を果たし始めたとき、イエスは普通の人間の外形を保ち、まだ、普通の人間の理知をもって生活していた。しかし、神自身の働きを始め、キリストとしての務めを果たし、死すべき存在である生身の人間にはできない働きをしたため、人々はイエスには普通の人間性がなく、体は完全に普通の人間のものではなく、不完全な肉体なのだと思い込んだのである。イエスの行った働きのため、人々はイエスが人間の体をもつ神であり、普通の人間性はもたないのだと言った。これは誤った考えだ。人々は神の受肉の意味を理解していなかったのだから。この誤解は、神が受肉して行った働きが、普通の人間性をもつ肉の体において表された神性の働きだったからである。神は肉をまとい、肉の内に生きた。その神の人間性の中での働きが、その普通の人間性を曖昧にした。そのため、人々は神には人間性がなかったのだと信じたのである。</p><p>最初の受肉では、神は受肉の働きを完了しなかった。神が肉においてするべき働きの最初の段階を完了しただけである。だから、受肉の働きを完了するために、神は再び肉の体に戻り、肉体のもつすべての正常性と現実を生きている。つまり、神のことばが完全に普通の平凡な肉の体として現れ、それにより、肉においてやり残した働きを完了しようというのである。二度目に受肉をした体は、本質的には最初と変わらないが、もっと現実的で、最初よりもさらに普通なものだ。その結果、第二の受肉の苦しみは最初のそれよりも重いのだが、この苦しみは肉における働きの結果であって、堕落した人間の苦しみとは異なる。これはまた、神の肉の体の普通さと現実から生じている。神が完全に普通かつ現実の肉体で職分を行うため、肉の体は多くの困難に耐えなければいけない。この肉の体が普通で現実のものであればあるほど、神はその職分を果たすために苦しむ。神の働きはごく普通の体、まったく超自然的でない体において表される。神の肉は普通で、人間を救う働きをも担わなければいけないので、その苦しみは超自然の肉よりもはるかに大きい──この苦しみはみな、神の体の現実と正常さから来ている。受肉した二つの体が職分を果たしていたときに受けた苦しみから、受肉した肉の本質がわかる。肉体が普通であればあるほど、働きを行う間、それだけ大きな苦難を神は耐えなければならない。働きをする肉体が現実的であればあるほど、人々の見方は厳しくなり、それだけ多くの危険が神にふりかかることになりがちである。それでも、肉が現実的であればあるほど、肉が普通の人間の必要と完全な理知をもっているほど、肉における働きを神はみごとに取り組むことができる。十字架につけられたのはイエスの肉、罪のための捧げ物としてイエスが捧げた肉体である。普通の人間性をもつ肉体という手段によってイエスはサタンに勝利し、人間を完全に十字架から救った。そして、神の二度目の受肉では、征服の働きを行いサタンを打ち負かすのは完全な肉の体なのである。完全に普通で現実的な肉だけが征服の働きをその全体におよんで行い、力強い<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/testimonies.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>証し</b></a>を示すことができる。つまり、人間征服の働き[a]は、受肉した神の現実性と正常さによって効果的になるのであって、超常的な奇跡や啓示によるのではない。この受肉した神の職分は、話すことであり、それによって人間を征服し、完全にすることにある。つまり、肉として現れた霊の働き、肉の務めは、話すことで、それによって人間を征服し、顕示し、完全にし、淘汰することである。だから、肉における神の働きが完全に達成されるのは、征服する働きにおいてである。最初の贖いの働きは、受肉の働きの始まりに過ぎなかった。征服の働きをする肉は、受肉しての働きを完了させるであろう。性別では、一度目は男、二度目は女。これにより神の受肉の意味が完了する。これは人間の神についての誤解を取り除く。神は男にも女にもなれる。受肉した神には本質的に性別はない。彼は男と女を創ったが、性による差別化はしていない。この段階の働きでは、言葉という手段によって働きの成果があらわれるように、神はしるしや不思議を行わない。さらに、その理由は、受肉した神の今回の働きは病人を癒し、悪霊を祓うためではなく、話すことによって人間を征服するためであり、これは、受肉した神の肉体が本来備えている能力が、言葉を話して人間を征服するというものであって、病人を癒やし、悪霊を祓うためのものではないということである。普通の人間性における神の働きは奇跡を行うことではなく、病人を癒し、悪霊を祓うことはなく、話すことである。だから、第二の受肉をした体は、最初の時よりずっと普通のものに見える。人々は神の受肉が嘘ではないとわかっているが、この受肉した神はイエスの受肉とは異なっている。どちらも神の受肉ではあるが、完全に同じではない。イエスは普通の人間性、平凡な人間性をもっていたが、多くのしるしや不思議を伴っていた。この受肉した神においては、人間の目には、しるしや不思議は何も見えず、病者を癒すことも、悪霊を祓うことも、海の上を歩くことも、四十日間の断食もない。神はイエスがしたのと同じ働きは行わない。それは神の肉が本質的にイエスのものとどこか異なるからではなく、病者を癒したり悪霊を祓うことは、神の職分ではないからである。神は自分の働きを取り壊すこともなければ、自分の働きを妨げたりはしない。神はその実際の言葉で人間を征服するのだから、奇跡で屈服させる必要はない。そして、この段階は受肉の働きを完了するためにある。あなたが今日見る受肉した神は完全な肉の体であって、超自然的な要素は何もない。神は完全に肉の体なのだから、他の人々同様、病気になるし、他の人々同様、食物や衣服を必要とする。今回、受肉した神が超自然のしるしや不思議を見せたなら、病者を癒し、悪霊を祓ったなら、あるいは一言で殺すことができたなら、どうして征服の働きを行えるであろうか。どうして異邦人の国々で働きを広められるであろうか。病人を癒やし、悪霊を祓うのは、恵みの時代の働き、贖いの働きの第一歩であったが、神が人間を十字架から救った今となっては、もはやその働きを神は行わない。もし終わりの日に病人を癒やし、悪霊を祓い、人間のために十字架につけられたイエスと同じ「神」が現れたなら、その「神」は聖書の神の記述と同じで、人間には受け入れ易いであろうが、本質的に、それは神の霊が人間の肉をまとったものではなく、悪霊によるものであろう。すでに成就した働きは二度と繰り返さないのが神の原則だからである。したがって、神の二度目の受肉による働きは、最初の働きとは異なっている。終わりの日には、神は普通の正常な肉体で征服の働きを実現する。神は病人を癒やさず、人間のために十字架につけられることもなく、ただ肉の体で言葉を話し、肉において人間を征服する。このような肉のみが神の受肉された体である。こうした肉の体だけが、神の肉における働きを完了できる。</p><p>この段階で受肉した神が困難を経験していようが、職分を果たしていようが、神は受肉の意味を完了するためにそうしているのである。これが神の最後の受肉だからである。神は二回だけ受肉することができる。三度目はありえない。最初の受肉は男性で、二度目は女性であり、そこで神の受肉した姿は人間の心の中で完全になる。さらに、二回の受肉により、すでに肉における神の働きは終わっている。一度目、受肉した神は、受肉の意味を完了するために普通の人間性を備えていた。今回も神は普通の人間性を備えているが、この受肉の意味は異なっている。もっと深く、その働きにはより深い意義がある。神が再び受肉した理由は、受肉の意味を完了するためである。神がこの段階の働きを完全に終えると、受肉の意味のすべて、つまり、肉における神の働きは完了し、もはや肉において行う働きはない。つまり、これ以後は、神が働きをするために受肉することは二度とないのである。人間を救って完全にするためにだけ、神は受肉の働きをする。つまり、神が受肉して来るのは、働きのため以外では普通のことではないのである。働きのために受肉することで、神はサタンに自分が肉体になっていること、正常な普通の人間であることを示し、それでも勝利を誇りつつ世界に君臨し、サタンを打ち破り、人間を贖い、人間を征服できることを示すのである。サタンの働きの目的は人間を堕落させることだが、神の目的は人間を救うことである。サタンは人間を底なしの淵に捕らえるが、神はそこから人間を救う。サタンはすべての人間に自分を崇めさせるが、神は人間を自分の支配下に置く。神は創造の主であるからである。この働きはみな、神の二度の受肉で達成される。神の肉は本質的に人間性と神性の一体化したもので、普通の人間性を備えている。だから、神の受肉した肉なしでは人間を救う際にこれらの成果を達成することはできず、肉の普通の人間性なしでは肉における神の働きは成果を挙げることができない。神の受肉の本質は、神が普通の人間性をもたなければいけないということである。そうでなければ、受肉する本来の意図に反することになる。</p><p>なぜわたしは、受肉の意味がイエスの働きで完了しなかったと言うのであろうか。それは、ことばが完全に肉の体にならなかったからである。イエスがしたことは、神の肉の体での働きの一部分だけであった。イエスは贖いの働きだけを行い、完全に人間を得る働きはしなかった。そのため、神は終わりの日に再度受肉したのである。この段階の働きはまた、普通の人間の体で、すっかり通常の人間によって、その人間性が少しも超越的でない存在によって行われる。つまり、神は完全な人間になったのであり、身分は神である人、完全な人間、完全な肉の体が働きをする。人間の目には、神はまったく超越的ではない、ただの人間に見える。ごく普通の人物で天の言葉を話すことができ、奇跡的なしるしは何も見せず、何の奇跡も行わず、まして、大きな集会場で宗教についての内的な真理を明らかにしたりはしない。第二の受肉の働きは、人々には最初のものとはまるで違って見える。あまりに違うので、二つには何の共通点もないように見える。最初の働きのようなことは、今回は何も見られない。第二の受肉の働きは最初のものとは異なっているが、それは両者の源が同一ではないということではない。同じかどうかは、肉の体で行われる働きの性質によるのであって、外形によるのではない。三段階の働きの間に神は二度受肉し、いずれのときも受肉した神は新たな時代を開き、新しい働きをもたらした。二度の受肉は相補うのである。人間の目では、二つの肉の体が同じ源から来ていると見極めることは不可能である。言うまでもなく、これは人間の目や心の能力を超えている。しかし、両者の本質は同じである。二人の働きは同じ霊に発しているからである。受肉した二つの体が同じ源から発しているかどうかを判断できるのは、二人の生まれた時代と場所やそのような他の要素によるのではなく、二人の表す神性の働きによるのである。第二の受肉による体はイエスの行った働きは何も行わない。神の働きに慣習的な決まりはなく、それぞれが新たな道を開くからである。第二の受肉は最初の肉に関する人々の心にある印象を深めも固めもしないが、それを補い、完成させ、神についての人間の認識を深め、人々の心にある、あらゆる規則を破り、人々の心にある神についての誤った姿を消し去る。神自身の働きのどの段階も個別には、人間に神についての完全な認識を与えることはできないと言える。各段階は、全部ではなく、一部分だけを与えるのである。神はその性質を完全に示したが、人間の理解力が限られているため、神についての認識はまだ不完全なままである。人間の言語で神の性質を完全に言い表すのは不可能である。まして、神の働きの一段階だけで、どれほど完全に神を表せるだろうか。神は普通の人間性の陰に隠れて肉において働く。そして、その神性が現れてはじめて、人間は神を知ることができるのであり、その外見を見てのことではない。神はさまざまな働きを通して人間が神を知ることができるように受肉するのだが、働きの二段階は同じではない。このようにしてはじめて、人間は肉における神の働きについて、一つの面だけでなく、完全な認識をもてる。受肉しての二度の働きは別々のものだが、肉の本質とその働きの源は同一である。ただ、どちらも二つの異なった段階の働きをするために存在し、二つの別の時代に来るということである。いずれにしろ、受肉した神の肉は同じ本質と由来をもつ。これは誰も否定できない真理である。</p><p>脚注</p><p>a．原文には「･･･の働き」という語句が含まれていない。</p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[キリスト教映画「敬虔の奥義：続編」抜粋シーン（６）主イエスは神の子であるか、それとも神自身か？ 日本語吹き替え]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7496300/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7496300</id><summary><![CDATA[🌸あらすじ聖書には、主イエスはキリストであり、神の子であることが明確に書かれています。しかし東方閃電は、受肉されたキリストは神様の出現であり、また神様ご自身であると証言しています。受肉されたキリストは神の子でしょうか？それとも、神様ご自身なのでしょうか？全能神が言われます。「『イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である』と…神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。『父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある』というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。」（『言葉は肉において現れる』より）]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2019-12-26T07:27:36+00:00</published><updated>2019-12-26T07:27:36+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>URL: <a href="https://youtu.be/sPix1oUl4Vo">youtu.be
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				</a>
			</p>
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			<p>🌸あらすじ</p><p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel-categories/inside-story-of-the-bible.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>聖書</b></a>には、主イエスはキリストであり、神の子であることが明確に書かれています。しかし東方閃電は、受肉されたキリストは神様の出現であり、また神様ご自身であると証言しています。受肉されたキリストは神の子でしょうか？それとも、神様ご自身なのでしょうか？全能神が言われます。「『イエスは<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gods-love-is-most-real.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の愛</b></a>する子、神の心にかなう者である』と…神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。『父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある』というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/testimonies.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>証し</b></a>をしているに過ぎない。」（『言葉は肉において現れる』より）</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[御言葉讃美歌·神の肉と霊は全く同じ本質を持つ]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7492711/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7492711</id><summary><![CDATA[🌸御言葉讃美歌神の肉と霊は全く同じ本質を持つ 神の霊をまとった肉は神自身の肉である 全能··崇高··聖にして··正しい それはまさに神の霊と同じである 人々のためこのような肉は 善き事だけを為す事が出来る 聖なる··偉大で··栄光に···満ちた 栄光に満ちた事のみを為す事が出来る 肉なる神は真理に背いたり 正義に背を向ける事は出来ない 彼は決して神の霊を裏切らない 肉なる神はサタンの堕落から自由である その肉は普通の人の肉体とは異なる 神の霊をまとった肉は神自身の肉である 全能··崇高··聖にして··正しい それはまさに神の霊と同じである 人々のためこのような肉は 善き事だけを為す事が出来る 聖なる··偉大で··栄光に···満ちた 栄光に満ちた事のみを為す事が出来る 地上でキリストは人々と共に生きているが サタンの罠に落ち利用されるのは人だけである それはキリストには起こらない ··決して起こる事はない サタンは神の高みには及ばず 神自身に近づく事は出来ない サタンは神に近づく事は出来ないのだ 人間だけが··ただ人間だけが神を裏切る しかしそれはキリストとは全く関係がない 神の霊をまとった肉は神自身の肉である 全能··崇高··聖にして··正しい それはまさに神の霊と同じである 人々のためこのような肉は 善き事だけを為す事が出来る 聖なる··偉大で··栄光に···満ちた 栄光に満ちた事のみを為す事が出来る 『言葉は肉において現れる』より🌸最新の讃美歌神を愛する者は光の中に生きる万物は神の権威により生き、滅びる]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2019-12-25T13:35:34+00:00</published><updated>2019-12-25T13:35:35+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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		<figure>
			
		<a href="https://jp.easternlightning.org/hymns/God-s-flesh-spirit-are-identical-essence.html">
			<img src="https://jp.easternlightning.org/wp-content/uploads/thumb/God-s-flesh-spirit-are-identical-essence.jpg?t=191218" width="100%">
			<small><b>神の肉と霊は全く同じ本質を持つ | 東方閃電</b></small>
			<br>
			<small>御言葉讃美歌 神の肉と霊は全く同じ本質を持つ 神の霊をまとった肉は神自身の肉である 全能··崇高··聖にして··正しい それはまさに神の霊と同じである 人々のためこのような肉は 善き事だけを為す事が出来る 聖なる··偉大で··栄光に···満ちた 栄光に満ちた事のみを為す事が出来る Ⅰ 肉なる神は真理に背いたり 正義に背を向ける事は出来ない 彼は決して神の霊を裏切らない 肉なる神はサタンの堕落から自由である その肉は普通の人の肉体とは異なる 神の霊をまとった肉は神自身の肉である 全能··崇高··聖にして··正しい それはまさに神の霊と同じである 人々のためこのような肉は 善き事だけを為す事が出来る 聖なる··偉大で··栄光に···満ちた 栄光に満ちた事のみを為す事が出来る Ⅱ 地上でキリストは人々と共に生きているが サタンの罠に落ち利用されるのは人だけである それはキリストには起こらない ··決して起こる事はない サタンは神の高みには及ばず 神自身に近づく事は出来ない サタンは神に近づく事は出来ないのだ 人間だけが··ただ人間だけが神を裏切る しかしそれはキリストとは全く関係がない 神の霊をまとった肉は神自身の肉である 全能··崇高··聖にして··正しい それはまさに神の霊と同じである 人々のためこのような肉は 善き事だけを為す事が出来る 聖なる··偉大で··栄光に···満ちた 栄光に満ちた事のみを為す事が出来る 『言葉は肉において現れる』より</small>
		</a>
		</figure>
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			<p>🌸御言葉<a href="https://jp.easternlightning.org/hymns.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>讃美歌</b></a></p><p>神の肉と霊は全く同じ本質を持つ</p><p> </p><p><br></p><p>神の霊をまとった肉は神自身の肉である 全能··崇高··聖にして··正しい それはまさに神の霊と同じである 人々のためこのような肉は 善き事だけを為す事が出来る 聖なる··偉大で··栄光に···満ちた 栄光に満ちた事のみを為す事が出来る</p><p> </p><p>肉なる神は真理に背いたり 正義に背を向ける事は出来ない 彼は決して神の霊を裏切らない 肉なる神はサタンの堕落から自由である その肉は普通の人の肉体とは異なる 神の霊をまとった肉は神自身の肉である 全能··崇高··聖にして··正しい それはまさに神の霊と同じである 人々のためこのような肉は 善き事だけを為す事が出来る 聖なる··偉大で··栄光に···満ちた 栄光に満ちた事のみを為す事が出来る</p><p> </p><p>地上でキリストは人々と共に生きているが サタンの罠に落ち利用されるのは人だけである それはキリストには起こらない ··決して起こる事はない サタンは神の高みには及ばず 神自身に近づく事は出来ない サタンは神に近づく事は出来ないのだ 人間だけが··ただ人間だけが神を裏切る しかしそれはキリストとは全く関係がない 神の霊をまとった肉は神自身の肉である 全能··崇高··聖にして··正しい それはまさに神の霊と同じである 人々のためこのような肉は 善き事だけを為す事が出来る 聖なる··偉大で··栄光に···満ちた 栄光に満ちた事のみを為す事が出来る 『言葉は肉において現れる』より</p><p><br></p><p>🌸最新の讃美歌</p><p><a href="https://jp.easternlightning.org/hymns/those-love-God-live-in-light.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">神を愛する者は光の中に生きる</a><a href="https://jp.easternlightning.org/hymns/live-and-perish-by-God-s-authority.html" class="u-lnk-clr"><br></a></p><p><a href="https://jp.easternlightning.org/hymns/live-and-perish-by-God-s-authority.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">万物は神の権威により生き、滅びる</a><br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[神を再び磔にする者は災いである]]></title><link rel="alternate" href="https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7486127/"></link><id>https://salvationgod.amebaownd.com/posts/7486127</id><summary><![CDATA[終わりの日において、神は御働きを行なわれるために中国で受肉され、数百万語の御言葉を表され、御言葉によりある集団を征服し救われ、神の家を皮切りに新たに裁きの時代の幕開けをもたらされました。現在、終わりの日における神の御働きの拡大は、中国本土において絶頂期に達しています。カトリック教会とその他のキリスト教派や分派で真理を追求する人々の殆どが、神の王座の御前へと戻っています。受肉した神は聖書で預言されている「人の子の隠れた降臨」の御働きを既に完了され、まもなく世界各国の各地において公に出現されるでしょう。世界各国の各地で神の御出現を渇望している人々は皆、神の公の御出現を見上げるでしょう。神の御国を侵害したり破壊したり出来る勢力は存在せず、神を拒む者全てが、神の怒りにより罰せられるでしょう。これは神の次の御言葉にあるとおりです。「わたしの国は全宇宙の上に形を取り始め、わたしの玉座は何億もの人々の心の中を統治する。天使たちの助けを借りて、わたしの偉業はまもなく実現されるだろう。わたしの子供たちとわたしの民は皆わたしが戻るのを息を殺して待ち、彼らが二度とばらばらにならないように再び結びつけることを強く望んでいる。わたしの国の多くの民衆が、わたしが彼らと共にいるのを喜んで、互いに駆け寄らずにはいられないだろう。これは対価を支払う必要のない再会なのだろうか。わたしはすべての人の目に尊敬に値する者として映り、すべての人の言葉によって宣言される。わたしが戻る時、わたしはすべての敵の力をさらに征服する。時は来た。わたしは自分の働きを始動させるだろう。わたしは人々の王として支配するだろう。わたしは今まさに戻る。そしてわたしは今や出発する。これはすべての人が望んでいること、彼らが希望することである。わたしは全人類にわたしの日の到来を見させよう。そして彼らにわたしの日の到来を喜びをもって歓迎させよう。」（『言葉は肉において現れる』の「二十七番目の言葉」より）「わたしの愛する者はみな、必ず永遠に生き、わたしに敵対する者はみな、必ず永遠に刑罰を受ける。わたしはねたみ深い神だから、わたしは人間の行いを軽々しく赦さない。わたしは地上すべてを観察し、世界の東に義と威厳、怒り、刑罰をもって現れ、すべての人間たちにわたしを現す。」（『言葉は肉において現れる』の「二十六番目の言葉」より）神の驚くべき御働きは反キリスト、偽預言者、人の心を惑わす者を全て既に暴いています。それはまた神の恵みとパンで空腹を満たすことのみを求める偽信者も既に暴いています。神の裁きの御言葉は、人間の心と霊を貫く鋭い諸刃の剣のようで、咎められることを嫌う者や純粋な言葉を忌み嫌う者、真理を愛さない者に自らの真の素性をさらけ出させています。神が御働きのために隠れて来られた際に表わされた御言葉には、人間の神に対する抵抗や反逆の真理が見て取れますが、それはおもに以下の三側面において表れます。1.人間が往々にして罪を犯し、神に抵抗し、反逆するのは、ひとえにサタンが人間を堕落させた後、人間の本性がサタンの様々な毒に取り憑かれ、神に抵抗し、反逆する本性へと変化しているからです。したがって、人間は毎日罪を犯し、しばしばその罪を告白しますが、依然としてサタンのような本性の束縛から解放されることが出来ません。神に反逆する人間の本性は、人間の罪の根源です。2.人間はサタンにより重篤に堕落させられています。人間の心はサタンの哲学、生活規則、思考方法のみで満たされているため、人間は神の御言葉が真理であることを理解することも知ることも出来なくなっています。聖霊の啓き照らし無しでは、人間は真理を受け入れられません。堕落した人間が神を信じても、単に神の存在を認めるだけであり、神が真理であられることを認めません。それゆえに、堕落した人間は往々にして神を非難し、攻撃し、抵抗し、反逆します。3.人間はサタンにより過度に堕落させられています。神の裁きと刑罰や、受肉された神の救いの御働き無くしては、長年にわたり神を信仰している人でさえも神を知ることはありません。そのような人は、自らの神への信仰において神の恵みを享受し、神が実在することを認めることしか出来ません。神を真に知ることが出来ないのです。宗教的な教義と観念で満たされるだけで、ますます傲慢で独善的になり、さらには大胆にも神を非難し、罵倒し、神の御働きを冒涜するようになります。これは何ら新しいことではなく、宗教界で頻繁に起こっています。これについて人々は大いに反省する必要があります。またこれは主イエス様の次の御言葉を完全に成就しています。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」（マタイによる福音書7章21―23節）私達は皆、宗教界には主の御名のもとに働きながらも、終わりの日における神の御働きを拒否し、非難する人があまりに多くいることをはっきりと目撃してきました。神を信じつつ、神がいることを認めるだけで、神が真理であられることを知らない人々は、神を拒み、攻撃し、冒涜しやすくなります。このような人々はある程度聖書と教義の知識があるために、自分が真理を備え、神を知っていると考えます。さらには聖霊の御働きを冒涜したり、受肉されたキリストに対抗することすらあります。彼らを待っているのは、神の義と威厳と怒りに満ちた裁きと懲罰だけです。神が公に登場される日に全てが明らかにされるでしょう。各地で福音を説教している人々から、かつて全能神の御働きに抵抗したり、人々が全能神を受け入れるのを阻害したり妨害したりした者の多くが懲罰を受け、様々な程度の呪いを受けたとひんぱんに聞きました。それは私達の福音の働きを動機付ける好ましい役割をある程度果たしていると言えます。そうした情報を聞いて、私達は神の義を讃え、それにも増して私達の祈りを聞いて頂いていることを神に感謝せずにはいられませんでした。さらに、神への畏敬と敬愛の念が私達の心に自然に生まれました。神は、自らの羊を見捨てられることが無く、いわんや邪悪を行い神を拒む者を見逃されることなどありません。神はどこにでもいらっしゃり、全能で、神の御働きが敵対勢力により妨害されることはありえません。神は邪悪なものが懲罰をうけた事例を幾つも私達に示されました。これは私達一人ひとりへの無言の警告でもあると考えます。それゆえ、私達は懲罰を受けた人々の数多くの事例をまとめました。その範囲はカトリック教会その他の教派・宗派を網羅しています。期間は僅かに1993年から2002年までですが、地域的には二十四の省と市に及びます。全能神に抵抗して懲罰を受けた人々の事例を合計一万件以上を収集し、その中から八百七十件以上の典型的事例を選択しました。あらゆる人が教訓（全能神への抵抗したことへの懲罰の典型的事例）を得るには、これらの事例だけで十分です。こうした神を拒んで懲罰を受けた者の衝撃的事例から、神への抵抗が比較的激烈であった人々の主要な類型を次の通り特定しました。第一類型　　この類型の人々は、聖霊の御働きを知らず、識別することができなかったことが原因で、他人に欺されたり、たちの悪い官公吏に奴隷とされました。その結果、他人や官公吏に従って邪悪を行い、そうした者の言葉を復唱して、神に抵抗する言葉を数多く述べ、邪悪を行い、人々が神の御働きを受け入れるのを阻止しました。神はこの類型の人々に対して軽い懲罰を与えられただけで、命を奪われることはありませんでした。奇妙な病を患ったり、事故に遭ったり、家族に災いがあった人もいました。神はこの種の人々に対して悔い改める機会を授けました。もちろん、特に強情で、懲罰を受けても目覚めない者もいました。そうした者は邪悪を続行し、それゆえに切り捨てられました。第二類型　　この類型の人々の殆どが、さまざまな教派・分派の指導者です。これらの人々は、自らの地位と神との間で選択に迫られました。彼らは自らの地位のために真の道を捨て、故意に神の御働きに抵抗し、自らの手中にある人々を支配しました。自らの地位がもたらす恩恵を永遠に享受するために、人々を欺して罠にかけました。どうやら自分の支配下にある人々を失うと自らの地位も失うようで、その地位無しでは生きていけないのです。それゆえ、神の羊を自分の羊であると主張し、神の選民をめぐって全力で神と競い合いました。典型的反キリストです。彼らが仕えたのは自らの地位と生計です。その心は冷酷になる一方でした。彼らは神の恵みを享受しながら、神の選民を支配することも望み、選民に与えられるべき選択の自由すら与えませんでした。まさしくこれらの人々こそが、主イエスが預言された悪い僕です。神はこれらの人々にも、その行動に応じて様々な程度の懲罰を与えられ、悔い改めの機会も授けました。しかし、抵抗を更に強め、悔い改めるよりも死ぬことを望んだ者も何人かいました。それゆえに神は彼らの命を絶えさせました。懲罰を受けた後に自制したり、邪悪な行いを止めた者について、神は命を奪われず、彼らの悔い改めを未だに待っておられます。第三類型　　この類型の人々は、以前は悪霊に取り憑かれていたか、場合によっては悪霊に頼って超自然的能力を発揮しました。これらの人々は自らの中の悪霊による業を信じているものの、聖霊の御働きについては全く知識がありませんでした。その結果、神の新たな御働きについて説教を聞いた時、悪霊が彼らの中で激しい反抗を生じました。この類型の人々は聖霊の御働きに対して特に敵対的で、神が表された真理を何よりも忌み嫌いました。あらゆる教派・分派において、彼らが神に反抗する声は最も大きく、その行為は最も邪悪であり、神に対する反抗は最も凶暴で熱狂的でした。彼らは悪霊の道具であり、神の敵であり、サタンの一味であり、したがって皆最後には呪われ、地獄へ送られ、滅ぼされました。第四類型　　懲罰を受けた者のうち、この類型の人々は三自教会に育てられた組織の中枢であった人々です。こうした人々は特に共産党に仕え、命を捧げており、神を真に信じる者全てと敵対関係にありました。国家権力に支えられ、政府の道具となりながら、神に真に付き従って神の証しに立つ人々を迫害しました。共産党から与えられた「飯茶碗」を持ち、共産党に代わり発言し、共産党に命を捧げ、宗教界において共産党の代弁者となりました。共産党こそが彼らの事実上の主人でした。彼らは殆どの場所において教会の指導者としての地位にあり、自らの手中にある無知な信者達を支配しました。神に抵抗する悪魔以外の何者でもありませんでした。まさにキリスト教を不信者でした。一時的に猛威を振るいましたが、呪われて滅ぼされました。このようなカトリック教会や様々なキリスト教の教派・分派の著名人達は、全て神の懲罰を受け、その上呪われて死にました。なぜなら、神の御働きを非難し、神の旨が行われるのを阻止したからです。これは人々が熟考するべきことではないでしょうか。彼らが拒んだのが神であられなかったとしたら、一体誰が彼らを罰し命を奪うことが出来たでしょうか。彼らが真に神のものであったならば、一体誰に彼らの命を神の御手から奪う力があるでしょうか。神が義であられることを認めないというのでしょうか。これら四類型の人々とその行動の事例から、そうした人々はその本性において真理を好まなかったことが明瞭に理解できます。彼らは、裁きと刑罰により人間を救い変化させる神の御働きに対して敵意のある姿勢を取り、人間の本性を暴き人間の魂を貫く神の御言葉を極度に忌み嫌い、さらには神の降臨が自らの楽しい夢を妨げたるかのように激怒しました。こうして、神に対して不平を言う彼らの心と神に反逆する彼らの本性が完全に暴かれました。さらに彼らは不謹慎にも神を非難し、冒涜し、抵抗し、圧倒するような傲慢さに満ちていました。二千年前に主イエスを迫害したパリサイ人よりも遙かに邪悪でした。彼らは自らの邪悪な行いのために、最後には懲罰を受け、呪われました。そうした人々の多くが、神の御性質は確かに侵害してはならないということを死が訪れた時になって初めて認識しました。しかし、彼らは闇ですすり泣き、歯ぎしりするほか為す術がありませんでした。事実がキリストを再び十字架に張り付ける者は滅ぼされるということを証明しました。全能神は以下のように述べられました。「神の国は人間たちの間で拡大する。神の国は人間たちのただ中で形作られている。神の国は人間たちのただ中に建てられている。どんな力もわたしの国を破壊できない。今日、国にいるわたしの民のうち、誰が人間たちの中にあって、人間ではないのだろうか。あなたがたの誰が、人間である状態の外にあるのか。わたしの新たな出発点がもろもろの者たちに告げられたとき、人々は、どのように反応するだろう。あなたがたは、その目で人類の有様を見てきた。まことに、いまだ、この世界で永遠に存在を続けようという希望は抱いていまい。わたしは今、わが民の間を歩き回り、わが民の中で生きている。今日、わたしに本物の愛情をもっている人々は幸いである。わたしに服従する者は幸いである。その人たちは必ずや、わたしの国にとどまる。わたしを知る者は幸いである。その人たちは、必ずや、わたしの国で権力を持つであろう。わたしを追い求める者は幸いである。その人たちは必ずやサタンの縛めを逃れ、わたしの祝福を享受するだろう。自らに背くことのできる者は幸いである。その人たちは、必ずやわたしのものとなり、わたしの国の富を相続するであろう。わたしのために走り回る者を、わたしは覚え、わたしのために自ら持つものを費やす人を、わたしは喜んで抱こう。わたしに捧げ物をする人に、わたしは喜びとなるものを与えよう。わたしの言葉に喜びを見出す者を、わたしは祝福する。その人たちは必ずや、わたしの国の棟木を支える柱となる。その人たちは、必ずやわたしの家で何物も及ばない富を得、並びなき者となる。あなたがたは、与えられた祝福を受け入れたことがあるか。あなたがたは、自分に対して結ばれた約束を探し求めたことがあるか。あなたがたは、必ずや、わたしの光の導きの下、闇の力の拘束を打ち破るだろう。あなたがたは、絶対に、闇のただ中にあって、あなたがたを導く光を失いはしないだろう。あなたがたは、必ずや、すべての被造物の主人となる。あなたがたは、必ずや、サタンの前で勝利者となる。あなたがたは、必ずや、赤い大きな竜の国が滅びるとき、無数の者たちの中で立ち上がり、わたしの勝利を証しする。あなたがたは、必ずや、秦の国にあって、堅固で揺るぎないだろう。あなたがたの耐え忍んだ苦しみによって、あなたがたはわたしからの祝福を相続する。そして、必ずや、全宇宙においてわたしの栄光に輝くだろう。」（『言葉は肉において現れる』の「十九番目の言葉」より）]]></summary><author><name>全能神の救い</name></author><published>2019-12-24T07:04:20+00:00</published><updated>2019-12-24T07:04:21+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><a href="https://jp.kingdomsalvation.org/only-christ-of-the-last-days-can-give-man-the-way-of-eternal-life-selections.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>終わりの日</b></a>において、神は御働きを行なわれるために中国で受肉され、数百万語の御言葉を表され、御言葉によりある集団を征服し救われ、神の家を皮切りに新たに裁きの時代の幕開けをもたらされました。現在、終わりの日における神の御働きの拡大は、中国本土において絶頂期に達しています。カトリック教会とその他のキリスト教派や分派で<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/reality-of-the-truth-1.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>真理</b></a>を追求する人々の殆どが、神の王座の御前へと戻っています。受肉した神は<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel-categories/inside-story-of-the-bible.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>聖書</b></a>で預言されている「人の子の隠れた降臨」の御働きを既に完了され、まもなく世界各国の各地において公に出現されるでしょう。世界各国の各地で神の御出現を渇望している人々は皆、神の公の御出現を見上げるでしょう。神の御国を侵害したり破壊したり出来る勢力は存在せず、神を拒む者全てが、神の怒りにより罰せられるでしょう。これは神の次の御言葉にあるとおりです。「わたしの国は全宇宙の上に形を取り始め、わたしの玉座は何億もの人々の心の中を統治する。天使たちの助けを借りて、わたしの偉業はまもなく実現されるだろう。わたしの子供たちとわたしの民は皆わたしが戻るのを息を殺して待ち、彼らが二度とばらばらにならないように再び結びつけることを強く望んでいる。わたしの国の多くの民衆が、わたしが彼らと共にいるのを喜んで、互いに駆け寄らずにはいられないだろう。これは対価を支払う必要のない再会なのだろうか。わたしはすべての人の目に尊敬に値する者として映り、すべての人の言葉によって宣言される。わたしが戻る時、わたしはすべての敵の力をさらに征服する。時は来た。わたしは自分の働きを始動させるだろう。わたしは人々の王として支配するだろう。わたしは今まさに戻る。そしてわたしは今や出発する。これはすべての人が望んでいること、彼らが希望することである。わたしは全人類にわたしの日の到来を見させよう。そして彼らにわたしの日の到来を喜びをもって歓迎させよう。」（『言葉は肉において現れる』の「二十七番目の言葉」より）「わたしの愛する者はみな、必ず永遠に生き、わたしに敵対する者はみな、必ず永遠に刑罰を受ける。わたしはねたみ深い神だから、わたしは人間の行いを軽々しく赦さない。わたしは地上すべてを観察し、世界の東に義と威厳、怒り、刑罰をもって現れ、すべての人間たちにわたしを現す。」（『言葉は肉において現れる』の「二十六番目の言葉」より）</p><p>神の驚くべき御働きは反キリスト、偽預言者、人の心を惑わす者を全て既に暴いています。それはまた神の恵みとパンで空腹を満たすことのみを求める偽信者も既に暴いています。神の裁きの御言葉は、人間の心と霊を貫く鋭い諸刃の剣のようで、咎められることを嫌う者や純粋な言葉を忌み嫌う者、真理を愛さない者に自らの真の素性をさらけ出させています。</p><p>神が御働きのために隠れて来られた際に表わされた御言葉には、人間の神に対する抵抗や反逆の真理が見て取れますが、それはおもに以下の三側面において表れます。</p><p>1.人間が往々にして罪を犯し、神に抵抗し、反逆するのは、ひとえにサタンが人間を堕落させた後、人間の本性がサタンの様々な毒に取り憑かれ、神に抵抗し、反逆する本性へと変化しているからです。したがって、人間は毎日罪を犯し、しばしばその罪を告白しますが、依然としてサタンのような本性の束縛から解放されることが出来ません。神に反逆する人間の本性は、人間の罪の根源です。</p><p>2.人間はサタンにより重篤に堕落させられています。人間の心はサタンの哲学、生活規則、思考方法のみで満たされているため、人間は神の御言葉が真理であることを理解することも知ることも出来なくなっています。聖霊の啓き照らし無しでは、人間は真理を受け入れられません。堕落した人間が神を信じても、単に神の存在を認めるだけであり、神が真理であられることを認めません。それゆえに、堕落した人間は往々にして神を非難し、攻撃し、抵抗し、反逆します。</p><p>3.人間はサタンにより過度に堕落させられています。<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/beholding-the-appearance-of-god-in-his-judgment-and-chastisement-selections.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>神の裁き</b></a>と刑罰や、受肉された神の<a href="https://jp.kingdomsalvation.org/gospel/salvation-1.html" target="_blank" class="u-lnk-clr"><b>救い</b></a>の御働き無くしては、長年にわたり神を信仰している人でさえも神を知ることはありません。そのような人は、自らの神への信仰において神の恵みを享受し、神が実在することを認めることしか出来ません。神を真に知ることが出来ないのです。宗教的な教義と観念で満たされるだけで、ますます傲慢で独善的になり、さらには大胆にも神を非難し、罵倒し、神の御働きを冒涜するようになります。これは何ら新しいことではなく、宗教界で頻繁に起こっています。これについて人々は大いに反省する必要があります。またこれは主イエス様の次の御言葉を完全に成就しています。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」（マタイによる福音書7章21―23節）私達は皆、宗教界には主の御名のもとに働きながらも、終わりの日における神の御働きを拒否し、非難する人があまりに多くいることをはっきりと目撃してきました。神を信じつつ、神がいることを認めるだけで、神が真理であられることを知らない人々は、神を拒み、攻撃し、冒涜しやすくなります。このような人々はある程度聖書と教義の知識があるために、自分が真理を備え、神を知っていると考えます。さらには聖霊の御働きを冒涜したり、受肉されたキリストに対抗することすらあります。彼らを待っているのは、神の義と威厳と怒りに満ちた裁きと懲罰だけです。神が公に登場される日に全てが明らかにされるでしょう。</p><p>各地で福音を説教している人々から、かつて全能神の御働きに抵抗したり、人々が全能神を受け入れるのを阻害したり妨害したりした者の多くが懲罰を受け、様々な程度の呪いを受けたとひんぱんに聞きました。それは私達の福音の働きを動機付ける好ましい役割をある程度果たしていると言えます。そうした情報を聞いて、私達は神の義を讃え、それにも増して私達の祈りを聞いて頂いていることを神に感謝せずにはいられませんでした。さらに、神への畏敬と敬愛の念が私達の心に自然に生まれました。神は、自らの羊を見捨てられることが無く、いわんや邪悪を行い神を拒む者を見逃されることなどありません。神はどこにでもいらっしゃり、全能で、神の御働きが敵対勢力により妨害されることはありえません。神は邪悪なものが懲罰をうけた事例を幾つも私達に示されました。これは私達一人ひとりへの無言の警告でもあると考えます。それゆえ、私達は懲罰を受けた人々の数多くの事例をまとめました。その範囲はカトリック教会その他の教派・宗派を網羅しています。期間は僅かに1993年から2002年までですが、地域的には二十四の省と市に及びます。全能神に抵抗して懲罰を受けた人々の事例を合計一万件以上を収集し、その中から八百七十件以上の典型的事例を選択しました。あらゆる人が教訓（全能神への抵抗したことへの懲罰の典型的事例）を得るには、これらの事例だけで十分です。</p><p>こうした神を拒んで懲罰を受けた者の衝撃的事例から、神への抵抗が比較的激烈であった人々の主要な類型を次の通り特定しました。</p><p>第一類型　　この類型の人々は、聖霊の御働きを知らず、識別することができなかったことが原因で、他人に欺されたり、たちの悪い官公吏に奴隷とされました。その結果、他人や官公吏に従って邪悪を行い、そうした者の言葉を復唱して、神に抵抗する言葉を数多く述べ、邪悪を行い、人々が神の御働きを受け入れるのを阻止しました。神はこの類型の人々に対して軽い懲罰を与えられただけで、命を奪われることはありませんでした。奇妙な病を患ったり、事故に遭ったり、家族に災いがあった人もいました。神はこの種の人々に対して悔い改める機会を授けました。もちろん、特に強情で、懲罰を受けても目覚めない者もいました。そうした者は邪悪を続行し、それゆえに切り捨てられました。</p><p>第二類型　　この類型の人々の殆どが、さまざまな教派・分派の指導者です。これらの人々は、自らの地位と神との間で選択に迫られました。彼らは自らの地位のために真の道を捨て、故意に神の御働きに抵抗し、自らの手中にある人々を支配しました。自らの地位がもたらす恩恵を永遠に享受するために、人々を欺して罠にかけました。どうやら自分の支配下にある人々を失うと自らの地位も失うようで、その地位無しでは生きていけないのです。それゆえ、神の羊を自分の羊であると主張し、神の選民をめぐって全力で神と競い合いました。典型的反キリストです。彼らが仕えたのは自らの地位と生計です。その心は冷酷になる一方でした。彼らは神の恵みを享受しながら、神の選民を支配することも望み、選民に与えられるべき選択の自由すら与えませんでした。まさしくこれらの人々こそが、主イエスが預言された悪い僕です。神はこれらの人々にも、その行動に応じて様々な程度の懲罰を与えられ、悔い改めの機会も授けました。しかし、抵抗を更に強め、悔い改めるよりも死ぬことを望んだ者も何人かいました。それゆえに神は彼らの命を絶えさせました。懲罰を受けた後に自制したり、邪悪な行いを止めた者について、神は命を奪われず、彼らの悔い改めを未だに待っておられます。</p><p>第三類型　　この類型の人々は、以前は悪霊に取り憑かれていたか、場合によっては悪霊に頼って超自然的能力を発揮しました。これらの人々は自らの中の悪霊による業を信じているものの、聖霊の御働きについては全く知識がありませんでした。その結果、神の新たな御働きについて説教を聞いた時、悪霊が彼らの中で激しい反抗を生じました。この類型の人々は聖霊の御働きに対して特に敵対的で、神が表された真理を何よりも忌み嫌いました。あらゆる教派・分派において、彼らが神に反抗する声は最も大きく、その行為は最も邪悪であり、神に対する反抗は最も凶暴で熱狂的でした。彼らは悪霊の道具であり、神の敵であり、サタンの一味であり、したがって皆最後には呪われ、地獄へ送られ、滅ぼされました。</p><p>第四類型　　懲罰を受けた者のうち、この類型の人々は三自教会に育てられた組織の中枢であった人々です。こうした人々は特に共産党に仕え、命を捧げており、神を真に信じる者全てと敵対関係にありました。国家権力に支えられ、政府の道具となりながら、神に真に付き従って神の証しに立つ人々を迫害しました。共産党から与えられた「飯茶碗」を持ち、共産党に代わり発言し、共産党に命を捧げ、宗教界において共産党の代弁者となりました。共産党こそが彼らの事実上の主人でした。彼らは殆どの場所において教会の指導者としての地位にあり、自らの手中にある無知な信者達を支配しました。神に抵抗する悪魔以外の何者でもありませんでした。まさにキリスト教を不信者でした。一時的に猛威を振るいましたが、呪われて滅ぼされました。</p><p>このようなカトリック教会や様々なキリスト教の教派・分派の著名人達は、全て神の懲罰を受け、その上呪われて死にました。なぜなら、神の御働きを非難し、神の旨が行われるのを阻止したからです。これは人々が熟考するべきことではないでしょうか。彼らが拒んだのが神であられなかったとしたら、一体誰が彼らを罰し命を奪うことが出来たでしょうか。彼らが真に神のものであったならば、一体誰に彼らの命を神の御手から奪う力があるでしょうか。神が義であられることを認めないというのでしょうか。</p><p>これら四類型の人々とその行動の事例から、そうした人々はその本性において真理を好まなかったことが明瞭に理解できます。彼らは、裁きと刑罰により人間を救い変化させる神の御働きに対して敵意のある姿勢を取り、人間の本性を暴き人間の魂を貫く神の御言葉を極度に忌み嫌い、さらには神の降臨が自らの楽しい夢を妨げたるかのように激怒しました。こうして、神に対して不平を言う彼らの心と神に反逆する彼らの本性が完全に暴かれました。さらに彼らは不謹慎にも神を非難し、冒涜し、抵抗し、圧倒するような傲慢さに満ちていました。二千年前に主イエスを迫害したパリサイ人よりも遙かに邪悪でした。彼らは自らの邪悪な行いのために、最後には懲罰を受け、呪われました。そうした人々の多くが、神の御性質は確かに侵害してはならないということを死が訪れた時になって初めて認識しました。しかし、彼らは闇ですすり泣き、歯ぎしりするほか為す術がありませんでした。事実がキリストを再び十字架に張り付ける者は滅ぼされるということを証明しました。</p><p>全能神は以下のように述べられました。「神の国は人間たちの間で拡大する。神の国は人間たちのただ中で形作られている。神の国は人間たちのただ中に建てられている。どんな力もわたしの国を破壊できない。今日、国にいるわたしの民のうち、誰が人間たちの中にあって、人間ではないのだろうか。あなたがたの誰が、人間である状態の外にあるのか。わたしの新たな出発点がもろもろの者たちに告げられたとき、人々は、どのように反応するだろう。あなたがたは、その目で人類の有様を見てきた。まことに、いまだ、この世界で永遠に存在を続けようという希望は抱いていまい。わたしは今、わが民の間を歩き回り、わが民の中で生きている。今日、わたしに本物の愛情をもっている人々は幸いである。わたしに服従する者は幸いである。その人たちは必ずや、わたしの国にとどまる。わたしを知る者は幸いである。その人たちは、必ずや、わたしの国で権力を持つであろう。わたしを追い求める者は幸いである。その人たちは必ずやサタンの縛めを逃れ、わたしの祝福を享受するだろう。自らに背くことのできる者は幸いである。その人たちは、必ずやわたしのものとなり、わたしの国の富を相続するであろう。わたしのために走り回る者を、わたしは覚え、わたしのために自ら持つものを費やす人を、わたしは喜んで抱こう。わたしに捧げ物をする人に、わたしは喜びとなるものを与えよう。わたしの言葉に喜びを見出す者を、わたしは祝福する。その人たちは必ずや、わたしの国の棟木を支える柱となる。その人たちは、必ずやわたしの家で何物も及ばない富を得、並びなき者となる。あなたがたは、与えられた祝福を受け入れたことがあるか。あなたがたは、自分に対して結ばれた約束を探し求めたことがあるか。あなたがたは、必ずや、わたしの光の導きの下、闇の力の拘束を打ち破るだろう。あなたがたは、絶対に、闇のただ中にあって、あなたがたを導く光を失いはしないだろう。あなたがたは、必ずや、すべての被造物の主人となる。あなたがたは、必ずや、サタンの前で勝利者となる。あなたがたは、必ずや、赤い大きな竜の国が滅びるとき、無数の者たちの中で立ち上がり、わたしの勝利を証しする。あなたがたは、必ずや、秦の国にあって、堅固で揺るぎないだろう。あなたがたの耐え忍んだ苦しみによって、あなたがたはわたしからの祝福を相続する。そして、必ずや、全宇宙においてわたしの栄光に輝くだろう。」（『言葉は肉において現れる』の「十九番目の言葉」より）</p>
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